刮目天(かつもくてん)のブログだ!

すべての仮説は検証しないと古代妄想かも知れません!新しい発想で科学的に古代史の謎解きに挑戦します!

「事実に反する畿内説に固執」?古代妄想だよ!(;^ω^)

2024-12-09 00:00:01 | 古代史

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#とてもいい質問コメントをtorachan208さんから頂いたので、ご説明します。よろしければ、お付き合いください。

前回は詳しいコメントありがとうございます😊それにしても三国志の時代に、日本の女王が接点があった事に、壮大なスケールを感じました。映画キングダムを観た時にも感じました😊前回は卑弥呼の場所について私は近畿と思っているのですが、九州説の最大根拠を幾つか教えていただけますでしょうか?

またまた、いいコメント感謝します( ^)o(^ )
九州説の根拠はいくつかありますが、河村哲夫先生の動画に詳しくありますので是非、ご覧ください。

一番支持されている説は、邪馬台国への行程記事で万二千里のうち末盧国まで一万里で、残りは二千里ですから、九州から出ることはないというものでしょうか。

そして、安本美典先生も鉄その他の遺物の奈良県との比較から99%福岡県だとおっしゃるように、魏志倭人伝の記述にあるとおり考古学の成果が九州説を支持しています。

刮目天の見解ですが、行程記事は政治的な理由で作られていますので、これを頼りにしては誰もが納得する位置を探せないということで、魏志倭人伝に邪馬台国あるいは女王国と記述されているわけですから、記事の内容と考古学の成果が一致する部分はウソではない可能性があります。

そして金印などのように見つけた人が容易に持ち運べるような遺物は、発掘された場所が邪馬台国だという決め手にはならないかもしれないので、墓などの発見された遺構や遺跡から候補を探すのが良いという意見を前回のブログ記事で述べたのです。

そして魏志倭人伝にある通りの卑弥呼の墓を発見していますので、これは有力な候補として考えられるということなのです。もしも、他にも条件に合う候補地が見つかれば、その他の証拠から優劣を決めることができるということなのです。いかがでしょうか?

torachan208さんが邪馬台国は近畿にあったとする根拠は論理的に上で説明したものを上回るとお考えでしたら、詳しく教えて下さい。よろしくお願いします(#^.^#)

 

畿内説の根拠としては纏向遺跡や箸墓古墳等大きな古墳が多くある事。

その周囲から大量の銅鏡や三角縁神獣鏡が見つかっている。

邪馬台国と大和の名前が似ている。

纏向遺跡から卑弥呼の時代の、植物の種が見つかっている。

畿内の都市遺跡が、当時の建築物としては最大である事。

※逆に弥生時代の鉄製品、絹織物等の出土が無い事が、畿内説を弱めているかと思います。

確かに纏向遺跡は大集落ですが、先の記事にあるように卑弥呼は人前に出ないし、卑弥呼の婢は千人ではなく、殉葬されたのが百余人ですから、千は大袈裟な数字でしょう。邪馬台国が七万余戸というのも、当時奴国の列島最大の交易センター比恵・那珂遺跡群で2万余戸(約10万人)ですから、かなり大袈裟です。倭国が全体で14万余戸というのは、東夷の大国だと主張するための誇張された数字と見るのが妥当です(洛陽で10万戸なのです)。

また纏向遺跡は環濠集落ではなく、防御性はありませんので魏志倭人伝の記述に合いません。

そして纏向遺跡の古墳ですが、最初の前方後円墳が三世紀初頭の石塚古墳で、三世紀末から列島各地で前方後円墳が作られるようになりますので、ヤマト王権成立はその頃纏向で発祥したとされています。

先にも述べましたが三世紀前半の卑弥呼の時代の北部九州の人々が纏向遺跡に来ていないのですよ。

これは纏向遺跡が邪馬台国ではないことの決定的な証拠になります。

纏向遺跡では戦乱の痕跡がありませんので、卑弥呼の倭国と対立していた狗奴国と推理しています。3世紀後半の戦争の痕跡が崇神天皇の四道将軍や景行天皇の九州遠征・ヤマトタケルの東国遠征のルート上から出土していますので、纏向遺跡の狗奴国勢が日本を統一したと分かるのです(詳細は「鉄鏃・銅鏃の出土状況のデータ共有」参照)。

纏向遺跡で2千個くらい見つかった桃の種は祈祷や占いで使ったようです。吉備の上東遺跡などから合わせて1万個以上出土していますので、吉備の勢力が纏向遺跡を造ったと分かります。その他にも前方後円墳の祭祀に使われた円筒型土器と特殊器台やナーガを象った弧文円板なども奴国(龍蛇神国)由来の吉備のものですので、狗奴国王卑弥弓呼(崇神天皇)は吉備を平定してヤマト王権の基礎を築いたニギハヤヒ大王の子孫だと推理しています(詳細は「【検証7】桃太郎はニギハヤヒだった?」参照)。

ですから、纏向遺跡が当時の最大級の集落だからと言って、邪馬台国だと決めつけることはできないのです。

ヤマトの名称は邪馬台国から来ていますが、280年に西晋によって呉が滅ぼされたことに関係します。狗奴国が西晋に朝貢していた大国主高野御子と女王台与の倭国を滅ぼしたために、西晋に追討されることを怖れて二人の子ホムダワケを探し出してヤマトの祭祀王応神天皇として初代ヤマトの大王に即位させて、狗奴国を邪馬台国の後継国としたと推理しています。日本書紀崇神天皇紀のオオタタネコの話です。ですから、箸墓で母の神功皇后(女王台与)を、桜井茶臼山古墳で大国主高野御子を宗像明神として改葬したと推理しています(詳細は「【検証27】箸墓の築造年代は?」参照)。

 

また、四世紀の古墳で大量に副葬された三角縁神獣鏡ですが、中国から出土しておらず、呉から亡命した職人に日本で作らせたものである可能性が高いのです。卑弥呼の鏡に見せかけるためではないかと推理しています。卑弥呼の鏡の一部は平原王墓で副葬品とされた鏡ではないかと考えています(詳細は「【検証4】平原王墓の被葬者は誰だ?」参照)。

つまり、先にも述べたように、纏向遺跡は魏志倭人伝にある邪馬台国の記述とはほとんどが一致していないのですから、邪馬台国ではないという結論になります。

事実に基づかない畿内説に固執するのは古代妄想なのですよ(;^ω^)

ご納得していただけたでしょうか?(#^.^#)

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【関連記事】

【検証19】日本建国のための戦いだ!


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【検証20】景行天皇が建国の父だった!(その1)(その2)(その3)(その4)
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【後記】

古代史界隈に「古代妄想」というちょっと過激に聞こえるギャグを入れましたが、妄想を逆手に取って開き直る方も居たり、ご不快に感じる方が居るかと思いますので、ここでちょっと言い訳です(;^ω^)

事実に基づく想像は、科学的な探求において推論・推理という正しい方法です

しかし人間は空想する生き物なんです。空想は事実に基づかない想像のことです。普通は、本人も空想かも知れないと自覚していますが、空想に凝り固まって反証を受け付けない信念になると妄想という精神医学上の症状ということですネ(*´Д`)

古代史探求に嵌っている多くの方は、事実に基づかない「空想」を仮説にしたままで、数多くの事実で仮説を検証しようとしないようです。都合の悪い反証も無視するようですので「古代妄想」ということなのです。

以前に、ある著名な古代史研究家のブログで、その点を指摘しても、「検証は後世に行われるハズだ」と自信満々だったので驚きました(#^.^#)

歴史あるいは歴史学という学問は人文科学の範疇ですので、科学の手法に従う必要があります。

なぜならば、科学の手法による結果は偏見のない多くの方が納得行くものですので、定説として認められやすいからなのです。その仮説は「科学的な信念」になり(詳細は「なぜ邪馬台国問題が解決しないのか?」参照)、教科書にも載るような定説になります。これが科学的な探求の目標です。

しかし、定説となっても、それを導く過程で何らかの見落としやミスを犯していたかもしれないのです。ですから、定説となったその仮説も、常に新たな事実によって検証を受け続ける宿命なのです。定説が覆されることがあるのは、科学の世界では常識ですから。人間は神様ではないという証です。大国主のように死んでから神様になる人間は居ますが(#^.^#)

【古代史問題の科学的解決手法

最後までおつきあい、有難うございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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