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@katumoku10
YOさん、こんばんは!
小銅鐸は、周代以前から楽師が祭祀で音を鳴らす楽器編鐘の一部だと思います。日本では全部そろったものは発見されていませんので、多分、一個か二個でやっていたのかも知れませんね(注1)。(2024.12.21 赤字修正)
倭国王帥升ですが、帥姓の本は師姓で、西晋時代に司馬師の諱を避けるために帥姓に変えられたと文献にあります。その師姓は「風俗通義」によると殷王朝時代から楽師の官位を表す姓とありますので、師升は奴国宮廷楽師だったようです(注2)。
それが反乱を起こして奴国王(宋史王年代紀十八代王素戔嗚尊)を殺して倭国王に認められるために160人ものスサノヲの部下らを生口として献上した人物です。
聖職者だった証拠が1948年に室見川河口で発見された黄銅製文鎮のような金属板「室見川銘板」で、延光四年125年と彫られており、金文の内容が祭祀を整えたというものなので、伊都国を王都とした師升王が作ったと分かりました。師升の祖先は恐らく徐福が連れて来たシナ人と推理しています。王殺しは平気ですから( ^)o(^ )(詳細は「【わかった!】室見川銘板のなぞ(^_-)-☆」参照)
スサノヲを拷問して全財産を贖罪としたことが古事記にありますので、恐らくスサノヲの部下のアズミ族(江南系倭人)がいち早く金印を持ち出し、逃げる途中で志賀島に埋めたようです。それがたまたま江戸時代に発見されたのでしょう。漢代の金印の金の純度が95%もあるなどというのは、現代になっていくつか金印が出土して分かったので、贋作などは不可能でしょう。もしも贋作ならば、職人に作らせるための指示書が見つからないとダメですね。これは河村哲夫先生の動画で勉強しました(;^ω^)
(注1)
1.韓国式小銅鐸……宇佐市別府遺跡(参照:史料5)
1977年に発見されたこの小銅鐸はわが国発見韓国式小銅鐸の第1号で、以来後続資料の発見はない貴重品である。後原総高11.6センチで、韓国慶尚北道月城郡入室里遺跡発見の第1号小銅鐸と形状・法量ともに最も近似している(「北部九州(大分)の弥生文化と半島系遺物」より)。
紀元前473年に滅んだ呉の王族が半島南部に逃れて、祖霊祭祀に使用したと推理しています。元々は呉の宮廷で以下のような編鍾を使用していたと思われますが、逃避先では資力もないので大掛かりなものは作れなかったので、1・2個で代用したのではないかと考えています。
wiki「編鍾」によると、「1978年、湖北省随県の戦国時代初期の遺跡曾侯乙墓で出土したもので、鐘ですから舌があって揺らすと音が出る楽器」で、「春秋時代ごろに出現した。上流社会で使われ、権力の象徴でもあった。」とあります。中段のものはハンドベルのようなものですが、下段の大きなものと上段の小さなものは握りがないし、舌の下のヒモもないようですので、棒で叩いて鳴らしたのでしょうか。韓国式小銅鐸は木の枝などに吊るし、舌の下のヒモを引っ張って鳴らしていたようですが、大きさと形状が上段のものに近いです(^_-)-☆
(注2)シナ版wiki(维基百科)「帥姓」によると「西晋の武帝司馬炎は、叔父の司馬師の後を継いで晋の景帝となり、世に「師」という名前を使うタブーを避けるよう命じたため、師の姓を持つ一部の人々が改名されました。」(Google翻訳)とあり、帥升は奴国宮廷楽師の師升です(詳細は「倭王帥升(すいしょう)は何者だ?」参照)。
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10世紀に東大寺の僧が入宋して、日本神話を正す日本の王年代紀を献上したので、「日本は古(いにしえ)の倭の奴国」として日本の国号が倭国から変わったことが正式に認知されました。藤原不比等が作った高天原は北部九州の倭国のことだったとシナ人が認めたからなのですよ(#^.^#)
師升らのクーデターで奴国王スサノヲを捕らえて拷問して殺したことが古事記にあります。金印の在りかを白状させて、奴国王に成りすますためですね。「於是八百萬神共議而、於速須佐之男命、負千位置戸、亦切鬚及手足爪令拔而、神夜良比夜良比岐(その後、八百万の神々一同は相談して、須佐之男にたくさんの贖罪の品物を科した。また、髭と手足の爪とを切って祓えを科し、高天原から追放してしまった。)」(「古事記」上巻、訳は 「古事記・現代語訳「上巻」天照大御神と須佐之男命」より引用)
帥升が奴国宮廷楽師だったと分かる物証がこれですよ(^_-)-☆
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)
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刮目天さまのコメントに返信しようか迷ってたのも事実。
ワイの知識の量だと、銅鐸にあれこれ言うのは憚れるなぁという話です。
ただ「楽器」としてだんだん大きくしていったように感じました。これだと「馬」には付けられないでしょうね。
たぶん、馬の方が日本に後からやってきたとしたら、仕方がないでしょうね。
大陸から来た人、モノ、文化、、、何がいつ来日して、何が来てないのか?ってのが面白いところです。
さすが博識のYOさん!
編鍾の上段の鐘が大きさと言い、構造といい編鍾の一部に見えたのです。宮廷祭祀に使うものなので、呉王族が使ったと推理したわけです。YOさんのご意見の馬具というのは、どこかに資料があるのでしょうか?
韓国の博物館にでもあるのかな?
教えていただければ、推論は撤回しますよ。よろしくお願いします(;^ω^)
馬鈴も使われていたそうですがスズですから形が違います。
福岡市雀居遺跡で出土した弥生後期か古墳初頭(3世紀後半)のものも同じ形ですね。でも高さは2.5cmです。編鍾の一部なのかも知れないですね。これが古墳時代後期に馬鐸として使われた祖形ではないでしょうか?
従来は朝鮮式小銅鐸と言ってましたが、ヒットした資料には韓国式とあったので、半島の南部のもので、北部に出土しているのか、調査したいですね(^_-)-☆
『高倉洋彰氏は「銅鐸の起源と文化」(『戦後50年古代史発掘総まくり』所収)の論文のなかで、弥生時代の九州北部における銅鐸の編年についてまとめ、朝鮮小銅鐸が弥生中期前半に九州北部にもたらされ、それをモデルに小銅鐸が鋳造されていたと述べている。』https://www.kunakoku.info/sub-04/sub-04-09.html
恐らく徐福が連れて来た楽師が製造させたものと推理できます。師升はその子孫でしょうね(^_-)-☆
馬具は、後の時代に編鍾の一部として使われた小銅鐸を流用したものでしょう。
また、このサイトでは「化外の地の三韓(馬韓、辰韓、弁韓)には小銅鐸をなにかに利用するというほどの文化はなかったと、『魏志』韓伝から読み解くので、「朝鮮小銅鐸」祖型説に疑問を感じる。」とありますが、銅鐸の起源は呉王族が半島で作らせた編鍾の上段部の朝鮮小銅鐸と推理できますよ(^_-)-☆