天野山金剛寺を訪ねました。
金剛寺は河内長野市の山峡にある真言宗御室派の古刹です。
寺伝では奈良時代の聖武天皇の命を受けて僧・行基が建立、それから約400年下って、
荒廃していたこの金剛寺を高野山の阿観上人が再興されたと伝えています。
この時期は平安時代末期で平清盛が権勢を振るっていた時代です。
この寺院を訪れるのは何度目でしょうか。
その度にこの寺院の創建に深く関わった八条院という日本史上最高のセレブのことが思い浮かびます。
そこで今回は八条院を中心に、史実と私の想像(幻想)を交えながら天野山金剛寺の創建を語りたいと思います。
楼門
この立派な楼門を見れば、この寺院の格式の高さを窺い知れますが、実は高野山の阿観上人には強力なスポンサーがおりました。
この時代の最富豪であった八条院という女性です。
彼女は、単なる富豪ではありません。父は、鳥羽天皇で、母は皇后で藤原氏出身の藤原得子でした。
幼き頃から見目麗しく聡明な彼女は、父である鳥羽天皇の寵愛を一身に受け育ちます。
鳥羽院は真剣に彼女に天皇を継がせようとさえしたと伝わっています。
父母亡き後、その両方の莫大な財産を相続し、当時、全国に八条院領と呼ばれる広大な荘園を 領することになります。
彼女は、この莫大な財力と鳥羽院の嫡流としての権威を兼ね備え、その上、陰湿な権力闘争が渦巻く貴族社会を生き抜く優れた知力もありました。
長い日本の貴族の歴史のなかでも、
血統・財力・知力・容姿を持ち合わせた女性は後にも先にも彼女以外に存在しないのではないでしょうか。
今日風に言えば、まさに一点の曇りもない正真正銘のセレブであったといえます。
そして父鳥羽院が崩御後、その菩提を弔うために若くして出家していた彼女は、当然と言えば当然ですが生涯独身を貫き通しました。
当時、高野山は女人禁制でした。
普通なら、「あ、そうですか」となるこの時代ですが、生まれもってセレブであった八条院は発想が常人とは異なっていました。
「高野山のお偉い人が”おなご”が来たらあかんと仰せなら、高野山とそっくりのお寺さんを一つ、三つ造ってみまひょか、なぁ~、阿観はん」
と、高野山の「お偉い人」の中の一人で、子供の頃から知る阿観上人に、アッケラカンと欠伸混じりで言われました。そしてこう付け足しました。
「どこぞ、ええとこおへんか~」
言われた阿観上人は一瞬、絶句してしまいます。
しかし、そこは天下の秀才中の秀才でその名を知らぬものがいない阿観上人です。
「しめた、これは金になる」とつぶやきます。
「これはこれは、拙僧、あらためて八条院さまの心深き様子、思い知らされました。
早速にも八条院さまの御心に叶うて見せましょう」
出来上がったのがこの天野山金剛寺です。
高野山金剛峯寺は峰にあるのに対して、天野山金剛寺は谷底にあります。
ここには、元々、空海が修業したとも伝わっている山峡寺院がありました。
目の前には天野川が流れ、周囲は鬱蒼とした木々が生い茂っています。
この高野山との対比に目をつけた阿観上人の意図はどこにあったのでしょうか。
高野山が表で天野山金剛寺は裏だったのでしょうか、
それともその逆だったのか、血統・財力・知力、全てを兼ね備えた貴人・八条院を前にして、
己が才知のみを頼りとして生き、僧としての地位を築きあげてきた阿観の屈折したコンプレックスの発露、
即ち「精一杯の皮肉」だったかもしれません。
阿観上人の秘められた思惑は兎も角として、この地での寺院建立願書が、八条院から朝廷に奏上され、あっさりと許可が出されます。
それもそのはずで、許可を出した後白河法皇は八条院の後ろ盾あっての法皇だったのです。
そして当時の権力者は実質上、平清盛でしたが、八条院はどちらかというと反平氏の側にいたにも拘わらず、
さすがの清盛も八条院には手が出せなかったばかりか、
直接関わり合うのを避けていた様子さえ窺えるのです。
そして遂に承安元年(1171)、金堂・宝塔・御影堂・鐘楼・食堂・中門などが建立されます。
無論、創建時の堂舎は金堂を除いて残されていません。
しかし、鬱蒼とした木々の生い茂る山々の谷間に、静かに流れる天野川の清流と
金剛寺伽藍の落ち着いた佇まいは往時を偲ぶには充分すぎるほどに訪れるものを包み込んでくれます。
金堂
訪れた時は解体修理の真っ最中でした。この写真は平成22年に撮ったものです。
多宝塔
食堂(天野殿)
御影堂・観月亭
訪れた時は金堂の解体修理中で、この堂舎は撮影できませんでした。
したがって、この写真は平成22年に撮ったものです。
続く
次回は [ 南北朝時代、南朝を支えた天野山金剛寺 ]