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すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

「倭の五王」は九州王朝の大王ではなかった!(;^ω^)

2024-12-26 09:39:52 | 古代史

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九州王朝説(きゅうしゅうおうちょうせつ)は、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝があり、太宰府(だざいふ)がその首都であったとする説であるwiki「九州王朝説」より)。戦前から学者の間でも主張されていましたが、古田武彦「失われた九州王朝」(朝日文庫 1993)が大人気となり、学者・アマチュアによってこれに派生する様々な仮説が登場しました。しかし、学会で論争となり、安本美典「虚妄の九州王朝」(梓書院 1995)などによって九州王朝説が批判され、現在では古田氏の説を継承する「古田史学の会」などで研究活動が続けられています。この会の事務局長正木裕氏が以下の動画で文献や考古学資料をもとに「倭の五王」が北部九州の大王と主張されていましたので、いつものように不躾なコメントをしました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)

本当の「倭の5王」 -- 不都合な真実に目をそむけたNHKスペシャル古代ミステリー 正木裕講演@YouTube

とても参考になるいいご講演を有難うございます。

現存する最古の正史「日本書紀」は天皇の歴史書ではなく、藤原不比等が不都合な史実を隠すために捏造した勝者の歴史書だということが分かりました。現存する最古の歴史書の古事記は、9世紀の学者が日本書紀の勉強会で突然表に出してきたもので、正史に記録はありませんし、日本書紀が古事記を参照した痕跡もないのです。基本的に日本書紀に添って日本書紀とは異なる話を入れることにより隠された史実をそれとなく暴露する目的の暗号書だったと分かりました。

この暗号を解くと、高天原に最初に降り立った天御中主神は宋史王年代紀の初代奴国王天御中主で、狗邪韓国(任那)から福岡市吉武高木遺跡に遷都した呉の王族だったということが分かります。つまり日本は古の倭の奴国でした(詳細は「王年代紀は記紀神話を正した!」「「記紀は天皇の歴史書」が古代妄想?」参照)。

スサノヲが高天原を追放される時に、八百万の神々から拷問を受けて、全財産を取り上げられて追放された話を古事記が書いていますが、史実は107年に後漢安帝に160人の生口を献上した倭国王帥升(正しくは、奴国宮廷楽師の師升)が反乱を起こし、金印の在りかを白状させるために十八代奴国王スサノヲを拷問したと分かりました。これによって倭国大乱の原因も判明し、考古学の成果から卑弥呼の正体まで推理できました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」参照)。また、三世紀後半の日本建国の戦いの痕跡も考古学の成果から分かり、日本書紀が崇神天皇の四道将軍から応神天皇即位までの約350年の話に引き延ばして創作したことも判明しました(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

地図をクリックするとGoogle Mapに飛びますのでお楽しみください(#^.^#))

さらに古事記の崩年干支から空白の150年に隠された二人の天皇と倭の五王の正体も分かりましたし(詳細は「空白の世紀と倭の五王の謎(その1)(その2)(その3)」参照)、アメノタリシヒコが二人いたことも、天武天皇と兄弟にされた天智天皇の系譜も古事記から推理できました(詳細は「【刮目天の古代史】天智天皇の謎?」参照)。不比等が隠したかったことを推理すると古代史の真相が分かってきました。

 

ということで、スサノヲ・大国主の子孫の応神天皇系ヤマトの大王と、吉備・北部九州を拠点としたニギハヤヒ大王を祖とする狗奴国(旧奴国)王の勢力との権力争いが四世紀から七世紀まで続いたので、九州にあたかも別の王朝があったように見えたと考えられます。詳しくは刮目天の古代史をご参照ください。お邪魔しました。


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