か ら け ん


ずっと走り続けてきました。一休みしてまわりを見ます。
そしてまた走ります。

寝屋川 事件

2018年11月21日 | 事件事故

被告人に対し死刑判決が出たのは喜ばしい。(2018.12.19 大阪地裁 大阪高裁に控訴→取り下げ→死刑確定)

だが間違えてはいけないのは殺人罪に対する構成要件(犯罪成立に十分条件)を満たしたから死刑なのである。悪いこと、ひどいことをしたから死刑だったら今日の社会はブームに流される近代以前に逆戻りする。

どんな小さなグループでも、会社とか、組合とか、サークルとか、とにかくどんな集団であれ、一定の集団には本来、民主主義を否定する少数の構成員の存在を、その構成員自身が認めてしまう傾向がある。ワイマール共和国は民主的であったがゆえに独裁を許した。

日本人は、とくにそれに懲りているはずだ。(戦前のファシズム) なのに学校では、民主主義の本質とはなんであるかを学ばせないようにしている。どうでもいい学級委員の選挙はあっても校長を選ぶ選挙はない。西欧では校長は児童生徒や守衛まで含めて選挙で選ぶ。ほとんど輪番制といってよく権力を持つことはない。校長と教員の給与にほとんど差はなく、校長は授業も担当している。

日本のように戦前のファシズムさながらに、お気に入りをあるいは広島大出身を理由に校長を任命するところはない。法外な給与を与えている国も日本以外にはない。到底、民主主義のシステムが機能するはずはない。

流れに逆らうことのできる一人一人の正義感と倫理観とその強さがないと民主主義は成立しない。

 

今回の判決が不満なのではない。もっと早く殺しておくべきだった。なぜ前科10犯近く罪を犯した異常性欲を野放しにしたか。今更得意げに裁判所も警察も何を言うか。

 

ただ流れに合わせて流れていき、自分の子供さえ助かればいいと考える大多数の国民は、民主主義の危機を感じない。

その状況は不良の子供が一人二人死ぬことより恐ろしい思想をまき散らす。関東大震災の時、デマに酔い、自分を見失った、普段は善良で気弱なお父さんが、こん棒で人殺しをした。規模には諸説あるがとにかく殺したのは二人どころではない。

一方で、イスラエルでは全会一致の議決は無効である。異なる意見が存在しない社会は、ありえないと考える。不当な圧力が確実にあるような全会一致は無効なのだ。ところがおめでたい日本はどうだろう。全会一致は一番いいことだ。イスラエルでは、無理にでも反対意見を残し将来の改善の機会を保障する。

 

僕はそういう意味で裁判員制度には反対だ。すでに弊害が大きくなった。司法への住民参加は「12人の怒れる男たち」を現実化する。とくに高度の良心の素養と正義感と勇気がない日本人は、決定的誤りを犯す。流されるという誤りだ。

さあ、まともな中一のよい子が夜の九時半に女の子と一緒に人気のない商店街をうろつくだろうか。僕の娘はしない。させない。考えもしない。友達のうちに行く?嘘に決まってるだろ。その一言で夜9時に子供を外出させる家庭は非常識だ。

相手の家もそれを許す家か。夜の10時に泊まりますと友達が来る環境はまともな日本人の住む環境ではない。そして朝まで変態といて殺された。

こんな意見が出そうなものだが流れがそれをさせない。バカが勘違いしてよく文を読めずにコメントなんかでわめいてくるがもっと早く切るべきだった。

 

裁判員の評決は判決を正当化するのに役立った。それだけのことだ。不必要だ。住民の司法参加は、国会のみならず司法も衆愚司法をもたらした。

国民は裁判に参加してもしなくても、求められるのは高い知性だ。自分さえよければいいという考えを捨て、ほんの数年前に監禁罪を犯した男が街をうろつき不良アサリをする社会の存在を許さない国民であるべきなのだ。

 


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