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宇佐神宮の二之御殿の祭神比売大神は宗像三女神とも伝えられていますが、宗像三女神の降臨伝承地が宇佐神宮の奥座敷宇佐市安心院町下毛の三女神社です。
地元では「さんみょうじんじゃ」と呼んでいますが、「三は妙だ!女は少ない」という謎かけだったのです。一の鳥居に「二女神社」とありますから、その先の社殿には一人だけです。それが卑弥呼だったと突き止めました。
社殿の西側に深さ1m、幅2.5mのV字溝があり、その中から銅鏃が1こ見つかっていますから、城柵になっていたはずです。神社の南側は崖になっていて下に深見川が流れています。神社の東側の参道には高さ2mくらいの土塁になっています。
北側は弥生後期の宮ノ原(みやのはる)遺跡があり、この周囲には石棺群が8つ発見されていますが、その一つが奥城古墳で、直径約120mで高さ約10mの円墳です。現在ブドウ園の展望台になっています。その東側にも少し小振りの円墳の大平古墳があり、石棺からこの遺跡では一番沢山の副葬品が出土しています。中に三角縁神獣鏡の破片があるので、卑弥呼の死後にヤマト王権から派遣された同族の水沼君のものと考えられます。この地で宗像三女神の奉斎を行っていたと日本書紀にあります。
(詳細は「本当に卑弥呼の墓なのか?(^◇^)」参照)
さて、魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓「径百余歩の冢」(直径150mの塚)が三女神社の西500mに在りました。ただ土を20m位盛り上げただけの円形墳墓「三柱山古墳」ですが、墳頂に石棺があったようなのですが、家族旅行村の建設工事で石棺が壊されて、円墳の裾部分に置かれています。蓋のような石板が二枚墳頂付近にありました。裾部分にはバンガローがいくつか作られており、宿泊施設になっています。
三柱山古墳の西側の原野の地名が「血野」なのです(現在「知野」)。地元では、戦国時代の安心院氏の若様が惨殺されたとありますが、恐らく卑弥呼の奴婢約100名が殉葬のために殺された場所だと推理しています。三柱山古墳の南400mの河原に同じ三女神社があり、石塔が三つ古墳に正対して置かれており、墓の遥拝所になっています。そして、神社の上の道に土が高く盛り上げられて、横穴が見られます。ヒカケ横穴群と呼ばれていますが、一つの横穴の入り口に馬頭観音像が置かれていますので、女神アマテラスの岩戸隠れを連想するものです。地名のヒカケは日欠けつまり日食のことだと思います。卑弥呼が日食が起こったために殺された史実から、天岩戸神話が作られたと分かります(詳細は「【刮目天の古代史】卑弥呼の謎!」参照)。
多くの皆さんは、記紀神話が江戸時代にできたと言ったら驚くと思いますが、本当ですよ。
それまでの神話は日本書紀の神話が、神仏習合、修験道や道教の影響を受けて、ナーガ(龍蛇神)信仰の中世日本紀に変貌していたのです(斎藤英喜「読み替えられた日本神話」講談社現代新書)。明治時代に廃仏毀釈運動が全国で起こって、ほとんど打ち壊されて、記紀神話に基づく国家神道が創設されて、学校で国史が教えられたので、戦後の日本人も太古からの伝承だと思わされています。
でも、事実、つまり考古学や民俗学の成果とほとんど合わないのです。日本書紀は天武天皇が編纂を命じた現存する最古の正史と習っていますが、崩御して34年後の720年に時の権力者藤原不比等が完成しているのです。712年に完成したとされる古事記ですが、9世紀の日本書紀の勉強会で突然表に出てきたものなのです。正史に記録はないですし、日本書紀が参照した形跡もないのです。日本書紀の神代や人代に合わせて作られていますが、所々内容が異なります。事実から不比等が隠した史実をそれとなく暴露する暗号書だと分かりました。不比等の意図を推理して、暗号を解けば古代史の真相に近づけることが分かりました。記紀は天皇の歴史書ではないのですよ。詳細は「刮目天の古代史 記紀に基づく想像は古代妄想だった?(;´Д`)」をご参照ください。お邪魔しました(;^ω^)
【関連記事】
考古学や民俗学などの成果に加えて、卑弥呼の巨大円墳が見つかっていますので、可能性が高いと思います(^_-)-☆
(詳細は「投馬国へ水行してみませんか?」参照)。
魏志倭人伝の行程記事は政治的に作られたものなので、いくら正しく解釈しようとしても、みんなが納得する倭国女王卑弥呼の邪馬台国にはたどり着けませんよ(;^ω^)。
ですから、魏志倭人伝の邪馬台国を特定する記述や考古学や民俗学の成果から候補を探す必要がありますよ(詳細は「【邪馬台国問題】誰もが納得できる解決法とは?(#^.^#)」参照)。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)