北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

春日局邸

2014-12-13 13:36:40 | 日記
春日局邸です。




春日局(1579年~1643年)の江戸の屋敷のようなのですが、「大奥」などが成立する以前

の、過渡期的な、江戸の町が整備される以前の段階でしょうか、、、?

注意して頂きたいのは、「中門」がありません。「御成玄関」になっているのです。

(少なくとも、春日局さんにとっては、「中門」は関心事ではなかったのでしょう、、。

「御成玄関」の横に「玄関」とあり、おそらく「内玄関」でしょうから、「御成玄関」

は特別のお客さんの時の専用でしょう。道に面して、「門」の図の左のほうに「裏門」

が並んであります。)

「舞台」はあります。(「白州」とあるのに注意!)奥には「外露地」「内露地」「数奇

屋」(茶室)もあって、おそらく当時の最先端アミューズメント施設付き住宅です。

(今で言うと、キクチ科学研究所の大型ホームシアター自動スクリーンとSONYの高性能プ

ロジェクター完備、薄型の大型テレビもついていてアンプもスピーカーも最高級、1.5坪

タイプの最高級ユニットバスには完全自動追い焚き機能付きの全自動ボイラー、料理は最

高級の老舗懐石ケイタリングサービス、アルコールは、、、、私は高いお酒飲まないの

で、銘柄はわかりません、、、、と、言ったところでしょうか、、、、。最後は、やはり

コーヒーでしょうか?)



この「舞台」、だしものは何だったのでしょうか? 「申楽」でしょうか?それとも「猿楽」

なのでしょうか?(少なくとも、「能楽」は明治以降、、、)「能」とか「狂言」だったの

でしょうか?


「申楽」や「猿楽」の前段階?の「田楽」の絵を見つけました。



何かの「門」の下の人々の着ているものからして、どうやら「中世」のようです。「門」の前で

披露?されている芸?は寄席の「色物」のようにも見えます、、、。この芸?を披露?している

人達は、時代が下がった後は、どうなっていったんでしょうか?さらに零落して「門付け

芸人」になったのでしょうか?一部の人は「申楽」や「猿楽」に生き残る道を探して、屋敷の

中の「舞台」でも芸?を披露?して、生き延びたのでしょうか?


『年中行事絵巻』とか『北野天神縁起絵巻』とか『伴大納言絵詞』など、ネットで(便利

な世の中になりました、、、。)、その画像をみたりするのですが、なかなか良くわかり

ません、、、。



追記  それにしても、この「田楽」の絵と、折口信夫さんの言う「中門口」が、僕には

    どうしても結び付きません、、、。これが、どうして後々、能の演目になるの

    でしょうか?



春日局邸の図版は、大田博太郎「書院造」(東京大学出版会1972年第二版)です。「田楽」の

写真は、何かのシンポジウムで、どちらかの大学の先生がプロジェクターで映したものを

参加者の方が撮影したものです。(すこし周りが暗く写っています。「田楽」の字は、元に

なった図版にあったものでしょうか、、、?)


追記の追記  春日局邸はどこに建っていたのでしょうか? おそらく江戸城の中と思われ

       るのですが、ギリシャのドクシアデスさんの理論のように、本丸に建って

       いた春日局邸が、「舞台」のある南端部分を「旧市街」として次第に、北

       の方に、あたかも「新市街」のように「成長」して、最後は天守にぶつか

       ってしまったとは考えにくいのです。(サービスの出入り口も、西と東で

       逆です。)「二の丸」か「西の丸」のどこかでしょうか? 江戸の街中では

       ないと思うのですが、、、。(ドクシアデスさんは昔、一級建築士の試験

       に出たので、一級建築士受験の方は要チェック!!)





   





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舞台の出現

2014-12-13 11:46:56 | 日記
同じく、至文堂 日本の美術 No.121 洛中洛外図より、『洛中洛外図屏風』舟木本右隻

東京国立博物館 方広寺大仏殿付近 の一部分を拡大したものです。


 


方広寺は徳川家康が、その梵鐘の銘文にクレームをつけて、豊臣家を滅亡に追い込んだ

あの寺ですから、16世紀の最後から17世紀の始めにかけての寺です。左の大きな屋根が

大仏殿の屋根と思われます。その裏側、画面の右側(つまり北側)に、「舞台」のような

ものがあって、「桟敷席」のようなものがあり、平土間(お白洲?)にも大勢の「観客?」が

います。寺院の境内でしょうから、なにかの「勧進興行」なのでしょうか?(浅草の浅草

寺の裏側の浅草公園「エンコ」を想い出します。高倉健さんも亡くなりました、、、。)


シェークスピア劇場のグローブ座も1598年ですから、何かの偶然の一致でしょうか?



「舞台も花のヴェロナにて、、、」



『匠明』書院造配置図




中央やや左下の部分に、「中門」と「舞台」が両方あります。



90°振れていますが、その部分と思われる図です。




私の知る限り、「中門」と「舞台」の両方が並存して、現存している遺構はなかったと思

います。図面も、他には見ないように思います。それにしても、どうして「ダブッて」い

るのでしょうか?(「色代」も「広縁」になって、なくなっています、、、。と思ったら、

その奥に大きな「色代」がありました、、、。それにしても大きい、、、。なんで、こん

なに広いんでしょう、、、?)



(一番下の『第69図 広間の図 匠明』の平面図は、設計士の目からすると建築的には、

あまり洗練されていません。柱が多すぎるのです。実は、光浄院客殿は非常に洗練された

建物なのです。広縁と中門との「つながり」の位置の柱を、構造を工夫して柱をなくし

ていますし、広縁にも柱はありません。まるで、中門建築のエッセンスを記念建築として

後世に残さんが為に建てたのでは?と思えるほどなのです。「柱をなくす工夫」は、吉村

先生の山中湖亀倉雄策氏の別荘を、想い起こさせます、、、。)





写真の右手の、開口部と壁の境には、実は柱はありません。(大野さんも、凄い!)

この別荘の場合は、開口部の引き戸の戸袋の「納まり」の為なんですけど、、、。








追記  『舞台』が出現した時に、同時に『観客』も出現したのでしょうか?『観客』

    が出現した時に、同時に『木戸銭』も発生したのでしょうか、、、、?







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