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#2022-03-30 21:52:19に記事にしましたが、本文中でほんの少しだけ追加しました。よろしければまた、お付き合いください(#^.^#)
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【魏志倭人伝】女王 卑弥呼の 使者は 魏の国に 着くと我は 呉の 太伯 の 末なり 位は 大夫なり!と 名乗った!
2021/10/27 歴史マニア@YouTube
「古公亶父」は、太伯の父ですから、二人とも皇室の祖先です(注1)。
魏略逸文に、例えば「従帯方至倭 循海岸水行 歴韓国、至拘邪韓国七千里」とあり、対応する魏志倭人伝の「従郡至倭 循海岸水行 歴韓国乍南乍東 到其北岸狗邪韓国七千余里」と全く同じではなく、いずれも簡潔になっており逸文を残した人物が意図的に削ったようです(塚田敬章「魏略逸文と魏志倭人伝」より)。しかし、特に七千里という里数が同じなので、魏略を撰した魚豢が宮廷の書庫に残っていた二人の魏使の報告書を見て、そこから引用した可能性が高いと思います。
西晋の史官陳寿は当然、魏使の報告書を閲覧できたはずですので、それらの報告書にあった内容をそのまま引用したようです。しかし、「倭人は太伯の後」という部分などはご指摘のとおり意図的に削った可能性が高いと思います。つまり、陳寿が魏志倭人伝を撰した目的は西晋の基礎を築き、宣帝と諡されて称えられる魏の司馬懿を称揚する目的だったので、その部分は不要だと判断したためと考えられます。そのように考える理由は長くなるので、続きを記事にしました。よろしければ拙ブログをご参照ください。失礼しました。
陳寿の意図を示す証拠はいくつかありますが、一番わかりやすいのは、たかが東夷の女王に過ぎない卑弥呼を絶賛する詔書のほぼ全文を魏志倭人伝に掲載していることです。極めて異例なことです。これは戦略上重要な位置にあった倭国に朝貢させた司馬懿が曹魏第一等の功労者だったと西晋の朝廷の人々にアピールするためです。司馬懿を持ち上げることによって陳寿のパトロンで西晋の実力者の張華の顔が立ち、陳寿の評価も上がるからです。張華は三国志の写本を部下に命じて作り、正史の資格を与えたと伝わっています。陳寿は歴史家の前に宮仕えなのです(^_-)-☆
曹操の甥の曹真が魏のライバルの蜀を抑え込むために西域の大国であった大月氏国王を朝貢させましたので、その功績が魏で最高のものでした。曹真は直ぐに病死して、その息子の曹爽が魏の実力ナンバーワンの大将軍となっていましたから、景初二年(238年)8月に公孫氏を滅ぼした太尉司馬懿は、曹真の功績を上回るものとしたいと考え、当時魏の最大のライバルだった呉の会稽郡東冶県の東の海上にあると考えられていた倭国を懐柔することにしました(注1)。
ですから、司馬懿は部下の劉夏を帯方郡太守として派遣し、それまで公孫氏に朝貢していた倭国を魏に朝貢させるように命じたと考えられます。劉夏は帯方郡に訪れた大夫難升米と談合して、邪馬台国へのデタラメな行程記事や、長引く戦乱で人口が十分の一に激減した魏の都洛陽が十万余戸で大月氏国も同じ十万余戸だったので、倭国を大月氏国を上回る合計十四万余戸の超大国としました(岡田英弘「日本史の誕生」弓立社 1994に詳しい)。
当時のシナでは、遠方の大国に、皇帝の徳を慕って朝貢させることによって皇帝に高い評価が与えられました。洛陽から大月氏国の都カーピシー(現在アフガニスタンのバグラーム)まで万六千三百七十余里と知られていました。ですから、帯方郡から女王国(邪馬台国)まで万二千余里ということにして、洛陽から楽浪郡までの約五千里を加え、合計万七千余里だとでっち上げました。九州の上陸地点末蘆国からの方角も南寄りになるように操作しています。
さらに魏の朝廷の人々に、倭国を南国のエキゾチックで不思議な島国と印象付けるために、鬼道で人々を支配する女王が統治者であって、女王は人前に出ないとして、男弟が政治を補佐していたということにしたわけです(「景初三年問題が謎を解く鍵でした!(^_-)-☆」参照)。
ですから、邪馬台国までの行程記事の方角や里数や戸数などは朝廷の人々が納得する程度のつじつま合わせのデタラメだったのです。里数を日数で記述するなどシナ人には考えられないと「隋書 倭国伝」にもありますから、魏使は男弟に面会すれば役割を果たしたことになるので、邪馬台国の卑弥呼には会っていないはずです。結局、倭国の大夫と帯方郡の太守が談合で決めた司馬懿に都合の良い内容になるように魏使に報告書を書かせ、それを陳寿が引用したというのが真相だったと推理しました。
二十一世紀になっても邪馬台国の位置が確定しないのは、多くの研究者がこのようないい加減な行程記事を、正しく解釈すれば正しい場所が定まると思い込んでいたからです。先に自分の思う場所があり、そうなるように理屈をつけて解釈するやり方だったから、万人が納得できないのです。
したがって、邪馬台国がどこにあったのかを知るには、行程記事を一旦横に置いて、考古学などの成果から三世紀の纏向遺跡におけるヤマト王権の成立過程を推理する必要があります。
そこで厄介なのは、現存する日本最古の正史は「日本書紀」ですが、多くの方は天武天皇が編纂を命じたので天皇の歴史書だと思い込んでいます。しかし崩御から約30年後の完成当時の権力者は藤原不比等でした。藤原氏にとって不都合な歴史の真実が改ざんされていることが古代史作家関裕二氏や万葉集研究者渡辺康則氏らによって指摘されています。
戦後の歴史学者の多くは津田左右吉が指摘した内容に拠って、「日本書紀」の早い時期の天皇の話は信用できないとして(注2)、「日本書紀」を全く無視して、考古学の成果だけを使って唯物史観で弥生時代を解釈しようとしました。しかし岡田前掲書で指摘されたように考古学は歴史学の代用にはならず、文献がないと書くことができないので、日本の歴史を正しく示すことができませんでした。なぜ倭国大乱が起こったのかという定説も間違いであったことも発見しました(「倭国大乱の原因が古代史解明のカギ!(^_-)-☆」参照)。
最近は、「日本書紀」に書かれていることは歴史の事実を反映した天皇の歴史書だと考える研究者が多いようです。しかし、上述のとおりですから考古学の成果と矛盾する内容になってしまいます。それでも魏志倭人伝と同様に「日本書紀」の解釈で乗り切ろうと努力されていますが、これもうまくいきません(「神武天皇はいつ即位した?」参照)。
「日本書紀」は藤原氏が権力を握り続けるために、不比等が歴史を捏造・改ざんしたインチキな正史なのですから当たり前です。詳しくは「権力者が歴史書を作る目的は何?」をご参照ください。
しかしいくつも藤原氏に都合の悪い証拠があるのですが、多くの研究者は正史は正しい歴史書・天皇の歴史書だと思い込んでいるので、その証拠を無視しています。例えば、推古天皇の時期に隋書にはアメノタリシヒコという男の大王(おおきみ)が朝貢したと記録されています。しかし、それを無視して推古天皇が実在したと考えているので、このような姿勢では歴史の真相に迫る可能性は絶望的でしょう(「初の女性天皇、推古天皇は「中継ぎ」だった? バイアス外し見えた姿」2022年3月18日 16時30分 朝日デジタル 参照)。間違った定説や権力者に都合の良いフェイク・ニュースをマスメディアの力で国民に拡散し、定着させようとしているようですので、日本の存続にかかわる大問題です。気づいた方はマスメディア離れを起こしていますが、古代史については気づいていない方が多いようです(詳細は「隠された倭王と創作された継体天皇?」参照)。
「日本書紀」で不比等が何を捏造し改ざんしたのかを知るためには、不比等の目的を考え、このような視点で「日本書紀」の内容を疑って、考古学などの成果によって明らかにできることに気づきました。これによって日本建国の真相が明らかとなり、邪馬台国や卑弥呼の謎も解けました。詳しくは拙ブログ「古代史の謎を推理する」をご参照ください。
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(注1)「三国志 呉志呉主伝」に「会稽東(冶)県の人で、海に行き風にあい流れ移って亶洲に至ったものがあると言い伝えている」とあり、范曄「後漢書」に「会稽東冶県の人で海に入ってゆき風にあい流されて澶(亶)洲に至ったものがあると言い伝えているが、その所在はきわめて遠く往来することはできない」とあります(塚田敬章「徐福は日本に来たか?」より)。倭人の王(奴国王)が太伯の後裔なので、古公亶父も奴国王の父祖という意味です。そして日本は古の倭の奴国、つまり倭人の王(奴国王)が日本の皇祖神ですから、結局、当時のシナ人は亶洲を会稽郡東冶県の東の海上に位置する倭国(日本)と考えていたということです。
(注2)wiki「津田左右吉」によれば以下の通りです。
・古事記と日本書紀の元になったのは、皇室系譜の「帝紀」と、宮廷で伝わってきた説話の集合体の「旧辞」である。
・帝紀と旧辞が成立したのは、6世紀の継体天皇~欽明天皇の時期である。
・帝紀の系譜は全て史実ではなく、少なくとも15代応神天皇より以前(14代仲哀天皇や13代成務天皇以前)の天皇は創作された非実在の人物である。
・旧辞の大部分、特に神話の部分は、6世紀の宮廷官人が、上古より天皇が国土を治めていたことを説く為に造作されたもので、史実的な資料価値は全く無い。
最後までおつきあい、有難うございます。
通説と違うので、初めての方は「古代史を推理する」をご覧ください。
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