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#魏志倭人伝の版本についてちょっと間違ったので、赤字で訂正しました。よろしくお願いします(;^ω^)
#2024-12-16 00:23:45 に記事にした「縄文人ってなんで創意工夫が得意?( ^)o(^ )」でご紹介した下の動画の中のYOさんのコメントに対して、以前やり取りをしたことのあるユーザーさんがこれに関して対馬についていいご意見をコメントされたので、ついコメントしました。しかし、この方は馬は居ないと考えているようなので、当方のコメントが消されてしまいました。でも、魏志倭人伝の解釈で重要だと考えるので、あえて公開させていただきました。よろしければ、い付き合い下さい(#^.^#)
@北島正隆-d5x
銅鐸が馬より早く渡来してきたので何の道具か分からなかった、とします。
魏志倭人伝に書かれた「其の地に馬~カササギはいない」という部分と一致しますし、
YOさんが仰る「馬に装着するとは思わなかったので大型化した」という考察とも一致します。
すると、対馬や投馬の馬はどういう意味だったんだろう、という疑問が湧きます。馬はいなかったはずなので。
対馬は倭では「ふたつしま」や「ついのしま」と呼んでいたのなら(それが日本書紀には津島という表記になる)二島や対島などの表記になりそうです。
が、対馬という漢字であれば、倭人も中国人も「ツシマ」という発音もできるし表記も一致する。
釜山(中国側)から見た時に対になった馬のように見える、という大義名分も立つ。
とかなのかな、と、妄想があらぬ方向へ行ってしまいました。
投馬は分かりません。。。
@katumoku10
@北島正隆-d5x さん、こんばんは!上でも述べましたが、国名や役職名などは漢字の意味を知っている人物、つまり本当の倭国王難升米(倭国王帥升の子孫の王の襲名)が書いて帯方郡太守に教えたものだということが分かりましたので、馬は居たようです。
投馬国は馬を与えた国という意味だったのですよ。私はみやこ町節丸の在馬古墳あたりが長官弥弥(多分、耳にデカいリングを付けていたようです)が居た場所だと推理しています。
多分、倭国王が公孫氏から中平紀年大刀と同じように拝領していたと推理しています。天理市東大寺山古墳から出土した大刀や馬は、卑弥呼(市杵島姫は天理市和邇坐赤阪比古神社の祭神)の一族赤坂比古(卑弥呼の父、和邇氏の祖)に下賜したのだと推理しています。
だから公孫氏との結びつきが深いことを言えないので、魏の役人には馬は居ないとウソついたのでしょう。
(「投馬国へ水行してみませんか?」参照)
赤坂比古は正始四年に朝貢した正使伊聲耆です。伊は聖職者で、耆は年寄りの意味です。密室で卑弥呼が発する太陽神の神託を解釈して、部下や民に聲(声)に出して伝えるシャーマン王だと分かります。
実は伊聲耆は官位を貰えず、上洛の途中で死亡したようです。副使掖邪狗等八名が率善中郎将とされ、印綬を賜っていますから推理しました。掖邪狗は「ややこ」だとすると、稚児の意味ですから、赤坂比古の後継者で卑弥呼の弟だと推理しています。
このように、魏志倭人伝の中の倭国の国名・役職名などは意味のある漢字をあてていますので、推理できました。卑弥呼など卑字が多用されているのは、漢字を読み書き出来ない縄文系(ムナカタ海人族)の部下を馬鹿にして書いたものだと分かりますよ。ですから、倭人語はこれからもっと解明されるはずですよ(#^.^#)
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対馬についても考えてみました。北島さんに、現在の対馬が何故「ツシマ」になるのかを解説頂いたのですが、魏志倭人伝の版によって対馬国なのか対海国なのか異なり、現存の最古の版「紹興本(紹興年間、1131~62年刊行)」では「對馬国」とされ、「紹煕本(紹煕年間(1190年~1194年))」では「對海國」とされています。
唐初に張楚金が 著した類書 (百科事典)「翰苑」の雍公叡の注にある「魏略」逸文に対馬国とあったので紹興本が正しかったということのようです。
したがって、対馬の由来は紹興本の魏志倭人伝からというのが通説ですが、対馬国は「対になった馬の国」というよりも「海に対面する(向き合う)国」と言う方がしっくりします。「海」が何故、全く異なる「馬」に変わったのかは難問ですね。
wiki「魏略」によれば、「魏略」の著者魚豢(ぎょかん)については事績が伝わっておらず、『魏略』の作者であること以外はほとんど分かっていない。『三国志』の裴松之注に引用され残る文により、劉表[1]と面識があったこと、その後魏に仕えたことが記述されている程度である。
成立年代は魏末から晋初の時期と考えられるが具体的には諸説ある。劉知幾は「(記載の対象とした)事績は明帝期で止まっている」とするが、実際はそれ以降の記事もあり、最も新しいと思われるのは『三国志』賈逵伝注に引く甘露2年の記事であるため[2]、これ以降に書が完成したか製作が中断したものと思われる。また、魏や晋の重要人物の諱を使用していることが指摘されている。
つまり、「三国志」が「魏略」を引いたのか?あるいは逆なのかもはっきりしないのですよ(^_-)-☆
「1」『呉書』張昭伝注『典略』。筑摩書房版日本語訳では劉備と訳しているが、原文は「劉荊州」とあり、荊州牧であった劉表を指すと思われる。
「2」 張鵬一は景元2年(261年)の記事が最も新しいとするが、この記事の存在は確認されていない。また『太平御覧』巻495には太安2年(303年)の記事があるが、さすがにこれは時代が下りすぎているとして引用誤りか後代の挿入であると考えられる。
とありますから、対馬の由来は「魏略」逸文によるというのが正しく、魏志倭人伝の原本には「対海国」とあったのではないかと思います。
では、なぜ「魏略」逸文に「対馬国」とされたのかですが、これが写本のときに誤って「海」が「馬」と書かれたのか?「ウミ」と「ウマ」の発音は似ていますが、その発音は倭人語ですよ(^_-)-☆
単純な誤写ではないようです。「魏略」逸文の写本の際に、倭の地に馬は居ないというウソに気付いた倭人がそれとなく暴露したのだとすると、しっくりしますが、それが本当かどうかは今のところ分かりませんね(#^.^#)
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中平紀年銘鉄刀は卑弥呼のものか?(*^▽^*)
卑弥呼が公孫氏から貰ったものではなく、本当の倭国王難升米が貰ったのを卑弥呼の父赤坂比古(和爾氏の祖)に下賜したということですよ(^_-)-☆
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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