三木奎吾の住宅探訪記

北海道の住宅メディア人が住まいの過去・現在・未来を探索します。

【秋から冬へ愉しいイエゴト(家事) in北海道】

2020-10-26 05:45:58 | 日記

錦秋の盛りが札幌市内・山の方では過ぎてきて、
これからは市内の「里」でも本格的に落葉という風情になって来ています、札幌。
なんとも格別の歳月が感じられる本年ですが、カレンダーも残りわずか。
ことしは本当に「内省的」な年を過ごしていると思います。
接触コミュニケーションが限定される中で、否応なく身の回りのことに
多くの人が真正面から向き合っているというのが実際でしょう。
わたしもこれまで年間で50-60日は出張に出ていた平均的日常から
3月以降はほとんど限定的なスポット移動に留まり、
たぶん2−3ヶ月程度と思っていた社会停滞がここまで続くことになろうとは。・・・
逆に身近なあれこれにこれまで放り投げていた仕事が山のようにあることに
気付かされ、そのことに驚かされるような日々を過ごしております。
仕事人生の終盤近くで一気に気付きが襲ってきて
地道にそれらに取り組む機会を得たことには逆に感謝しております。

そんななかですが、住む札幌の四季感も深く感じられる。
こうした環境の中で多くの人が「家ですごす価値感」に目覚めてきている。
否応なく「緊急事態宣言」とか、ステイホームとかテレワークとか、
生きる拠点としての家での時間が大きな意味を持ち、考え直す機会になった。
家事、ということばは「かじ」と呼ぶのが一般的ですが、
そういうコトバにはちょっと現代生活との違和感を持ち続けてきていて、
ある企業と情報交流している中で、「イエゴト」という言い方と出会った。
「おうち時間」という言い方が、一般的にもReplanテーマ的にも、
表現の仕方としてはだいぶポピュラーになってきたと思いますが、さらに
家のことにあれこれと手をかける行為、その時間を充実させる行為に
この「イエゴト」という表現はなかなかいいかもと思っております。
写真のような札幌の街中、わが家周辺の様子ですが、
多くの落葉がわが家周辺でも押し寄せてきているし、
また時間経過とともに家周辺のメンテナンスは必要になってくる。
家での時間が増えてくるとそういったことへの気付き更新作業チャンスも増える。
昨日は落葉の処理と、壊れていたエアコン室外機の木製カバーを更新。
ついでに物置の整理整頓と、DIY的な家メンテを愉しんでいました。
よく欧米人に比較して日本人はこういった行為へのめんどくささ感が
社会的に大きいと言われるのですが、こうした「おうち時間」「イエゴト」って
今回の不幸な新型コロナ禍から社会が前に進んでいくなかで
数少ないメリット、前向きな面なのではないかと思っております。
結構愉しい、興味深いというように変化する可能性がある。

人間が手を加えていないと建築はすぐに機能劣化する。
空き家問題などはその社会的顕在化ということでしょう。
わたしはこれまでもこうしたことは比較的に好きな方だったのですが、
そういうことに、さらに愉しみ、再発見が増えてきております。

【3200年前・縄文期墓制「キウス周堤墓」で合掌】

2020-10-25 05:22:11 | 日記

北海道には多くの「遺跡」が点在しています。
国土開拓がいちばん最後になったことで、歴史的な痕跡が残ったのでしょう。
多くの「民族」がこの地に住み暮らしていた痕跡が見られる。
いまの新千歳空港にほど近い地域に遺されている
「キウス周堤墓群」はそのなかでも異彩を放つ遺跡痕跡だと思います。
北海道千歳市の北東、標高15~20mの緩斜面上。
地面に円形に竪穴を掘り、掘り上げた土を周囲に環状に積み上げることで
大規模なドーナツ状の周堤が造られる。その区画中に墓をつくる形式が周堤墓。
ときどき周辺を移動するときには、空気に触れるようにしております。
なんといっても「縄文後期」という歴史の古さにリスペクト。
訪れても格別の建築痕跡的なものがあるわけではない。
よく訪問する「三内丸山遺跡」は今から約5900年前~4200年前の縄文集落跡。
あちらでは木を使った「柱穴」など建築痕跡が多数復元されている。
いわば縄文の人々の「生存痕跡遺跡」。こちらは「死者の痕跡」。
それらをふたつながら体験同期する、いわば空間の経験値を高めることで、
なるべく豊かに縄文の人々の息づかいを追体験したいのです。


周堤を含む直径は18~75m、周堤上面から竪穴底面までは1~5.4m、
つくる時に積み上げられた土の量は最大3,400立方メートルにも達する。
竪穴内部には複数の墓穴があり、立石が伴うものも。竪穴構造の埋葬施設は、
世界の先史文化の中でも稀であり縄文文化固有の墓制を示す。
周堤墓は葬送や祖先祭祀に関する社会組織を示すものとしてきわめて重要であり、
他に例のない規模で群集し墓制を代表する存在。〜HPより引用抜粋。
縄文期というのは「狩猟採集」生活だけれど定住していた時代。
定住と「墓制」というのはワンセットのように思います。
人類時間的にはもっとも優勢な狩猟採集という食料「生産」段階の社会では
人間が生き延びるためには直接的なパワーとは人間力であり、
そして同時にDNAの存続として定住であれば、血の系統というのも明確。
いま生きている人間にはその両親があって連綿と死が重なっていく。
石器時代でもそういう死の尊厳はあったに違いないけれど、
明確に痕跡が残り始めるのは、縄文以降なのだろうと思います。
日本では縄文の住居は「竪穴」形式が一般的な作られよう。
竪穴住居は好適地を選択して、その場所の土を掘り、周囲にその土を盛り上げて
「低い地面」の生活ゾーンを作るという家の形式。
とくに寒冷気候対応ではこの地面掘り下げがより深くなっていった。
「凍結深度」という概念が人類知としてあったことは疑いがない。
この周堤墓でも、このような「建築様式」が採用されその低地内部に
各人の「眠る場所」が掘られて、埋葬されている。
いわば「死者の集団のための家」というようにみなせる。

これだけ大規模な「土木工事」の、その器具は木製スコップが想定される。
炭化して形状が残らないその器具を使ってどれほどの労力が費やされたか、
それだけの集団労力を維持する社会の存在が明確であり、
その「集団意思」というものがはるかに感受できるように思える。・・・
カミさんはクルマの中でぬくぬく、寂寥と豊かさの入り混じった野外空間を
わたしひとり彷徨う楽しい時間であります(笑)。

【ありゃりゃ「LANで印刷接続不良」犯人探索】

2020-10-24 05:35:55 | 日記

昨日、ここ数日取り組んでいる国家機関への申請書類の作成業務。
まぁとにかくたくさんのデータを作成させられる。
重箱の隅を突くどころか、ひっくり返してハンマーで叩き割ってから
「こわれるから、このデータではダメですね(笑)」みたいな憎々しげな
様子が言葉の随所の隅に感じられる対応に耐え忍びつつ、
極力冷静を心がけながら、淡々と自分の事務能力限界と向き合う時間です。
ところが、そういう作業テンパり真っ最中のなかで、
わたしの背中の位置に配置しているプリンターが応答しない。
印刷した紙に手書きで書き込んでから、それをスキャンしてデータ化する、
そういう気の遠くなるたくさんの作業の途中経過段階で
まだまだ山場ともいえない段階なのに、印刷書類が上がってこない。
かれこれ8回印刷指令をパソコンから送っているけれど、
サッパリ作業開始音が聞こえてこない。
メッチャ忙しいので、とりあえず放置してほかのできる作業を進めるけれど、
ついに出力がなければ一歩も作業が進まない段階になって
やおら、プリンターの機械に立ち向かうことになった。
とりあえずスイッチの入り切り、再起動で様子を見るが、改善が見られない。
ほかのパソコン、となりの部屋のカミさんからのデータ出力もままならない。
そこで他の階のプリンターに出力指令を出してみたが、これもつながらない。
ネットワーク系トラブルは間違いないがパソコン(Macbook)はWEB接続できている。

で、他の階のパソコンのネットワーク接続も確認してみるけれど
そちらは特段のトラブルはなく正常通信している。
ここで気付いたのが、社内LANにはEthernetでのケーブル接続と
Wifiでの無線接続の両方がONになっていることに気が回った。
ほかの階のMacでこの両環境での接続確認を行って見た。
どちらの環境でも、問題なく接続できている。
最近VPN接続環境をあらたに導入したけれど、それも問題なく動作している。
・・・ということはわたしの近くの環境、LAN接続の「縁辺系」のみがあやしい。
わたしのデスク近く、隣の部屋には共働きのカミさんの環境がある。
彼女の接続ハブと、わたしの接続ハブは違っている。
ためしにカミさんの接続環境を精査するも、これも問題ない。
ということで、あやしいのはわたしのMac周辺のハブから以降。
こちらにわたしのMacとプリンターとはひとつのハブを共有している。
カミさんのパソコンからこちらのプリンター出力もできないので、
いよいよ問題は局限できるようになってきた。
で、わたしのMacの接続環境を確認しEthernetとWifiでの無線接続をテスト。
そうするとWifiでの無線接続はできたけれど、Ethernetが不通。
WEB接続もできなくなっている。
念のためハブの電源のONOFFもやってみて、ハブの無事も確認。


ためしに別のLANケーブルをMacに差すと、無事WEB接続も開始された。
ついに写真のLANケーブルの犯人特定に至った次第。
おいおいのLANケーブルの問題からの物理トラブルという結論であります。

ということで真犯人のLANケーブルは神妙にお縄を頂戴して
ゴミ箱に収容されることになりました。
でもまぁ3年以上も頑張ってくれたヤツなので責める気にはならない。
しばらくはわが家のどっかに隔離して忘れた頃に廃棄処分してあげたい。
そこから、遅れた時間を回復しようとしたのですが、やや疲労感のため、
スタッフにカレーライスを作ってあげることに(笑)。
疲れたときには料理がいちばんの疲労回復の「気晴らし」。
自分も食べて気分転換できたことで、そのあとの作業は快調に進んだ次第。
ふ〜〜やれやれでありました。みなさん良い週末を。

【人口減少自治体に「まちまかない」会社・民間活力】

2020-10-23 05:46:07 | 日記


さて、特集的に論評風取材記事として北総研のWEBセミナー内容紹介最終回。
さまざまな「課題の先進地」ぶりが摘出されたのですが、
2045年で400万人人口というのは確率性の高い北海道の近未来。
親の代から事業を営んでいて北海道内の各地で展開している友人は
どのように生き延びていくか、目の黒いうちに筋道を立てたいと頑張っている。
放っておけば、単純な「市場縮小」があらゆる業界を襲って
既存のほぼすべての「地域企業」には厳しい道が待ち構えていることは疑いない。
ペシミスティックな社会趨勢こそは確率の高い未来予測でしょう。
そういう近未来に対して、ちょっと前までは旺盛なインバウンド需要が
人口減少の痛みをやわらげるカンフルのように働いていたけれど、
そこに新型コロナの大津波が押し寄せて、まだ終息の気配も薄い。
ガソリンスタンド業界などではEV化、ハイブリッド化の波で業界そのものも
姿を消すような流れも強まってきている。
変化の速度はなだらかとは言っても、やはり右肩下がりの事業環境は
とくに地方中小企業には過酷な事業環境として姿を露わにすることは確実。

このことは地域企業だけに留まらず、地域自治体にとっても条件は同じ。
先日触れた、人口増大期に野放図に拡大した市街地域のインフラ維持危機から
公共サービスの維持リソースを極限的に縮小せざるを得ない。
地域の税収は人口減少から当然のように厳しくなっていって、
道路維持、水道維持、学校保育園など教育や福祉の維持も困難になる。
そういうなかで、こういった分野に民間活力が求められるのではないかという
「処方箋」提案がされていた。上の図はそういう民間活力として
「まちまかない」という事業エリア概念で公共サービスの外注先としての
コンパクトビジネスの可能性探究提案がなされていた次第。
で、わたし的には前期高齢者層の活躍機会創出もあり得ると考えています。
前に触れたように75才までの前期高齢者層の健康度は高い。
要介護率はおおむね10%程度と低いレベルに留まっている。
そういった年代層は社会キャリアも豊富に持っていて、有用な戦力といえる。
人口構成比でもかなりウェートが高くなり健康度も高い。
そういった子育て経験も当然もった人たちに「子育て・保育」という
社会的サービス業の受け皿を想定するのは、おかしいだろうか?
前期高齢者男女からの愛情は、子どもたちにも素晴らしい環境の可能性。

また、ある断熱材メーカーのOBは、親の田畑を受け継いで
食料生産に取り組んでいるけれど、野外作業で足腰も鍛錬することで
健康寿命はより前向きな進展があり得ると思える。
後期高齢者年代になっても健康維持し続けられるので「生涯現役」層は
増えていく可能性がある。またそういう年代者の「終の住み処」として
「日本の魅力」要素がきわめて高い地方は活力を維持し発展パワーを持てる。
昨年度まで年間で1,000万人近くが訪日していた中国の人たちには
日本の田舎への強いシンパシーが育っているとされている。
人口減少は同時に日本人の知恵と工夫が試される局面ではないだろうか?

【朝の気温5度 いよいよ「雪」の話題まで】

2020-10-22 05:55:51 | 日記

きょうは閑話休題。
ここのところ、北総研のWEBセミナーでの「人口減少社会」テーマ探究記事、
そして「日本人のいい家」シリーズと2本の「連載」進行中(笑)。
毎日書くブログのなかでこういうテーマ特集をやっていると
反応もいただいて次から次へと企画内容が芋づる式なのでありますが、
あくまでも「人口減少社会」は基本は取材記事タイプ。
なので、先読みのための今現在の状況の整理整頓的把握が趣旨です。
テーマひとつひとつは既出ですが俯瞰的に状況を把握すると未来が見えてくる。
地方自治体シンクタンクとしては地域の延命に関わってくる重大テーマ。
またわたし自身も、加齢と共に次世代への思いも強くなってくる。

さて、そうこうしているうちに季節の進行は急激になってきている。
昨日は朝、散歩に出掛けるために家を出た瞬間、ジャンパー着替えUターン。
晴れ上がって気持ちの良い秋晴れ天気ですが、
午前6時前のクルマの外気温度計では5度を示しているではありませんか。
あ、わたしは家からクルマで北海道神宮駐車場まで行って
そこから参拝〜周辺地域散歩へというのが定番コースなのです。
ジャンパーの下には長袖トレーナーを着込み、ズボンは保温タイプ。
いまのところはキャップ帽ですが、そろそろ毛糸の帽子も欲しくなる。
神宮境内で行き交う人の言の葉には「そろそろ雪・・・」とも。
首にはタオルを仕込みますが、夏場には汗拭きだったものがすっかり襟巻きに。
またしばらく前からは手袋も欠かさず装着。
神さまの前で手袋を脱ぐにも一瞬のためらいがある。
まさに「つるべ落ち」のような季節の進みぶりに自然の摂理を体感する。
で、写真のような色づく山並みが毎日のごちそうの景色を提供してくれます。
この時期の朝日はまことにまばゆい「照明装置」で
山並みの色合い、コントラストがいっそう際だってくる。
わたし的にはちょっと寒いけれど、北海道は「天国に一番近い」島に思える。
子どもの頃に秋の遠足、写生の機会があって紅葉への感動のまま
この写真のような満艦飾の山の色模様をひたすら描いた。
美術が本職の担任の先生がいたく感動してくれたことを思い起こす。
どうも秋の山の景観が無上にシアワセ感をもって迫ってくるタイプなのです。
思い起こすと、遠足で藻岩山から尾根伝いに縦走して、
そこから見た景色だった記憶があり、山としては円山か三角山か。
イメージ的にはどうも三角山の景観だったように思えている。
この担任先生のコース決めだったか、特別な視野世界だった記憶が強い。
この写真はその記憶の中の視野角度にどうも近しく感じられて
いつも散歩途中このスポットで、朝日直射の彩りにゾッコン。

まさに爛ける秋、という語感が去来する。
たける、というように読んでいた気がするのですが、爛熟というような
単語の意味合いに似たあざやかな彩り感を表現するコトバ。
こういう風景を見ていると胸に去来してくる。
年齢的心象風景ともシンクロして、耽美な気分に毎朝浸っております。