テレビでターミネーター2観ましたが、かなりカットされてましたね。反道徳的な箇所は根こそぎって感じ。まず、ジョンが母親直伝のテクニックで違法にお金を引き出すシーン、またサラが病院で約束が違うと言って暴れるシーン、それとベッドのサラが病院の看取に顔をべろりと舐められるシーン、更にシュワルツネッガーがダイソンの家で自分の腕を引き裂き人間でないことを示すシーン。これらがカットされてました、ひどすぎる…。あ、シュワルツネッガーが自分の顔を修理するシーンはあったっけな?とにかくカットしすぎですよ。
さて先日、朝日新聞夕刊で連載されていた「親子三代、犬一匹」が終了しました。この小説は最初の3分の2くらいまでつまらなくてつまらなくて、読むのをやめようと何度も思いましたが、最後の方になって、ようやく少しおもしろさを理解できるようになりました。要するにこれは、らきすた系なんですね。萌え要素のないらきすたですね。らきすたはかわいい女子高生たちのゆる~い日常を描いた作品ですが、この小説は小学生から中学生になった男の子(「少年」とはまだ呼びたくないほどの幼さの)の日常を追った作品。両方とも特別な事件が起きるわけではなくて、ただぺちゃくちゃ喋ってるような些事がひたすら描写されます。らきすただったら、自分の萌え要素ってものを見つけてそれを楽しむものですが(あるいは単にかわいいコたちのおしゃべりに癒されたり)、この小説はそういう要素が最初からないので、そもそも小説として存在理由があるのか、って感じがしたのですが、これはこれでいいのかな、と後半になって思い始めました。
ぼくだったららきすたに軍配を上げますが、まあこんな小説があってもいいだろう、と今では認めています。もっとも、わざわざ単行本を買う気にはなれないですけどね。「ねたあとに」なんかは、やはり何事も起こらない山小屋での生活を描いていましたが、あれは完全なプロットの消去と実は技巧的な文体とによって新鮮な感懐を得られる作品だったのに対し、「親子三代」の方にはそういう目新しさというものがなく、本当に読んでも読まなくても何も変わらない、というタイプの小説なんですよね。別に癒されることもない、という。新聞小説ならではの作品であるかもしれません。
ところで、他紙は知りませんが、朝日新聞って歴史小説が多いですよね。3本に1本は歴史小説じゃないですか。そんなにファンがいるのでしょうか。夢枕獏の作品以外は、ぼくにはつまらなくて仕方ないのですが…。いま朝刊に連載しているやつなんかは、かなり特殊な芸術を扱っていることもあり、興味のない読者は相当いると踏んでいるのですが、どうでしょう。連載すること自体は構いませんが、今の(歴史小説が全体に占める)割合は高すぎます。これでは小説には「現代小説」と「歴史小説」という二つのジャンルしかないように見えます。
で、ぼくは最近思うのですが、漱石の「夢十夜」みたいなのをまた連載したらどうかと。幻想的な内容もさることながら、10話で完結っていうのが一番の魅力です。現行のは長すぎるんですよ。「親子三代」は10ヶ月も続いたそうです。テレビドラマは3ヶ月が1クールですよ。一年近くもやられたら、飽きてしまいます。途中でつまらなくなってやめたら、再び読み始めるのが難しくなるので、もう当分の間新聞小説は読めなくなってしまいます。でも短期連載であれば、その小説がつまらなくても少しの間だけ我慢すればまた新しいのが始まるので、新聞の楽しみも増すというものです。
それから、短期連載を定期的に敢行することで、その期間に最新の海外文学の翻訳を載せたらいいと思うんです。翻訳文学っていうのもある種の日本語文学ですから、別に構わないだろうと。若手の日本人作家は、村上春樹訳や柴田元幸訳の小説に影響を受けている、ってことが言われていますしね。翻訳だって立派な日本語文学なわけです。
それに、短期だったら若手の作家を実験的に登用できるし、それは書き手にとっても読み手にとっても刺激的な場になるはずなんですよね。もちろん一年間かけての連載っていうのを全否定しているわけではなくて、幸い新聞ってのは朝刊と夕刊と二種類あるわけですから、うまくそれに役割をふって、長期連載させたり、中期(半年くらい)または短期の連載も挟むようにすればいいと思うんです。新聞は文芸誌ではありませんが、小説の分量を増やせと主張しているわけではないので、反対される十分な根拠っていうのは少ないんじゃないかと思うのですが。
1ヶ月で完結するような物語が読みたいなあ。夢十夜よ、再び。
さて先日、朝日新聞夕刊で連載されていた「親子三代、犬一匹」が終了しました。この小説は最初の3分の2くらいまでつまらなくてつまらなくて、読むのをやめようと何度も思いましたが、最後の方になって、ようやく少しおもしろさを理解できるようになりました。要するにこれは、らきすた系なんですね。萌え要素のないらきすたですね。らきすたはかわいい女子高生たちのゆる~い日常を描いた作品ですが、この小説は小学生から中学生になった男の子(「少年」とはまだ呼びたくないほどの幼さの)の日常を追った作品。両方とも特別な事件が起きるわけではなくて、ただぺちゃくちゃ喋ってるような些事がひたすら描写されます。らきすただったら、自分の萌え要素ってものを見つけてそれを楽しむものですが(あるいは単にかわいいコたちのおしゃべりに癒されたり)、この小説はそういう要素が最初からないので、そもそも小説として存在理由があるのか、って感じがしたのですが、これはこれでいいのかな、と後半になって思い始めました。
ぼくだったららきすたに軍配を上げますが、まあこんな小説があってもいいだろう、と今では認めています。もっとも、わざわざ単行本を買う気にはなれないですけどね。「ねたあとに」なんかは、やはり何事も起こらない山小屋での生活を描いていましたが、あれは完全なプロットの消去と実は技巧的な文体とによって新鮮な感懐を得られる作品だったのに対し、「親子三代」の方にはそういう目新しさというものがなく、本当に読んでも読まなくても何も変わらない、というタイプの小説なんですよね。別に癒されることもない、という。新聞小説ならではの作品であるかもしれません。
ところで、他紙は知りませんが、朝日新聞って歴史小説が多いですよね。3本に1本は歴史小説じゃないですか。そんなにファンがいるのでしょうか。夢枕獏の作品以外は、ぼくにはつまらなくて仕方ないのですが…。いま朝刊に連載しているやつなんかは、かなり特殊な芸術を扱っていることもあり、興味のない読者は相当いると踏んでいるのですが、どうでしょう。連載すること自体は構いませんが、今の(歴史小説が全体に占める)割合は高すぎます。これでは小説には「現代小説」と「歴史小説」という二つのジャンルしかないように見えます。
で、ぼくは最近思うのですが、漱石の「夢十夜」みたいなのをまた連載したらどうかと。幻想的な内容もさることながら、10話で完結っていうのが一番の魅力です。現行のは長すぎるんですよ。「親子三代」は10ヶ月も続いたそうです。テレビドラマは3ヶ月が1クールですよ。一年近くもやられたら、飽きてしまいます。途中でつまらなくなってやめたら、再び読み始めるのが難しくなるので、もう当分の間新聞小説は読めなくなってしまいます。でも短期連載であれば、その小説がつまらなくても少しの間だけ我慢すればまた新しいのが始まるので、新聞の楽しみも増すというものです。
それから、短期連載を定期的に敢行することで、その期間に最新の海外文学の翻訳を載せたらいいと思うんです。翻訳文学っていうのもある種の日本語文学ですから、別に構わないだろうと。若手の日本人作家は、村上春樹訳や柴田元幸訳の小説に影響を受けている、ってことが言われていますしね。翻訳だって立派な日本語文学なわけです。
それに、短期だったら若手の作家を実験的に登用できるし、それは書き手にとっても読み手にとっても刺激的な場になるはずなんですよね。もちろん一年間かけての連載っていうのを全否定しているわけではなくて、幸い新聞ってのは朝刊と夕刊と二種類あるわけですから、うまくそれに役割をふって、長期連載させたり、中期(半年くらい)または短期の連載も挟むようにすればいいと思うんです。新聞は文芸誌ではありませんが、小説の分量を増やせと主張しているわけではないので、反対される十分な根拠っていうのは少ないんじゃないかと思うのですが。
1ヶ月で完結するような物語が読みたいなあ。夢十夜よ、再び。