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小銅鐸は奴国の宮廷祭祀用か?!(^_-)-☆

2024-12-20 21:14:24 | 古代史

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結局馬の渡来よりも銅鐸の方が早く来ちゃったので、なんの道具かわからずに、楽器にしてしまったように思います。 で、日本国内で再現したときに、飾りをつけたり、大きくしたりしたんじゃないかな? 当然馬に装着するとは思ってない様子。 なんとなく、祭祀というよりはイベントのときに鳴らすものだったように感じます。なのでだんだん大きくなっていったんじゃね? 三種の神器とか十種の神宝には「入ってない」のをみるに、実は思ったほど重要ではなかったのかもしれませんなぁ。

@katumoku10
YOさん、こんばんは!

小銅鐸は、周代以前から楽師が祭祀で音を鳴らす楽器編鐘の一部だと思います。日本では全部そろったものは発見されていませんので、多分、一個か二個でやっていたのかも知れませんね(注1)。(2024.12.21 赤字修正)

倭国王帥升ですが、帥姓の本は師姓で、西晋時代に司馬師の諱を避けるために帥姓に変えられたと文献にあります。その師姓は「風俗通義」によると殷王朝時代から楽師の官位を表す姓とありますので、師升は奴国宮廷楽師だったようです(注2)。

それが反乱を起こして奴国王(宋史王年代紀十八代王素戔嗚尊)を殺して倭国王に認められるために160人ものスサノヲの部下らを生口として献上した人物です。

聖職者だった証拠が1948年に室見川河口で発見された黄銅製文鎮のような金属板「室見川銘板」で、延光四年125年と彫られており、金文の内容が祭祀を整えたというものなので、伊都国を王都とした師升王が作ったと分かりました。師升の祖先は恐らく徐福が連れて来たシナ人と推理しています。王殺しは平気ですから( ^)o(^ )(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)

スサノヲを拷問して全財産を贖罪としたことが古事記にありますので、恐らくスサノヲの部下のアズミ族(江南系倭人)がいち早く金印を持ち出し、逃げる途中で志賀島に埋めたようです。それがたまたま江戸時代に発見されたのでしょう。漢代の金印の金の純度が95%もあるなどというのは、現代になっていくつか金印が出土して分かったので、贋作などは不可能でしょう。もしも贋作ならば、職人に作らせるための指示書が見つからないとダメですね。これは河村哲夫先生の動画で勉強しました(;^ω^)

 

(注1)

1.韓国式小銅鐸……宇佐市別府遺跡(参照:史料5
 1977年に発見されたこの小銅鐸はわが国発見韓国式小銅鐸の第1号で、以来後続資料の発見はない貴重品である。後原総高11.6センチで、韓国慶尚北道月城郡入室里遺跡発見の第1号小銅鐸と形状・法量ともに最も近似している(「北部九州(大分)の弥生文化と半島系遺物」より)。

紀元前473年に滅んだ呉の王族が半島南部に逃れて、祖霊祭祀に使用したと推理しています。元々は呉の宮廷で以下のような編鍾を使用していたと思われますが、逃避先では資力もないので大掛かりなものは作れなかったので、1・2個で代用したのではないかと考えています。

wiki「編鍾」によると、「1978年湖北省随県戦国時代初期の遺跡曾侯乙墓で出土したもので、鐘ですから舌があって揺らすと音が出る楽器」で、「春秋時代ごろに出現した。上流社会で使われ、権力の象徴でもあった。」とあります。中段のものはハンドベルのようなものですが、下段の大きなものと上段の小さなものは握りがないし、舌の下のヒモもないようですので、棒で叩いて鳴らしたのでしょうか。韓国式小銅鐸は木の枝などに吊るし、舌の下のヒモを引っ張って鳴らしていたようですが、大きさと形状が上段のものに近いです(^_-)-☆

(注2)シナ版wiki(维基百科)「帥姓」によると「西晋の武帝司馬炎は、叔父の司馬師の後を継いで晋の景帝となり、世に「師」という名前を使うタブーを避けるよう命じたため、師の姓を持つ一部の人々が改名されました。」(Google翻訳)とあり、帥升は奴国宮廷楽師の師升です(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。

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師升らのクーデターで奴国王スサノヲを捕らえて拷問して殺したことが古事記にあります。金印の在りかを白状させて、奴国王に成りすますためですね。「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐(その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男すさのおにたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切ってはらえをし、高天原たかまのはらから追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命より引用)

帥升が奴国宮廷楽師だったと分かる物証がこれですよ(^_-)-☆

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