いま自分が大学でやっていることは、たぶん文学研究だと思います。でも、それがとても虚しい作業に感じられてしまう。世間の目に触れるわけでもない、一つの狭い共同体内部でのみ活用される論文を書くこと。あるいは関連文献を調査すること。これは一体何なのだろう。研究というのは、もっと広範に影響力のある誰かの評論に役立つのかもしれない。でもだとしたら、初めからそういう評論を書けばいいのではないか?・・・
なるほど基礎分野の研究を疎かにはできないし、こういう作業が必要だというのは分かります。でも、少なくても自分がやりたいのは、こういうことじゃあないんだ。ぼくが求めているのは、対象を研究することではなくて、対象を共有することなのです。分かち合うということです。
例えばぼくはCLANNADが好きだけれど、これについて評論/コメントを書く人が全員この作品を好きだとは限りません。登場人物の機能分析をしたり、並行世界の構造を解析したり、示唆に富むものもあるとはいえ、でもぼくが思うこの作品のすばらしさというのは、もっと別のものです。その「別のもの」が何なのか、自分なりに考え、調べ、書いてみたい。そしてそれを共有したい。いや、たぶん「別のもの」というのは明らかにはなりません。それを明らかにすることはできません。曖昧なままの、障子越しの月のように朧げな、儚いままのそれを、そのままの形で共有したい。作品をすっぱりときれいに分析して終了、みたいな研究、批評、評論は、したがって著者の思い上がりの強い、独断的なものであるような気がします。自分なりの方法論・視座で対象を分析して見せたところで、それが一体何なのだろう。そういう文章を好む読者がいるのは知っていますが、でもそういう文章からは、「共有」の意志が感じられません。自分の頭のよさをひけらかすような論文は駄目だ。
その作品や作家をより光り輝かせるために書かなければ駄目だ。駄目なんだ。でもぼくにはそれが全然できていない。はっきりと言っておきます、ぼくがもっと輝かせたい作品は、CLANNADの他に、チェーホフの幾つかの作品、『耳をすませば』、宮崎駿の作品、新海誠の作品です。けれども、自分はいまそのために何をしているんだ?・・・ぼくは一遍、本当に命をかけるようにして『耳をすませば』に取り組んでみたい。そしてその結果を世に出して多くの人と分かち合いたい。そうするべきではないだろうか?だけど、そんなことをする時間的・金銭的余裕はどこにあるのだ?社会的ステータスは?自分はどうしたらいいんだろう?何をしたいかは本当は分かっているんだ。でも、どうしたらいいのかが分からない。このままロシア文学の道に進んだとしても、ぼくはたぶん一生定職には就けない。だとしたら、だとしたら・・・
なるほど基礎分野の研究を疎かにはできないし、こういう作業が必要だというのは分かります。でも、少なくても自分がやりたいのは、こういうことじゃあないんだ。ぼくが求めているのは、対象を研究することではなくて、対象を共有することなのです。分かち合うということです。
例えばぼくはCLANNADが好きだけれど、これについて評論/コメントを書く人が全員この作品を好きだとは限りません。登場人物の機能分析をしたり、並行世界の構造を解析したり、示唆に富むものもあるとはいえ、でもぼくが思うこの作品のすばらしさというのは、もっと別のものです。その「別のもの」が何なのか、自分なりに考え、調べ、書いてみたい。そしてそれを共有したい。いや、たぶん「別のもの」というのは明らかにはなりません。それを明らかにすることはできません。曖昧なままの、障子越しの月のように朧げな、儚いままのそれを、そのままの形で共有したい。作品をすっぱりときれいに分析して終了、みたいな研究、批評、評論は、したがって著者の思い上がりの強い、独断的なものであるような気がします。自分なりの方法論・視座で対象を分析して見せたところで、それが一体何なのだろう。そういう文章を好む読者がいるのは知っていますが、でもそういう文章からは、「共有」の意志が感じられません。自分の頭のよさをひけらかすような論文は駄目だ。
その作品や作家をより光り輝かせるために書かなければ駄目だ。駄目なんだ。でもぼくにはそれが全然できていない。はっきりと言っておきます、ぼくがもっと輝かせたい作品は、CLANNADの他に、チェーホフの幾つかの作品、『耳をすませば』、宮崎駿の作品、新海誠の作品です。けれども、自分はいまそのために何をしているんだ?・・・ぼくは一遍、本当に命をかけるようにして『耳をすませば』に取り組んでみたい。そしてその結果を世に出して多くの人と分かち合いたい。そうするべきではないだろうか?だけど、そんなことをする時間的・金銭的余裕はどこにあるのだ?社会的ステータスは?自分はどうしたらいいんだろう?何をしたいかは本当は分かっているんだ。でも、どうしたらいいのかが分からない。このままロシア文学の道に進んだとしても、ぼくはたぶん一生定職には就けない。だとしたら、だとしたら・・・