とてもいい曲だと思う。しかしあえて言うけれども、違和感が拭えない。この違和感の原因は分かっていて、そしてその原因が悪いものではないことも分かっている。人間というものは変わるものだし、創作者もまた変わるものだ。作家も、アニメーターも、歌手も、皆それぞれの道を歩きながらそれぞれの変化をする。それは決して悪い事じゃない。むしろ、同じ所に留まって人にもそうすることを求めることの方がよっぽど悪い。
amazarashiの新曲『ジュブナイル』は、疾走感あふれる応援歌と言っていいと思う。秋田さんは、「少年少女」たちに、「前に進むんだ」と呼びかけている。そこから一歩も動かないのなら君は「侮辱された人間だ」けれども、そこから一歩歩き出せたら君は「負けなかった人間だ」と。
苦しむ少年少女たちの背中を押す。大いに結構。でもぼくの違和感もここにある。これまで秋田さんは、「そこから一歩も動かないのなら君は「侮辱された人間だ」」と歌ったことがあっただろうか。いや、彼はいつもこう歌ってきたのではなかったか、「歩き出すのも 諦めるのも 好きにさせろよ 奇跡 奇跡」。彼は常に「行こうか戻ろうか悩んで」いて、「逃避行」が生きる道になる逆説を歌ってきた。確かに、一歩も動かないままでは「侮辱された人間」として終わってしまうかもしれないけれども、しかしそれさえ「奇跡」ではないのか。秋田さん自身は、過去を全て燃やして前を見据える決意を歌うこともあったけれど、しかし「前進しなければならない」と「少年少女」を鼓舞することはなかったのではないか。
「少年少女」に向けた歌という体裁を取らざるを得ないのは、これが成功者の視座から語られた歌詞だから、という気がしてしまう。つまり上からの目線で語られているから、対象は少年少女にならざるをえない。自らの悩みを叫ぶように表白するこれまでの歌と違い、成功者の立場で、君たちも頑張るんだと応援している。彼は「一歩 歩き出」したのだ。
もちろん、これは寿ぐべきことだと思う。でも、ぼくは置いていかれてしまった。『終わりで始まり』で既に気付いていたこの事実、あるいは亀裂は、いよいよ大きくなっていくのだろうな。
amazarashi、進めよ。行けるところまで行ってくれよ。後ろなんて振り返らないで、無我夢中で走って行けよ。その姿に、ぼくはまた違う感動を覚えるかもしれないから。
amazarashiの新曲『ジュブナイル』は、疾走感あふれる応援歌と言っていいと思う。秋田さんは、「少年少女」たちに、「前に進むんだ」と呼びかけている。そこから一歩も動かないのなら君は「侮辱された人間だ」けれども、そこから一歩歩き出せたら君は「負けなかった人間だ」と。
苦しむ少年少女たちの背中を押す。大いに結構。でもぼくの違和感もここにある。これまで秋田さんは、「そこから一歩も動かないのなら君は「侮辱された人間だ」」と歌ったことがあっただろうか。いや、彼はいつもこう歌ってきたのではなかったか、「歩き出すのも 諦めるのも 好きにさせろよ 奇跡 奇跡」。彼は常に「行こうか戻ろうか悩んで」いて、「逃避行」が生きる道になる逆説を歌ってきた。確かに、一歩も動かないままでは「侮辱された人間」として終わってしまうかもしれないけれども、しかしそれさえ「奇跡」ではないのか。秋田さん自身は、過去を全て燃やして前を見据える決意を歌うこともあったけれど、しかし「前進しなければならない」と「少年少女」を鼓舞することはなかったのではないか。
「少年少女」に向けた歌という体裁を取らざるを得ないのは、これが成功者の視座から語られた歌詞だから、という気がしてしまう。つまり上からの目線で語られているから、対象は少年少女にならざるをえない。自らの悩みを叫ぶように表白するこれまでの歌と違い、成功者の立場で、君たちも頑張るんだと応援している。彼は「一歩 歩き出」したのだ。
もちろん、これは寿ぐべきことだと思う。でも、ぼくは置いていかれてしまった。『終わりで始まり』で既に気付いていたこの事実、あるいは亀裂は、いよいよ大きくなっていくのだろうな。
amazarashi、進めよ。行けるところまで行ってくれよ。後ろなんて振り返らないで、無我夢中で走って行けよ。その姿に、ぼくはまた違う感動を覚えるかもしれないから。