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#前回の記事にjikan314様から以下のような有難いコメントをいただき、以前から気になっていた氷川神社について分かったことを記事にしました。よろしければ、お付き合いください(#^.^#)
いつも拝見しております。
貴blogに触発され、2~3世紀解説のYouTubeを時々見ます。
今疑問に思っているのは、武蔵国氷川神社です。もちろん出雲国の斐川を神格し、素戔嗚尊を祭神としています。
ここで、出雲の大国主命では無く、その祖先の素戔嗚尊を祭神としています。出雲族が、武蔵に、大国主命の時代より、遥か昔に来たと言う事は、どういう事なのか?と。
八雲立つ武蔵野行けど冬の風
急に寒さが増しました。体調には十分ご注意下さい。
ありがとうございます。
jikan様からのとてもいいコメントを頂き、嬉しいです!
氷川神社の祭神をスサノヲとするのは、多分出雲に降り立った神話からではないかと思います。
実はスサノヲは出雲よりも米子にはよくきていたと考えています。つまり母イザナミの実家で、宗形神社そして山陰地方最大の集落妻木晩田遺跡を根拠地とするムナカタ族の王でイザナミの父アタカタスミの根拠地だったと推理しています。
奴国第十八代王スサノヲは宮廷楽師の師升らの反乱で殺されたと推理していますので(詳細は「古事記が教える「スサノヲと倭王帥升」の史実?!」参照)、出雲に結びつけられるスサノヲのヤマタノオロチ退治はスサノヲの史実を誤魔化すための創作です。出雲国風土記にもヤマタノオロチの話がありませんので分かります(^_-)-☆
スサノヲが王子五十猛(イタケル)と共に高天原から出雲に降り立ったと言う神話は、幼いイタケルや王女たちがムナカタ族の手助けで奴国を逃亡して成長すると、ムナカタ族の支配地だった出雲国を与えられた史実から作られたようです。意宇(おう)は出雲王のことで、イタケルの跡を継いだ出雲国風土記意宇郡の国引き神話の八束水臣津野命(略して八束命、記紀のニニギノミコト、海神豊玉彦)が、スサノヲ大王に所縁の豪族を出雲に集めて、恨みのある師升王の一族への復讐と倭国奪還の戦略を考えて活躍したので、出雲とスサノヲが結びつけられたようです。
祖霊と一体になって偉業を達成できるという首長霊信仰(米神信仰)が出雲で生まれたようで、これが大型首長墓が盛行する古墳時代の幕開けだったと思います(詳細は「国引き神話は史実だった?(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」参照)。
武蔵ですが、関東地方から東北地方には八束命とその子日高彦(記紀のホホデミ・山幸彦、【関連記事】の図参照)が辰砂などの鉱物資源探索・採集で盛んに出かけた場所だったのです(詳細は「【刮目天の古代史】出雲・丹後王国の謎!」参照)。その後継者の大国主高野御子が、卑弥呼の死後に列島各地のムナカタ族を傘下にしたのです。関東地方で多数見られる氷川神社で大国主を祀っていたのですが、後に日本書紀の神話に合わせて史実を隠すために、藤原氏がスサノヲを祭神としたと推理しています。 それでも、地元の方たちの大国主信仰は強いので、隠しきれません。
wiki「氷川神社」によれば、さいたま市武蔵国一宮氷川神社が東京都・埼玉県近辺にある約280もある氷川神社の総本社で、創建は社伝によれば孝昭天皇の時代だそうで、氷川の名称は、おっしゃるとおり、この地に移住した出雲族による簸川(ひかわ)が由来でしょう。ご祭神は現在、
となっていますが、上で述べたとおり、大己貴命は大国主高野御子の別名です。そして、社殿の東隣りに「門客人神社」が摂社として在り、「客人神」アラハバキが鎮座しています。アラハバキは、出雲族が来る前から存在した地主神ということですが、漢字で「荒脛巾」とも書かれ、脛(はぎ)に佩く「足の神」とされてきたようです。この神様は記紀神話にも民話にも登場しない謎の神様とされているのです。であるならば客人神は変ですね(#^.^#)。
その正体のヒントは、神武天皇に逆らって、先に降臨していた義理の弟饒速日命(ニギハヤヒ)に殺された「長脛彦」(ながすねひこ)ということから、大国主だと分かります(詳細は「ナガスネヒコの正体は大国主トビヒコだよ!」参照)。また、下半身全般をも癒す神ともされるので、男根の形をした金精神(こんせいしん)で道祖神(塞の神)と習合している例もあるようですので、大国主の分身のサルタヒコということです(詳細は「道祖神もやっぱり」参照)。ということで、アラハバキも大国主のことだと思います。
八重垣神社の社伝ではスサノヲがイナダヒメを八重垣で囲い、境内の奥地の佐久佐久の森でヤマタノオロチを退治して、日本最古の歌をスサノヲが詠んでいます。
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣つくる その八重垣を
この歌から作られた名前の妻垣神社(つまがけじんじゃ)が宇佐市安心院町にあります。記紀の神武東征に際して、妻垣神社の奥宮の一柱謄宮で、母玉依姫を祀るために最初に訪れ、ウサツヒコ・ウサツヒメが神武天皇を歓待したとあります。ウサツヒコが大国主でウサツヒメが女王台与と推理しています(詳細は「宇佐は記紀が隠した秘密が満載だ」参照)。卑弥呼の死後に倭国王に立った尾張王乎止与命(ヲトヨノミコト)を討って、大国主が13歳の台与を卑弥呼の宗女として外交上女王に立てたのですが、卑弥呼を弔問に訪れて、磐座を造って祀ったと推理しています。この歌からスサノヲとイナダヒメは大国主と台与のことだと分かりました。ですから、乎止与命は第十九代奴(ナーガ=龍蛇神)国王天照大神尊ニギハヤヒ大王の子天香山命の子孫で狗奴国の有力者なのでヤマタノオロチ(ナーガ)になぞらえたのです。
つまり、氷川神社の最初の二柱の正体は大国主高野御子と台与でした。この二人は道祖神の中の夫婦の双立神として各地で祀られていますよ(^_-)-☆
【関連記事】
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通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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