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【刮目天の古代史】今年の大発見(その1)!

2024-12-29 17:58:45 | 古代史

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#今年も残すところあとわずかになりました。

この一年、皆様の励ましのおかげでいろいろと古代史の謎が分かってきました。

心より、御礼申し上げます。

それでは早速、今年の大発見(その1)を発表します。2024-02-20 03:10:35 に掲載しました以下の記事です。

赤坂今井墳丘墓の被葬者は?(^_-)-☆


丹後半島は古代史の謎がたくさん詰まった場所です。簡単に説明します。

紀元前108年に前漢の武帝が半島に漢四郡を置き、楽浪郡などの華僑が東夷と積極的に交易を開始したので、弥生時代の中期後葉から縄文海人ムナカタ族が丹後半島の集落(途中ヶ丘遺跡など)で勾玉などを作って、直接、楽浪郡や半島南部、交易の中継点の壱岐市原ノ辻遺跡などで交易していたようです。糸魚川のヒスイで勾玉を作るだけでなく、管玉の素材の碧玉やガラス素材も華僑から手に入れて作った玉類は人気の商品になっていたようです。

奴国王はそれに目を付けて王族を伊都国に置いて、壱岐原ノ辻遺跡での交易を管理するようになりました。真番郡が廃止になると、原ノ辻遺跡に交易のために来ていた華僑を伊都国の王宮三雲遺跡の番上地区に呼び寄せて、ムナカタ族には奴国の交易センター(福岡市比恵・那珂遺跡群)に持ってくるように命じ、列島の珍しい産品を華僑から注文を取って奴国で仕入れて利ザヤを稼いでいたと推理しています。

後漢光武帝は倭国をシルクロードの最東端として重視し、西暦57年に奴国16代王沫名杵尊(あわなぎのみこと)に朝貢させて金印を授けて華僑の取引を保護させました。さらに交易で儲けるために奴国王は王子伊弉諾尊(いざなぎのみこと、十七代王)と山陰地方の最大集落妻木晩田遺跡を拠点とするムナカタ族の有力者アタカタスミの娘イザナミとの政略結婚をさせ、王族レベルでの最初の混血が行われました。

誕生したスサノヲ(十八代王)は成人になると母方のムナカタ族の支配地の丹後半島の玉造集落を整備し(京丹後市奈具岡遺跡)、勾玉などを持って辰韓の製鉄現場(慶州市隍城洞遺跡)に出かけました。鉄素材を奴国に供給させるようにして、列島内で鉄の独占を図りました。三国史記の新羅第四代王脱解王のモデルになったと推理しています(詳細は「新羅の脱解王が奴国大王?」参照)。

スサノヲは奴国王になっても王宮(須玖岡本遺跡)を留守することが多く、ムナカタ族と生活を共にし、銅鐸祭祀を豊岡市気比などで行ったようです。そしてたまに王宮に帰還すると宮廷楽師らに銅鐸祭祀を伝統的な奴国の宮廷祭祀に取り入れるように命じたのだと推理しています。そのために楽師らは反乱を起こし、スサノヲを捕らえて奴国王に成りすますために拷問して金印の在りかを聞き出そうとしたようです。しかし、いち早くスサノヲの部下のアズミ族が金印を持って逃亡し、途中、志賀島に寄って土の中に隠したので、スサノヲは殺されたのでしょう。師升らは107年に後漢安帝にスサノヲの部下ら160人も奴隷として献上し、倭国王に認められた模様です。

弟ニギハヤヒと王子イタケルらは師升らの反乱を逃れて出雲に落ち着きます。ニギハヤヒは吉備の裏切り者を討って、瀬戸内海航路を抑えて、吉備の王都(倉敷市上東遺跡)で隆盛になり、奴国を再興しました。ニギハヤヒ大王は亡くなると楯築王墓に葬られたと推理しています。後にその子孫が纏向遺跡に遷都して、ヤマト王権を成立させました。

出雲王イタケルが亡くなると、八束命(出雲国風土記の国引き神話の神八束水臣津野命の略称、記紀のニニギノミコトのモデル)が出雲市西谷で大型四隅突出型墳丘墓を作り、吉備の奴国王や山陰・北陸や対馬などの有力者を呼んで王位継承の儀礼を行いました。各地の首長クラスがこの首長継承儀礼を採用したので、従来から行われていた祖霊・穀霊の銅鐸祭祀は衰退し、これが古墳時代に引き継がれて行ったと考えています。

八束命は日本海沿岸部に割拠しているムナカタ海人族を束ねる王(豊岡市久久比神社祭神久久遅彦、王の襲名)となって、祖父を殺した倭国王に復讐するために、大分県大野川流域から阿蘇山麓にかけて鉄製武器製造の鍛冶集落群を整備しました(詳細は「国引き神話は史実だった?(その1)(その5)西谷墳墓群の被葬者は?」・「消された出雲・丹後王国の謎!(その1)」参照)。

八束命が亡くなると日高彦(記紀のホホデミ)が西谷九号墓に八束命を葬り、スサノヲの故地の豊後半島に王宮(豊岡市竹野町竹野)を遷しました。

後漢王朝が衰退し、半島支配が緩んで韓人・濊人などが暴れたので倭国も楽浪郡との交易が途絶え、衰退気味になりました。日高彦は菊池川流域に前線基地(方保田東原遺跡、うてな遺跡)を築き、山陰や畿内の兵士を呼び寄せて倭国の領域(佐賀平野・筑後平野など)を頻繁に襲撃しました。

倭国を滅亡寸前まで追い詰めましたが、204年に公孫氏が半島を平定し、帯方郡を設置したので倭国は息を吹き返しました。急襲されて油断していた日高彦が討たれたと推理しました。後継者の高野御子(後の大国主)はまだ幼少だったので、ムナカタ族の有力者赤坂比古(和邇氏の祖、卑弥呼の父)が遺骸を居城(京丹後市峰山町赤坂)まで運び葬ったと推理しました(詳細は「【検証18】倭国大乱の痕跡だ!」・「消された出雲・丹後王国の謎!(その2)」参照)。

大活躍していた王を喪い途方に暮れていた赤坂比古が倭国王難升米(なしょめ、師升王の後継者の意味)に懐柔されて、九州・中国西部、四国のムナカタ族が赤坂比古の傘下になったので倭国はたちまち隆盛になりました。卑弥呼(記紀の宗像三女神市杵島姫)はムナカタ族の姫巫女です。赤坂比古は宮室で太陽神の神託を聞いて、部下たちに神託を伝えるシャーマン王と推理しています(詳細は「消された和邇氏の正体が建国の謎を解くカギ?(^_-)-☆」参照)。


 

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