太宰府シリーズの三回目です。
前回は「玄の墓」を訪ねましたが、今日は「水城跡」を訪ねます。
水城跡は、太宰府政庁跡の前を走る県道76号線を西に 約2.5km 行ったところにあります。
この地に、664年、博多湾から侵入してくる敵から太宰府政庁を護るために
土塁と水濠によって堤が築かれました。
この堤と水濠による防備施設が水城です。
その大きさは、堤の高さが9m、博多湾側に掘られた水濠は、深さ4m、幅60m、
その堤の延長距離は約1.2kmという巨大な要塞です。
この水城が築造されたのは、今からおよそ1350年前の664年です。
当たり前ですが重機などはありません。全て人の手で造られたのです。
それも主要な構造物は一年余りで完成させたようです。
果たしてこの大規模な土木工事が短期間に可能なのかどうか、
実際この地を訪れて、現物を目の前にして、率直にそう思いました。
素人の私がそう思うのですから、
古代史研究者には、
これは以前から既に築かれていた等の異説を唱える方もおられるようです。
当然だと思います。
このことはまたの機会にお話しするとして、
実はこのような巨大構築物を何が何でも造らなければならない切実な理由が。
当時の日本にあったのも事実です。
それは、明日にも隣国新羅と唐の連合軍が博多湾に侵攻してくるかもしれない
という緊迫した国際情勢にありました。
その原因は、水城が構築されたという一年前に遡った日本の軍事行動にありました。
日本は663年、新羅・唐に滅ぼされた百済国の再興を支援し、
かつてあった朝鮮半島に於ける日本の権益再確保を目的に2万7千人もの大軍を派遣しました。
数では圧倒的有利であった日本軍ですが、
旧百済国に上陸する前の、白村江の海戦で、唐・新羅連合軍に完敗してしまったのです。
海は日本軍の血で真っ赤に染まったと「旧唐書」では伝えています。
有名な「白村江の戦い」です。これを主導したのは中大兄皇子(天智天皇)です。
それは勢いに乗った唐または新羅がわが国に攻め入ってくる、
そして大和朝廷は滅ぼされるという至極直接的で単純なものです。
単純であるからこそ恐怖心は現実感あり、現実感があるから恐怖心はさらに倍加します。
大和朝廷に実行させることになります。
その一つがこの巨大な「水城」なのです。
そしてこの664年から始まる様々な防衛網の整備は、
667年の飛鳥から近江大津への遷都をするまでに至ります。
再び、この時期の歴史から現代日本が学ぶことが多々あります。
水城跡は、そうした古代日本の緊迫した情況を今に伝える貴重な遺跡です。
しかし残念ながら、
全てが経済効率最優先という名の錦の御旗に支配された現代日本にあって、
この遺跡は既に相当破壊され続けています。
今、日本人の心が問われている遺跡の一つであると思います。
水城1
下の写真は上の水城1の左にある小高い丘にある展望台から撮影したものです。
木が茂っているところが水城跡、これを挟んで左側が太宰府、右側が博多湾側です。
水城2
下の水城3は博多湾側から撮影したもので、
築造された当時のまま堤は二段になっているのがわかります。
右の田畑があるところに水濠が掘られていました。
水城3
END