1937年盧溝橋を挟んで対峙していた日本軍と蒋介石政権軍は7月7日戦争状態に入った。支那兵が先に発砲したことを金科玉条のように何回も叫び日本軍の進攻を正当化しようとする人がいる。根拠の弱い発言だ。盧溝橋をどこだと思っている。瀬戸大橋ではない。ほとんど北京であり海岸から数百キロも中国奥地だ。
隣の家に土足で上がり喧嘩になって相手が先に殴ったとわめくだらしなさと同じだ。ここで出てくるのがカビの生えた言い草だ。ここで退却したら今まで戦死した皇軍兵士に申し訳ない。その理屈にしがみついて本当に最後の一兵まで戦ってあげくの果てには敗戦を迎えることになる。じつにぶざまだ。
宣戦布告もなく戦争目的もなく戦争範囲もなくだらだらと戦死者ばかりを増やしていった。内実は総力戦であったにもかかわらずことを小さく見せるため国民には日華事変と宣伝した。
便衣隊を射殺するのは通常の戦闘行為だが一般住民との区別は不可能だった。当然間違いが起こるが一人間違えて住民を射殺すれば必ずその親戚五人は支那兵になった。
そこで支那兵を殺すことと支那兵が増えることとどちらがが速いかの競争になる。
兵站が伸びきったところ山西省では北海道の二倍の広さの土地をわずか十万の日本兵で守ることとなった。恐怖は必ず虐殺を生む。おとなしくさせるには殺すが一番だ。その代わりどこからともなく飛んでくる銃弾に自らもあの世生きとなった。
それでも北支那はまだましだった。南支は人口も多く、なにしろ蒋介石の本拠地だった。従軍した帝国陸軍の兵士が言い得て妙なことを言っている。「中国は心臓がいくつもある生き物だ。やっと上海を落としたと思ったら南京が。南京を落とすと重慶が、成都が。とてもやりつくせる広さじゃない。」
西安事件で国共合作が成立すると日中は総力戦の渦の中に落ちていった。支那軍は爆撃機を保有するようになり揚子江に浮かぶ帝国海軍の艦艇は攻撃をうけた。暴支庸懲は帝国臣民の合言葉となった。ただ前線の兵士にはスローガンはどうでもいい。殺し殺される毎日が繰り返されるのみである。
南京に進軍したのは九州の部隊である。激戦地は猪突猛進の兵が珍重される。将校は突撃のとき怖気づいて壕から出られないでいる兵がいたら射殺しなければならない。そうして殺される兵はほとんどいなかった。ただ敵の水冷機関銃は間断なく撃ちつづけ将棋の駒を倒すように兵をなぎ倒した。
生き残った兵は敵愾心に狂い便衣隊を殺す。そうして北支と同じことが起こる。
誤解してもらっては困るのが、敵愾心だ。これは自分だけがもつものではない。敵も同様に敵愾心を持ち、捕虜は銃剣の的にしあるいは目玉をくりぬいてこちらの部隊に投げ込むことをする。
それでも帝国陸軍はどこまで進むかだれも分からない進軍をつづけた。なんと勝っているつもりでいたからお笑いだ。
中国は中国のものだから帰れと言っているのを参謀本部が理解することはなかった。