<前回のつづき>
李承晩は交渉初期において日本との会談が決裂すると日本海の公海上に好き勝手に平和線というものを引いて大韓民国の領海であると宣言した。この線を侵した日本の漁船をむやみに捕まえては釜山港に抑留するなど国際法上到底あり得ない強盗行為を行った。李承晩の本当の狙いはこうやって捕まえてきた日本漁船と漁師をカタに国境交渉において最大限のカネをもぎ取ろうというのであった。韓国政府自体がこのようにごり押しと強盗行為によって一貫して日本との交渉にあたったのである。だから韓国に対する日本国内の感情がよかろうはずもない。その結果日本は当時100万名に達した在日朝鮮人たちを対象に報復措置をとり在日同胞はいろいろな不利益を甘受するほかなかったのだ。
以後1961年のクーデターで政権を握った朴正煕は何らかの経済開発などしなければ政権が維持できないという切迫した気持であちこちの国に出かけ物乞い外交をしていた。1964年には、もしやという気持ちでヨーロッパまで出かけてみたものの誰も乞食国家の韓国にはカネを貸してくれなかった。貸してやっても回収する可能性が0なのだから当たり前だ。当時の韓国はソマリア、エチオピアと同様に世界3大最貧国に分類される国だった。北朝鮮は順調であったが韓国は悲惨な状況だった。韓国の住民たちは足りないながらもアメリカの援助物資によってかろうじて延命していた。
今も同様であるが、このような国家に借款とか経済協力であれ何の用途であってもカネを与えるということは回収可能性がほとんどないのだから貸してやることとたただそのまま与えるということは事実上同義であった。それなりに所得が同水準の分断国家であるという同病相憐れむという気持ちから韓国の看護院と鉱夫を送るという条件で4500万ドルを借りられただけだ。(ドイツは1998年、我々が経済恐慌に見舞われた時期に最も多くの投資と経済協力を提供し再建を助けた。多分ドイツは地球上で韓国に対してもっとも好意的な国家だ。)朴正煕の経済開発というのは日本からもらった6億ドルとベトナム戦争特需、この二つがなかったら不可能なことだった。
6億ドルということは今日年間1800億ドルを輸出し国内総生産が5000億ドルに達する韓国経済を基準にみるならどうということないカネだ。しかし、輸出1億ドルが国家的目標だった当時の価値で考えると、総輸出額(外貨獲得額)の6倍であり国内総生産の15%に該当するこの金額は今日の価値に換算すると1兆2千億ドルに該当し、国内総生産で見ても700億ドルに相当するすさまじい金額なのだ。当時は女でも軍人でも何でもかんでも売って外貨を生み出さねばならなかった韓国の行き詰った立場を考えると輸出額を基準にする価値基準がさらに現実的だといえる。とにかく日本はこのように韓国経済の再建初期段階にすさまじい規模の経済協力をすることで産業化のもととなるカネを提供した。
<つづく>