福岡県南部の田園地帯。その中心に柳川市がある。
どぜう鍋のお店から5メートル。
北原白秋は、この町を「水に浮かぶ灰色の棺」という。彼は数学の成績が悪く柳川の伝習館中学(現高校)を退学になっている。国語の成績は開校以来の好成績だったそうだが、数学はこれまた開校以来のひどさだったらしい。
地元の中学を退学になったのだからあまり好印象はなかったと思う。
いい時代だ。それでも何とか早稲田に入るのだから。
今柳川市は「さげもん」祭りの真っ最中だ。
巾着、猫、ひょうたん、赤ちゃん、まり(柳川まり)、ネズミ、鶏など7個を糸でつなぐ。それを7本垂らすので7×7=49個ぶら下げる。49は縁起がよくないから真ん中に1個でかいのを下げてさげもん完成。
時間が止まったような世界だが、今のぼくたちがせっかちになっているのかも。
特に若い時期には、判で押したような変化のない日常が永劫回帰するかと思うと、ただこの町に住んでいるというだけで堪えがたい苦痛を感じる。
退学にこそならなかったが僕も白秋と同じ学校を出て同じ退屈を感じ、町は同じく灰色だった。
もったいないことをした。昨日と同じ日が今日であり明日であるということは、なんと幸せなことか。それがわからずにいたなんて、とんでもない考え違いだ。
ぼくは、権力にすがり糊口をしのぐ土民たちを軽蔑して柳川を出た。こんな田舎は嫌だと駄々をこねていたのだ。
しかし、どこも大した違いはないとわかるのに40年かかった。
今日と同じ明日が来るというだけでありがたいのだ。その日常に感謝して満足できるのは図太い人間性からくるものだ。
その繰り返しを退屈ととらえるのは実は弱い人間だったのだ。
話はかわって、柳川鍋。まだ夏でもないのに、「どぜう」が食いたくなった。どぜう一匹、うなぎ一匹。江戸の人はうまいことを言う。
価格はウナギ4切れ5000円、どぜう10匹1500円。
絶滅危惧種だそうだ。人間は責任を取らなくていいことは何でもする。種の創造や絶滅は神の領域だ。
ま、養殖だからいいのです。柳川、沖の端(おきのはた)
長い土間を抜けると
密なんてありえない。誰もいないから。
待たせるだけのことはある。
1500円でどぜうご膳が来る日常。僕は若い時は気が狂っていたようだ。こんな日常ならいくらあってもいいじゃないか。
毎月通うことにした。