仕事を始めたころ、自分の立ち位置は一番「下」。したがって、目に見えているルールや約束、しきたり、人間関係等とにかくあらゆるものが自分より上に存在。
この末端という自分。当初は、人に後れを取るまいととにかく頑張る。何も一番になろうとは思はない。そんな大それたことは思わない。とにかく自分がまともな仕事をしないことには始まらない。それができない場合、人間失格という烙印を押される気がしていた。立派な仕事中毒一年生だ。
仲間の足を引っ張らない。親兄弟に恥をかかせない。学校の後輩たちは僕を切り込み隊長だと思っている。・・・
僕は強迫観念のるつぼの中であえいでいたようだ。
何よりも自分自身に対して思うことがあった。ここまで努力してやっとつかんだ栄光を手放すようなことはできないぞ、と。
しかし、それも3年。昔の人ははうまいことを言った。針の筵ではなかったが、まあ、いわば石の上。そのうえで3年が過ぎたころ。だんだん組織の本当の姿が見えてくる。
どんな人が、いわゆる偉くなるかが見えてくる。つまり、まさかという人が「上」になっていく。
これ。不条理でないかい。と気がつく。
一方で、人格識見ともに優れ、企画力やすばやい状況把握、清濁併せ呑む広い度量、そしてやさしさを持ち合わせた人はあいかわらず僕と机を並べている。
5年もすると組織の上層に対する失望は殺意に変わっていく。
さらには、仲間内から昇進するものが出始めると昇進パーティ会場のトイレでは聞えよがしのひがみ声の大合唱だ。
「あのごますり野郎」「裏切もの」「東大閥でもないくせに」「なんのコネか」しまいには「恥を知れ」
勢いあまって、昇進することが犯罪かのようにまくしたてる。負け犬の傷のなめあいよ。
だが、これがこの輪の中にいるとなかなかわからない。
今思うと恥ずかしい。自分はこの人こそと思う人が冷や飯を食っているのを見て義憤に駆られていると思っていた。そう思って自分を納得させていたに過ぎなかったのに。
それに気がつく頃はたいていもう遅いのよね。
結論
日本というシステムの中では人格者は昇進しない。まれに昇進したら、その人は部下を絶対責めない。自分がかぶる。
日本という人を幸せにしないシステムは、バカの順に偉くなることで支えられている。この偉くなったバカは、きまって部下の無能を嘆く。