日々雑感

豊かな四季の移ろいを記憶にとどめて行きたいと始めたフォトブログです。暫しご笑覧下さい。

太宰府を訪ねて(3) 水城跡

2012年06月20日 | 古社寺巡訪・福岡

 

 太宰府シリーズの三回目です。

前回は「玄の墓」を訪ねましたが、今日は「水城跡」を訪ねます。

 水城跡は、太宰府政庁跡の前を走る県道76号線を西に 約2.5km 行ったところにあります。
 この地に、664年、博多湾から侵入してくる敵から太宰府政庁を護るために
土塁と水濠によって堤が築かれました。
この堤と水濠による防備施設が水城です。


  その大きさは、堤の高さが9m、博多湾側に掘られた水濠は、深さ4m、幅60m、
その堤の延長距離は約1.2kmという巨大な要塞です。

  この水城が築造されたのは、今からおよそ1350年前の664年です。
当たり前ですが重機などはありません。全て人の手で造られたのです。
それも主要な構造物は一年余りで完成させたようです。
果たしてこの大規模な土木工事が短期間に可能なのかどうか、
実際この地を訪れて、現物を目の前にして、率直にそう思いました。
素人の私がそう思うのですから、

古代史研究者には、
これは以前から既に築かれていた等の異説を唱える方もおられるようです。
当然だと思います。

  このことはまたの機会にお話しするとして、
実はこのような巨大構築物を何が何でも造らなければならない切実な理由が。
当時の日本にあったのも事実です。
それは、明日にも隣国新羅と唐の連合軍が博多湾に侵攻してくるかもしれない
という緊迫した国際情勢にありました。

  その原因は、水城が構築されたという一年前に遡った日本の軍事行動にありました。
日本は663年、新羅・唐に滅ぼされた百済国の再興を支援し、
かつてあった朝鮮半島に於ける日本の権益再確保を目的に2万7千人もの大軍を派遣しました。
数では圧倒的有利であった日本軍ですが、
旧百済国に上陸する前の、白村江の海戦で、唐・新羅連合軍に完敗してしまったのです。
海は日本軍の血で真っ赤に染まったと「旧唐書」では伝えています。
有名な「白村江の戦い」です。これを主導したのは中大兄皇子(天智天皇)です。

 この敗戦は、日本の支配者大和朝廷に、かつて経験したことのない強い恐怖心をもたらしました。
それは勢いに乗った唐または新羅がわが国に攻め入ってくる、
そして大和朝廷は滅ぼされるという至極直接的で単純なものです。
単純であるからこそ恐怖心は現実感あり、現実感があるから恐怖心はさらに倍加します。
 敗戦後のこの強い恐怖心は、なり振り構わない、矢継ぎ早の様々な防衛策を
大和朝廷に実行させることになります。
その一つがこの巨大な「水城」なのです。
そしてこの664年から始まる様々な防衛網の整備は、
667年の飛鳥から近江大津への遷都をするまでに至ります。
 今、東アジアは大きく変化しようとしています。
再び、この時期の歴史から現代日本が学ぶことが多々あります。
水城跡は、そうした古代日本の緊迫した情況を今に伝える貴重な遺跡です。
しかし残念ながら、
全てが経済効率最優先という名の錦の御旗に支配された現代日本にあって、
この遺跡は既に相当破壊され続けています。
今、日本人の心が問われている遺跡の一つであると思います。
 下の写真は、博多湾側から撮ったもので、左の道路は県道76号線です。

水城1

下の写真は上の水城1の左にある小高い丘にある展望台から撮影したものです。
木が茂っているところが水城跡、これを挟んで左側が太宰府、右側が博多湾側です。

 

水城2

 下の水城3は博多湾側から撮影したもので、
築造された当時のまま堤は二段になっているのがわかります。
右の田畑があるところに水濠が掘られていました。

 

水城3

 

 


END

 


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豪雨から一転快晴 長居植物園

2012年06月17日 | 四季の移ろい 長居植物園

 昨晩の雨には本当に驚かされました。

余りの雨音の大きさに思わずベランダに出たのですが、

大粒の雨が叩き付けるようにアスファルト道路に落ち、

何時も見える高層マンションやビルの明かりが

雨に遮られて見えないほどでした。

 ところが今朝は一転して快晴、大気中の塵もすっかりこの豪雨に洗い流されたのでしょう、

空気が澄んでいるように感じられました。

これは長居植物園の樹木も・・・と思い立ち行ってきました。

 思ったとおり、最近どことなく埃っぽかった樹木が新緑の輝きを取り戻していました。

(^^;)


 

 大池の蓮の葉は昨日の雨のお陰でまた大きくなったようです

 

しかし、ハナショウブは相当ダメージを受けたようで、

あれだけ咲き誇っていたものがすっかり減っていました。

 アジサイ園にも寄りましたが、アジサイは雨に強い(?)のでしょうか、

まだまだ健在です。ただ、

せっかくの花々を葉が覆い隠す勢いで成長しており、そろそろ終盤という所でしょうか。


 

ところで、雨と関係があるのかどうかわかりませんが、

いつもより多くの蝶々が、大池の回りにある花壇に、飛び交っていました。

 

 いつも失敗していた飛行中の蝶を今日は何とか形にすることができました。

 

これも次から次と飛んできてくれた蝶のお陰です。

これも次から次と飛んできてくれた蝶のお陰です。

 

END


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明日香村・稲渕棚田を訪ねて

2012年06月15日 | 町並み・風景 奈良

 

奈良県明日香村の稲渕棚田を訪ねました。
稲渕棚田は日本棚田百選に選ばれているとのことです。

 

訪ねたこの日は久しぶりに朝から晴れ上がった良いお天気でした。
田植えが済んだ水田に青い空と白い雲が映り込んでいました。

 

棚田の間を走る道路。

 

この棚田の間を走る道路は 朝風峠 に至ります。

 

 この道の途中右手に稲渕地区の絶景が広がっていました。

全く車が通らない静寂のなかで、
この景色を眺められるという貴重なひとときを持つことができました。

  

 

END


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太宰府を訪ねて(2) 僧・玄の墓

2012年06月13日 | 古社寺巡訪・福岡

 太宰府シリーズの二回目です。前回は太宰府政庁跡を掲載しましたが、

今日は「玄の墓」を取り上げたいと思います。

 玄は、天平時代、聖武天皇の母・宮子や皇后・光明子の寵愛によって、

官僧として最高の位である僧正まで昇り詰め、僧の世界だけでなく、

政治にも関与して権勢を誇った僧です。

その盟友には吉備真備がおります。

 玄が絶頂期にあるとき、太宰府少弐であった藤原広嗣が、玄と吉備真備の朝廷からの排除を目的に、

その地位を利用して太宰府が統治する九州の兵を集め、乱を起こしたほどです。(740年)

 しかし、玄の栄光の日々は長くは続かず、

藤原仲麻呂という光明皇后の甥に当たる藤原一門のサラブレッドとの政権抗争に敗れ、

この太宰府の観世音寺に左遷されます。(745年)

 そして、その翌年に、完成した観世音寺の落慶法要を導師として務めましたが、

同年、暴漢に襲われ、あっけなくその波瀾万丈の生涯を閉じます。

襲った暴漢は藤原仲麻呂の刺客であった、あるいは藤原広嗣の遺臣であったなど、

異説が多々ありますが、僧正まで務めた高僧の死としては余りにも異常であったといえます。

 その玄のお墓が太宰府観世音寺の北西裏にひっそりとあります。

 この玄という人物の後世の評価は、真っ二つに分かれています。

一つは宮子夫人に深く取り入り、邪な行いによって政治を乱した悪僧であるというもの、

今ひとつは学問僧として在唐18年におよび法相宗を学び、

そして約5000巻の経を持ち帰って、

その後の日本仏教の発展に大きく寄与した高僧だとの評価です。

特に興福寺では、古くから玄を法相宗の法祖の一人として崇めており、現在もその評価は一貫しています。

 果たしてどちらが玄の真の人物像に近いのか、

玄が生きた時代から約1270年を経た今となっては誰にも本当のところはわかりません。

 ただ、この二つの評価のどちらでもない玄を、松本清張は小説「眩人」に描きました。

その玄は、実に狡猾な野心家、であるのにどこか隙だらけで、憎めない、人間くさい男として登場します。

 「わたくしの机辺に立ちのぼる煙草の煙のさきには、長安の花街が見えてくる。・・・」からはじまる清張らしいスケールの大きい小説です。

当時の唐の首都・長安の様子、そして古代日本で最も仏教・文化・芸術が華やいだ天平という時代を玄という僧を通じて、

読者の目の前に再現してくれます。

  下の写真中央の小さい石標が玄の墓です。宝篋印塔と呼ばれる石標ですが、

この制作年代は玄の死後約600年後の南北朝時代のものと考えられており、

実際に玄の墓がどこにあったのか、あるいはそもそも無かったのか、いずれも不明です。

  玄と同時代に生き、大僧正となった 「僧・行基の墓」と比較すると、

その墓が余りにも粗末なことに驚かされます。

そして、人の[評価」というものの恐ろしさをあらためて思い知らされました。

 「評価」は為政者が都合良く世論を誘導することによって定着すると言われています。

それは、現代にも連綿として生き続けています。簡単に「評価」を信じない、そうこの墓は私たちに教えてくれているのかも知れません。

 


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太宰府を訪ねて(1) 太宰府政庁跡

2012年06月08日 | 古社寺巡訪・福岡

 太宰府政庁跡は、日本の古代史に興味をもたれている方なら一度は訪れてみたいところの一つではないでしょうか。

 私もその一人で、太宰府、防人、観世音寺、玄、大伴旅人、山上憶良などの文字を歴史書で見る度に行ってみたいと思っておりました。

しかし、持ち前の出不精と、せっかく行くのならじっくりと遺跡や遺構を巡りたいという贅沢な思いが強く、なかなか行くことができませんでした。

 ところがこの3月中旬、突然思い立って行ってきました。私は事前に緻密な旅の計画を立てることが大の苦手です。

行くときはだいたいこのパターンで、旅から帰ってからしまった、あそこも行っておけばよかった、

もう少し足を伸ばせばここにも行けたのに、等々後悔の山を築くのです。


 今回も太宰府から帰ってから、もう3ケ月も経つというのに、未だに後悔と反省の日々を送っております。


太宰府政庁南大門跡

 実際に、この南大門跡に立ち広大な遺構を見渡したとき、何とも表現のしようのない複雑な感情が私を包み込みました。

大阪から丸一日車を飛ばしやって来たはずです。それが車を降り、

政庁跡に立った途端に古都奈良に一瞬にして逆戻りした気持ちになったのです。

おや!ここは奈良の藤原京跡か、いや明日香村の川原寺跡か、いや平城京跡か、どれとも違う、

しかしどれとも実に空気感が一致しているのです。

 この理由は太宰府も藤原京も平城京も風水思想に基づいて造営地が選ばれ建設された都城であるためだとよく言われます。

 しかし、「同じ風水思想に基づいて・・・」という説明では、

この時に体感した不思議で複雑なモノは何だったのか整理しきれないものでした。

あれから三ヶ月経ちましたが、未整理のまま、脳内に沈殿しています。

 実はこのことが気になって、太宰府政庁跡に立ったときに、

ふっと瞬間、脳裏をかすめた奈良県明日香村の川原寺跡に行き、

しばらく周囲を見やりながら立ってみました。

やはり、太宰府政庁南大門跡で感じた記憶が鮮明に蘇るのを感じました。

 時を超えた何かがこの両者にはあるのでしょうか。


太宰府政庁正殿跡

 ここに正殿がありました。奥に見える山は四王寺山です。

この頂上には太宰府の防衛施設の一つで、古代朝鮮式山城・大野城が築かれていました。

今もその遺構が残されています。


太宰府政庁復元模型

 この遺跡を発掘調査の結果、判明した当時の太宰府政庁を復元した模型が、太宰府展示館に置かれていました。

 行き当たりばったりの旅でしたが、今回は先程書きましたような貴重な体験をすることができました。

是非もう一度、訪ねてみたい太宰府です。

END

 


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