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#2021-12-18 12:38:10に記事にしましたが、若干見直して一部追加し、(注1)に注記しました。よろしければまたお付き合いください(#^.^#)
#2018-06-02 00:21:39に記事にしましたが、古代史について発信されているユーチューバーのまあちゃんさんの動画『【[邪馬台国】旧唐書・新唐書から見える古代日本の成立について考えてみました。』(2018/05/31 )にコメントしたところ、この記事をYouTubeで流して頂きました。古代史研究の盲点の重要事項ですので、少し書き足して再度この記事を掲載いたします。最後までお付き合いください。
日本という国号に関しては、応神天皇が即位した280年頃に、ヤマト王権が倭国から大倭国、大和国へ、そして日本国へと変えようとしたようだ。西晋の恵帝(290-306年)の代に「日本」という号が見られるのだ(神野志隆光『「日本」国号の由来と歴史』講談社学術文庫、2016年10月11日、p.68-69)。
倭国は、ヤマト王権のルーツである奴国から国王を追放した、恨みのある帥升王が興した国だから、ヤマト王権にとって不名誉な歴史のある国名だ(詳細は、「何故、大和をヤマトと呼ぶのか?」 参照)。
だが、ヤマト王権がいくら国号を変えようとしても、当時はシナの了解がなければ国際的に認められないのだ(;´Д`)
607年の聖徳太子から隋の煬帝に宛てた有名な手紙「日の出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙(つつが)無きや云々」からも、日本国は対等の独立国だという意識があらわれている(藤堂明保ほか「倭国伝」講談社学術文庫2000、p.192)。
いつまでも倭国としてシナの冊封体制に組み込まれているのは嫌だと考えていたことが分かる。この話の載っている「隋書」までのシナの正史には国号をすべて「倭国」として記されているのだ。
聖徳太子の考えが天武天皇に引き継がれ、シナに「日本国」の国号を認めさせるために日本の正史「日本書紀」を編纂するように詔されたのだが、完成前に崩御され、さらに持統天皇に引き継がれた。シナの律令制度導入に取り掛かっている頃の701年に遣唐使粟田朝臣真人を派遣して「倭国」から「日本国」へ国号変更をシナに正式に要請したが、後述するように、通説とは異なり、それは認められなかったのだ(注1)。(2024.12.6 青字追加)
シナの朝廷(丁度、則天武后が国号を唐から(大)周に変更していた)に倭の奴国からヤマト王権成立までのややこしい経緯を詳細に述べることもできないので、恐らく都を筑紫から大和に神武天皇が遷されたと記した『帝紀』・『旧辞』に基づいて神武東征を説明したのだろう(注2)。
しかし、その中に金印を賜った倭の奴国の話が出てこなかったから、シナ人には史実を無視して高天原神話や天孫降臨の神話などを説明したとしても、全く理解できなかったのだと思う。
さらに、6世紀の南朝梁の任昉(にんぼう)が撰したとされている『述異記』(じゅついき)という「山川等地理に関する異聞や、珍しい動植物に関する話などを多く集め」た小説集の中に「日本国に重さ一斤(約500グラム)の金の桃がなる木がある」(増訂漢魏叢書. 載籍第71册,国会図書館デジタルコレクション18コマ左頁)という話が出ており、当時のシナ人たちに「日本は黄金の国」とのイメージが出来上がっていたこともあるのだと思う(王勇「中国史の中の日本像」農山漁村文化協会,2000,pp.74-75)。
945年に完成した「旧唐書」の編纂者らは、倭国の条の冒頭に「倭国は古の倭の奴国也」と書き、
日本の条に
『日本国は、倭国の別種也。其の国、日の辺に在るを以って、故に日本を以って名と為す。或いは曰く、「倭国自ら其の名の雅やかならずを悪み、改めて日本と為す」と。
或いは云う、「日本、旧くは小国なれども、倭国の地を併せたり」と。
其の人、〔唐の〕朝〔廷〕に入る者、多くは自ら大を矜(ほこ)り、実を以って対(こた)えず。故に中国は焉(これ)を〔どこまで真なりや〕と疑う。』とあり(藤堂、上掲書,pp.205-208)、更に粟田真人の後の遣唐使の話の中で「日本に調布の制度があるなんて嘘だろう」とも書いている。
大和朝廷としても、838年最後の遣唐使を送った後に、これ以上シナに納得してもらうのは難しいということも遣唐使廃止に繋がっているのかもしれない( ^)o(^ )
そして、唐が滅び、五代十国から宋になって、984年東大寺の僧奝然(ちょうねん)に「王年代紀」などを持たせて遣使した。太宗に謁見し、これらを献上し、手厚くもてなしを受けた。『太宗は、日本国王が一姓の世襲であり、臣下もすべて世襲の官だと聞くと、嘆息して宰相にこう言われた。「彼らはたかが島国の夷(えびす)だ。にもかかわらず、国王の位は久しきにわたって世襲し、その臣もまた親の後を継いで絶えることがない。これこそ古の理想の道と称すべきであろう。ひるがえって中国は、・・・・』(藤堂、上掲書、pp.300-301)。
「王年代紀」には初代天御中主から彦瀲尊(ひこなぎさのみこと)までの二十三代の王都は「筑紫の日向宮」にあって、彦瀲尊の4男神武天皇が大和の橿原宮に遷し、その後の64代円融天皇まで書かれている。
これによって、シナは日本の神代の話が倭の奴国のことだと理解した。だから、1060年に完成した「新唐書 日本」の冒頭で「日本は、古の倭の奴也」と書いてもらい、「倭国」から「日本国」にようやく認められたことが分かる(注3)。
結局、国号変更を正式に認めてもらい、史書に載せてもらうまでに、ヤマト王権成立から何と、800年近く掛かったという気の長い話だ!(;´Д`)
大変、お疲れ様でした(^◇^)
【付録】中国文献(三国志~宋史)に関連する年表
(左クリックで拡大)
(注1)736年に完成した「史記正義」という司馬遷「史記」の注釈書の中で「則天武后が倭を改めて日本にした」と神野志隆光『「日本」とは何か』講談社現代新書)で指摘されているとある(『日本はいつから「日本」なのか?』より)。だから、通説では正式にシナに認められたように理解されているのだが、後述するシナの正史「旧唐書」には倭と日本が登場するので、「日本」という国号が「倭国」から変更されたと正式に認められたというわけではないのだ(;^ω^)(2024.12.6 青字追加)
(注2)『帝紀』・『旧辞』の存在は「古事記」序文に書かれている。九世紀の朝廷で「日本書紀」の講義をしていた多人長が序文を書いたと考えられている。Wiki『帝紀』によれば『681年(天武天皇10年)より天智天皇2子の川島皇子と忍壁皇子が勅命により編纂し、皇室の系譜の伝承を記したという。』とあるが、現存しない。720年に完成した「日本書紀」も、712年に完成したとされる「古事記」も『帝紀』・『旧辞』を参考にして編纂されたとされているが、たとえそれらが記紀の編纂当時に存在していたとしても内容は異なるはず。「日本書紀」は藤原不比等が権力を維持するために、不都合な日本建国の歴史を隠蔽し、藤原氏に都合のよいように改ざんした歴史書だと分かって来た。このような正史は、701年に完成した大宝律令と共に、朝廷で藤原氏が他の豪族を追い落とし、藤原氏だけが栄耀栄華を誇るための道具として利用された。「古事記」は基本的に「日本書紀」に倣いながら、歴史の真相を暗号のようにして暴露している(「古代史を科学的に解明するアブダクションとは?(その4)」参照)。
正史が編纂された奈良時代から平安時代・室町時代くらいまでの人々は日本建国の真相を理解していたようで、天変地異は建国当時の悲惨な死に方をした貴人の祟りだと信じて各地で丁重に祀っていたことから分かる。祟るはずのない人物(神功皇后や宗像三女神など)が祟るのだから、正史のウソがわかる。最近の研究では万葉集も歴史の真相を暴露するための暗号であることが明らかにされている。江戸時代の文化人らも皇祖神天照大御神が男性だと突き止めていた。
記紀に書かれた神話などは史実が基になっている部分があるので、編纂者の真の目的を推理すれば、古代史の謎を解くためのヒントを与える貴重な古典文学だというのが正しい理解だ。
(注3)「新唐書」では王が筑紫日向の宮に三十二代居たと書いているが、王の名を列挙していない。1345年に完成した「宋史」の記述が二十三代の王を列挙しているので、これが正しいと思われる。
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王年代紀は記紀神話を正した!(^_-)-☆
10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
最後までお付き合い、ありがとうございます。
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