1990年5月12日パチンコ店の駐車場から連れ去られた女児が翌日渡良瀬川の河川敷で死体となって見つかった。被疑者の菅谷さんはわいせつ目的の誘拐と殺人の罪で無期懲役の刑に服した。誘導された菅谷さんの証言によると被害者の女児を自転車の後ろに乗せて連れ去ったという。しかしこれには多くの反対証言がある。女児はきわめて特異なスカートをはいていたこと、その時間は人通りが多く、多くの目撃証言があること。などが警察によって無視された。
ポイントとなるDNA鑑定だが、裁判所は現在と技術的精度の差異は認められないとして20年前の鑑定にこだわった。これはその当時、基準となる塩基配列をわずか500個しか抽出できなかったため、他人でも本人とされてしまう可能性が常に500分の1の確率で付きまとった。そしてその500分の1が起きてしまった。こうなるとあとは補強証拠だから少々ずさんでも問題ない。警察はねつ造した証拠品を世論や裁判員やひいては裁判官にアピールしようと躍起になる。
DNA鑑定はそれから格段の進歩を遂げほぼ地球上の一人を特定できるようになった。500分の1の誤謬の確率で死刑になっては僕はいやだ。検察が調べれば調べるほど菅谷さんの無罪は逆に明らかになって行き、付着した体液は他人のものということが明らかになった。
菅谷さんは釈放されたが、すでにこの事件の時効が成立していた。真犯人は笑って闇の中に消えた。もっと迅速な裁判が行われていれば我々は犯人を闇から引きずり出すことが十分にできた。マスコミによる明白な新証拠の提示がありつつ旧DNA鑑定を否定するのにこうまで時間がかかったのか、という取材に担当の裁判官たちはだれ一人答えなかった。
一方西の飯塚はきわめて残虐な結末を迎える。
1992年2月20日といえば足利事件とほぼ同時期だ。登校途中の女児2名が連れ去られ隣の甘木市の山中で虐殺死体となって発見された。これから4年前、警察は同じく小学校1年生が久間さんの自宅で遊んでいるという目撃証言を得る。これもその後重なる予見捜査の一つとなった。冷静になると子供と遊ぶことはだれでもあるということは分かるはずだ。
決め手はここでもDNAだった。当時としては新しく登場した本人識別技術に人々は指紋以上のものができたと考えた。ここにも500分の1の悪魔の偶然が潜んでいたのだ。こうなると足利事件と同様になにかしら確からしいDNAなるものの結論が出た以上、あとの捜査は補強証拠をねん出するためのねつ造あるいは予断の捜査になる。
6年もたって久間被告の自宅付近を捜査しなおすと30分もたたないうちに女児の服がほぼ新品で出てくる。その女児の服に付着していた繊維片は久間被告のクルマのシートと同一の可能性が高いとされた。この程度の証拠で人が死刑になっていいのか。
このころの公判のときDNA技術の格段の進歩により犯行当時の鑑定に大きな疑問が投げかけられてくる。
ところが最高裁第2小法廷は、「被告が犯人であることについては、合理的疑いを超えた高度の蓋然(がいぜん)性がある」「犯行は冷酷、非情かつ残忍で、極めて非人間的な行為によりまな娘を失った遺族らの被害感情も厳しい」「性的欲望を遂げようとした卑劣な犯行。抵抗する力の弱い女児の首を締め付けて窒息死させた態様も冷酷かつ非情」と述べて、1・2審の事実認定は正当として上告を棄却した。
死刑確定から2年後の08年10月28日、事件から約16年半、無実を叫ぶ久間に対して、麻生太郎内閣の森英介法相の命令により、福岡拘置所で死刑が執行された。享年70歳。
弁護士は、「寄せ集めの、あやふやな証拠で本当に死刑を執行していいのか」といっている。
現在久間死刑囚の再審請求の作業が進んでいる。もう遅い。死んで花見が咲くと言うのか。