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はい、おっしゃるとおりですね。
小銅鐸は奴国の祭祀で使われたもので、「聞く銅鐸」の祖形ですが、それを見た縄文人が、その音を聞いてマネするうちにどんどん大きくなっていったんですよ。それが「見る銅鐸」(#^.^#)。
縄文系の人々はいいと思ったものは真似をして、それがいつの間にか元のものを凌ぐ素晴らしいものにする創意工夫が得意なのです。
石剣は有柄式銅剣をまねしたもののようですが、石剣の方が切れ味が良くて、出来が良いようですよ( ^)o(^ )(注)
魏志倭人伝でも不弥国(うみこく、宗像市田熊遺跡が中心)の長官が多模(タモ)とありますから、「マネの多いヤツ」という意味なので縄文系と分かりました。
あ、倭人伝の行程記事などは、従来漢字を読めない倭人が魏の役人に発音したものを韻書の冒頭の漢字で宛てたというのが通説でしたが、最近になって弥生時代にも漢字が使われていたことが分かってきており、本当の倭国王難升米が帯方郡太守劉夏に書いて教えたものだと分かりました。
最初の例のとおりそれぞれに意味があるのです。とても深い意味のある伊都国は范曄後漢書の回土国(ウィトコク)から付けられた国名ですが、その意味から行程記事が誰が書いたかが判明しました(詳細は「伊都国の意味がヒントだった?」参照)。
縄文人は恐らく、古くから半島や遼河や沿海州に黒曜石などを持って出かけて、嫁さんを手に入れて戻ってきたようですので、多様なmt-DNAをもつ混血民族だったようです。ですから、水田稲作も最初に北部九州に持ち込んだのは江南の倭人と半島南部で接触した縄文系の人々だということが最近分かってきました。現代にもそれが引き継がれているので科学技術立国になったのですよね(^_-)-☆
@takedaharuki
ありがとうございます。地味ながら意味深そうな遺物を拾いあげてみました。
大型化するのは確かに創意工夫の結果と思います。ある意味、倭人らしいです。
硯も出土しているので、弥生時代に漢字が使われていたと私も思います。外交文書とかに使われていたのではないかと予想します。
古代、半島と倭の垣根は小さかったと私も思います。
その証拠に半島の土器と北部九州の土器は時代にも寄りますが、結構似ています。
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【検証25】水田稲作が日本へ伝来したルートは?
江南出身の倭人(江南系倭人)によって北部九州にもたらされる水田稲作文化は直接日本列島に伝達されたと考えるよりも、下図に示すように長江河口から東へ海流に乗って済州島に到達し、北上して韓半島に渡るルートが考えられます。地理的に韓半島南部で日本列島よりも先に始められたと考えるのが自然です。紀元前十世紀ごろ頃(無文土器時代前期初頭)の半島では水田跡が見られないので、半島の縄文系の人が江南の倭人に接触して湿地での散播式水稲栽培を行っていたようです。その後、江南の倭人が北部九州に灌漑式の水田耕作を行った二段階渡来説が有力のようです(大川直士「倭国の創成期」論文019,日本古代史ネットワーク 2024.3)。
紀元前十五世紀から始まる無文土器時代前期(前850年頃まで)の 『後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。』とあり(Wiki「無文土器時代」より)、江南系倭人が活発に活動する紀元前十一世紀ごろに、半島南部で水稲耕作が行われた可能性が高いと考えられます。上で述べた江南系の倭人がすでに半島に来ていた縄文人と混血して生まれた縄文系倭人(多分父が江南系で母が縄文人でしょう)で、どちらも倭人と呼ばれるようになったようです。
【分かった!】日本人の形成過程!(^_-)-☆
縄文時代は母系社会でしたが、男性は集団で、集落の外に出て、狩猟や海外との交易を行っています。
隠岐の島の黒曜石が沿海州や半島などで出土しています(「いにしえの島根/第一巻・磨かれた技・豊かな資源」(島根県HP) 参照)。
母系のルーツが分かるミトコンドリアmt-DNAの解析結果です。縄文時代からすでに多様なDNAが列島に集まってきていることが分かりますよ(^_-)-☆
日本人に最も多いハプログループD (mtDNA)は北東アジアでよく見られ、朝鮮民族でも高頻度のようです。樺太のツングース系のウィルタ、ロシア連邦・モンゴル・中共に住むモンゴル系民族のブリヤート人、キルギスのモンゴル系カルムイク人、南アルタイのテレギント人などでもよく見られるそうです。パレオ・インディアンやロシア沿海州(悪魔の門)及び中国東北部の新石器時代初期の遺跡(吉林省大安市にあるホウタオムガ遺跡、内モンゴル自治区通遼市にあるハミンマンハ遺跡等)でも最も頻繁に見られるハプログループであるとwikiにあります。
(注)石剣は打製のものと磨製のものがあり、前者は縄文時代に黒曜石を使って作った鋭い刃の短剣・ナイフです。現代に作られたものが商品としてAmazonでも売っていますよ(^_-)-☆
後者は縄文時代の後期ごろから弥生時代中期ごろまで作られており、墓の副葬品として出土していますが、鉄剣が出現して消えたようですから、磨製石剣は実用品として作られた可能性があります。弥生前期の神戸市新方遺跡で出土した結晶片岩の磨製短剣は、両刃がよく研がれていますよ。弥生早期から前期の福岡市雑餉隈遺跡の木棺から長さ28-41cmの有柄式磨製石剣が3本出土しています。とても精巧にできているそうで、朝鮮半島で作られた可能性が高いとされています。半島に居た縄文系の人が持ってきたものだと思います。
通説と違うので、いろいろと疑問点をお寄せください(^◇^)