Light in June

文学やアニメ、毎日の生活についての日記。

新聞小説について

2009-06-14 02:38:50 | 文学
テレビでターミネーター2観ましたが、かなりカットされてましたね。反道徳的な箇所は根こそぎって感じ。まず、ジョンが母親直伝のテクニックで違法にお金を引き出すシーン、またサラが病院で約束が違うと言って暴れるシーン、それとベッドのサラが病院の看取に顔をべろりと舐められるシーン、更にシュワルツネッガーがダイソンの家で自分の腕を引き裂き人間でないことを示すシーン。これらがカットされてました、ひどすぎる…。あ、シュワルツネッガーが自分の顔を修理するシーンはあったっけな?とにかくカットしすぎですよ。

さて先日、朝日新聞夕刊で連載されていた「親子三代、犬一匹」が終了しました。この小説は最初の3分の2くらいまでつまらなくてつまらなくて、読むのをやめようと何度も思いましたが、最後の方になって、ようやく少しおもしろさを理解できるようになりました。要するにこれは、らきすた系なんですね。萌え要素のないらきすたですね。らきすたはかわいい女子高生たちのゆる~い日常を描いた作品ですが、この小説は小学生から中学生になった男の子(「少年」とはまだ呼びたくないほどの幼さの)の日常を追った作品。両方とも特別な事件が起きるわけではなくて、ただぺちゃくちゃ喋ってるような些事がひたすら描写されます。らきすただったら、自分の萌え要素ってものを見つけてそれを楽しむものですが(あるいは単にかわいいコたちのおしゃべりに癒されたり)、この小説はそういう要素が最初からないので、そもそも小説として存在理由があるのか、って感じがしたのですが、これはこれでいいのかな、と後半になって思い始めました。

ぼくだったららきすたに軍配を上げますが、まあこんな小説があってもいいだろう、と今では認めています。もっとも、わざわざ単行本を買う気にはなれないですけどね。「ねたあとに」なんかは、やはり何事も起こらない山小屋での生活を描いていましたが、あれは完全なプロットの消去と実は技巧的な文体とによって新鮮な感懐を得られる作品だったのに対し、「親子三代」の方にはそういう目新しさというものがなく、本当に読んでも読まなくても何も変わらない、というタイプの小説なんですよね。別に癒されることもない、という。新聞小説ならではの作品であるかもしれません。

ところで、他紙は知りませんが、朝日新聞って歴史小説が多いですよね。3本に1本は歴史小説じゃないですか。そんなにファンがいるのでしょうか。夢枕獏の作品以外は、ぼくにはつまらなくて仕方ないのですが…。いま朝刊に連載しているやつなんかは、かなり特殊な芸術を扱っていることもあり、興味のない読者は相当いると踏んでいるのですが、どうでしょう。連載すること自体は構いませんが、今の(歴史小説が全体に占める)割合は高すぎます。これでは小説には「現代小説」と「歴史小説」という二つのジャンルしかないように見えます。

で、ぼくは最近思うのですが、漱石の「夢十夜」みたいなのをまた連載したらどうかと。幻想的な内容もさることながら、10話で完結っていうのが一番の魅力です。現行のは長すぎるんですよ。「親子三代」は10ヶ月も続いたそうです。テレビドラマは3ヶ月が1クールですよ。一年近くもやられたら、飽きてしまいます。途中でつまらなくなってやめたら、再び読み始めるのが難しくなるので、もう当分の間新聞小説は読めなくなってしまいます。でも短期連載であれば、その小説がつまらなくても少しの間だけ我慢すればまた新しいのが始まるので、新聞の楽しみも増すというものです。

それから、短期連載を定期的に敢行することで、その期間に最新の海外文学の翻訳を載せたらいいと思うんです。翻訳文学っていうのもある種の日本語文学ですから、別に構わないだろうと。若手の日本人作家は、村上春樹訳や柴田元幸訳の小説に影響を受けている、ってことが言われていますしね。翻訳だって立派な日本語文学なわけです。

それに、短期だったら若手の作家を実験的に登用できるし、それは書き手にとっても読み手にとっても刺激的な場になるはずなんですよね。もちろん一年間かけての連載っていうのを全否定しているわけではなくて、幸い新聞ってのは朝刊と夕刊と二種類あるわけですから、うまくそれに役割をふって、長期連載させたり、中期(半年くらい)または短期の連載も挟むようにすればいいと思うんです。新聞は文芸誌ではありませんが、小説の分量を増やせと主張しているわけではないので、反対される十分な根拠っていうのは少ないんじゃないかと思うのですが。

1ヶ月で完結するような物語が読みたいなあ。夢十夜よ、再び。

バットマン

2009-06-13 01:18:09 | アニメーション
幾つかネタはあるので、何を書こうか迷いましたが、アニメーションのDVDから。

『バットマン ゴッサムナイト』を観ました。
と言っても、ぼくはバットマンのファンではないし、それどころかバットマンについての最低限の知識もたぶん持ち合わせていない人間で、その派生作品を観る資格(もしそんなものがあるとしたら)は絶対にない、と確信していますが、アニメーション自体はよく作られていそうだったので、観てみることにしました。

6編の短編からなる作品で、それぞれ独立したものです。ただ、最初の作品は導入的な色合いが濃いですが。で、ぼくはバットマンってものが一体なんなのか本当に知らなくて、ちょっとここでは恥ずかしくて言えないような疑問も鑑賞中に何度か沸きましたが、そういうことで頭を悩ますのも嫌なので、純粋に動きや演出を楽しもう、と途中で頭を切り替えました。

4℃やマッドハウス、I.Gが参加していて、さすがに動きのキレはいいですね。冒頭の作品はもろに4℃色が出ていて、バットマンとしてはどうなんだ、という気がしなくもないですが、もうそこには拘らないという立場からすれば、いいんじゃないってことになります。って、なんだか意味のないことをだらだら書いてるなあ…

どの作品も基本的には画面が暗くて、というのも夜が背景だからですが、こういうのを観ていると、ああ自分はジブリのような健康的なアニメが好きなんだなあ、ということを再認識させられます。暗い中で格闘して、血を流し、拳銃を撃ちまくり…というようなのって、あんまり好きじゃないんですよね。真っ青な空とか、夕焼けとか、そういうのがいい。格闘シーンにしても、エヴァ並みのかっこよさ、というか、あの肉感的でさえある、こちらを興奮させずにはおかない動きの快楽を追求したようなシーンを演出してくれたらいいんですが、そうではないですからねえ。結局最近のアメリカのアクション映画の二番煎じ。その点、冒頭の4℃の作品だけは頭ひとつ抜けていた気がします。エネルギッシュな空中飛行や影の中を移動する奇怪な動きなどは、アニメーションならではの快感をもたらしてくれました。

バットマン・シリーズに詳しい人だったら、より楽しめる作品なのかもしれないですね。

多摩へ・・・

2009-06-12 00:32:47 | お出かけ
2時ごろ太陽が突然雲間から顔を出し、紫陽花に光を送り届けた。
よし、今日だ、と思ってぼくは列車に乗り込みました。
目的地は京王相模原線の若葉台駅。てっぺん丘のあるところだ。

「てっぺん丘」というキーワードで検索しても、6年くらい前にはたしか1,2件しかヒットしませんでした。しかし今では数万件ヒットします。「耳をすませば」というキーワードを加えるとかなり絞り込まれますが、それでも数千件ヒットします。もっとも、「てっぺん」「丘」という単語がそれぞれ単独でヒットしてしまうので、目的の場所を指し示すHPはやはりかなり少ないようです。

ぼくの目指すのは連光寺のてっぺん丘と、そこにある給水所。そして桜ヶ丘公園でした。『耳をすませば』の秘密の場所、というのは実際には存在しないようですが、あのラストの光景は「読売ランド」に立つ鉄塔からの眺めであり、そのわりとすぐ側にある若葉台駅の丘の上から見た景色も、映画の場面に近いと言われてきました。一般的には聖蹟桜ヶ丘の通称「耳丘」からの眺めが有名で、そこは耳すまファンの「聖地」として数多くのファンが「巡礼」に訪れました。ぼくも幾度となく丘を上り、あるときは夏の陽射しを浴び、あるときは冬の夕日に思いを馳せたものです。しかし数年前に耳丘は封鎖され、今では立ち入ることができなくなりました。ぼくの足も自然と遠のきました。

百草園にも行きました。ここは古くから眺望に適した地として有名で、高台からは多摩丘陵を見晴るかすことができます。しかし、若葉台にはこれまで行ったことがなく、それがずっと心残りでした。それで、夏になる前に今年こそ出かけようと心に決めていたのです。しかも、晴れた日に行こう、と。

昔はよく一人で少し遠くまで出かけていたものですが(その最たるものは泊りがけで山に木を伐りに行ったことでしょうか)、近年はそういうこともなくなり、今日は久々の単独の遠出でした。若葉台は神奈川県に位置し、多摩市と接しているようです。「京王よみうりランド」を過ぎるともうそこは山で、東京の面影はまるで残っていません。ぼくは下調べをほとんどせずに「当たって砕けろ」の精神で地図も持たずにやって来たものですから、どちらの方角へ歩けばよいのかさえ分からず、しばし途方にくれました。しかし駅の脇にあるお店で道を聞いたところ、坂を上ったところに交番があるのでそこで聞いてごらんなさい、と言われたので、その通りに坂道を上がってゆくことにしました。

給水所が最大の目標だったのですが、高台にある給水所なら駅から見えるだろ、くらいの気持ちで臨んだのが間違いで、どちらへ行けばよいのやらさっぱり分からなかったものの、とりあえず坂を上り終えたところの「出張所」で話を聞きました。交番ではない気がしましたが、なに、構いません。そこで働いている人たちはとても親切で、「桜ヶ丘公園はどこか」「連光寺というのはどの辺りか」というぼくの些か漠然とした質問に丁寧に答えてくれました。桜ヶ丘公園の場所はどうやら知らないようでしたが、地図で探してくれて、頼んでもいないのにその道順をコピーまでしてくれました。コピー代を出そうとすると断られ、善意に救われた気持ちになりました。

道を尋ねているうちにどういうわけか顔から汗が噴き出してきて、出張所を出たあとも、結局それからずっと汗が流れっぱなしでした。急に暑くなったように感じられて、ぼくは長袖のシャツを腕まくりし、地図を片手に歩き出しました。タオル持ってくりゃよかったな。

連光寺の配水場に辿り着いたのは、それから20分ほど後のことです。「給水所」だと聞いていたのですが、「配水場」と記されていました。てっぺん丘というのはこの辺りのはずなのですが、いまいち場所がつかめません。そこは側に橋のかかった見晴らしのよい高台で、清々しい景色を眺望できますが、「てっぺん丘」と名付けられるような丘だとはちょっと思えませんでした。しかしとりあえず配水場は後にし、ぼくは桜ヶ丘公園に向かいました。

いま歩いているのは東京のはずですが、とてもそうは思えませんでしたね。キリギリスのような声が草むらから聞こえ、木は生い茂り、畑にはトマトなどが植えられています。寄り道をしながら(迷いながら?)若葉台駅から歩くこと1時間、桜ヶ丘公園に辿り着いたときは4時を大きく回っていました。そこは非常に広い公園で、いや公園と言うよりは「緑地帯」と言った方が正確でしょうね。八国山緑地に幾分似ている気がします。記念館が建っていましたが、あいにくもう閉館時間を過ぎており、ぼくは外のベンチでしばし休憩して、また踵を返しました。家に帰った後で知ったことですが、ここの「ゆうひの丘」(でしたっけ?)からも多摩の街が見渡せるそうです。下調べをせず、残念なことをしました。

さて帰路の途中で自動販売機を見つけ、即購入。汗だくだくで歩いていたので(痩せてるわりには汗っかき)、水分が取りたかったのに、来る途中は見つからなかったんですよね。でもこれでよし、ということで、また丘を上り始めました。ちなみに若葉台から配水場までが約25分、そこから桜ヶ丘公園までがまた約25分で、配水場を頂点に、上り坂/下り坂が続いています。しかしこんな坂なんのその、というわけではあはあ言いながらぼくは上り、上を見上げると、空が何て広いんだ!都会の真ん中ではビル群に区切られた矩形の空しか見えないので、こういう広大無辺の空を見ると、本当に気持ちよくなります。

帰りは行きとは少し違う道を通りました。てっぺん丘を探すのを忘れてしまって、ぼくはまた坂を下り始めました。(配水場のあるところがてっぺん丘なのか?それとも広場があるのか?)出張所の人たちに挨拶していこうかとも思いましたが、それはよして駅へ。これで今日の「旅」は終わり。

最初、道が全く見当もつかないし、地図を貰ってからも目的地があまりにも遠いようなので(知らない道を片道1時間も歩くのは心細いよ)、何度もくじけそうになりましたが、最低限の目標は達成できたのでまあまあ満足です。ただ、今回は見落とした場所が複数あるので、また今年中に戻ってきたいですね。狭山丘陵の辺りを昔やはり一人で散策したことがありましたが、こんなに不安になったかなあ。でも今日だって30分くらいしたら楽しくなってきましたけどね。

帰りの電車から外を見ると、ようやく日の光に金色が濃くなり、雨に濡れた木の葉が夕日に輝く様は、えもいわれぬほど美しいものでした。今度は丘のてっぺんから夕日を拝みたいものです。

疲れたけど、久々に充実した一日でした。

AIR 劇場版

2009-06-11 01:17:02 | アニメーション
今日出かける予定が、晴れではなかったので中止。明日以降に回す。体調の優れぬことも理由の一つ。

さて、劇場版のAIRを観ました。CLANNADの劇場版はあまりよくなくて、監督は同じく出崎統だったので期待していなかったのですが(CLANNADは「あしたのCLANNAD」だった)、想像よりも楽しめました。

いま、けっこう感情が機敏になっていて、傷つきやすく大気に消え入りそうな状態だったので、その心境とAIRの繊細な物語とがよくマッチしたのかもしれません。

劇場版は、往人と観鈴の物語に焦点を合わせ、テレビ版で描かれた他のエピソードはカットしています。もちろん、神奈編はありますが(彼女の性格がツンデレのテレビ版とは正反対だったのが驚きでした)。神奈編を途中で適宜挿入しながら、観鈴編をメインプロットとして構成しています。

演出には不満もあります。例えば観鈴の病気のことが初めてオーディエンスに知らされるときの音楽。あまりにも時代がかっていて、まるでベタなコントのよう。チャラリ~って感じの音楽が流れるんですよね。あれはひどい…。

観鈴は最後にはやっぱりテレビ版と同じ結末になってしまいますが、往人はカラスにはならず、ただ新たな旅に出ます。

テレビ版だと、本当に哀れなラストになりますが、しかし一方で次世代に希望を託す物語にもなっていました。劇場版は、救い云々というよりも、命をかけて誰かを愛するその行為そのものが問題になっていた気がします。たとえ死ぬことになったとしても、私はあなたを愛します、というその純粋で真直ぐな感情を、夏祭りの花火のように美しく、そして儚く描いていたようです。たとえ炎となってこの身が燃え尽きようとも、愛のために殉死するならばそれもまた幸福だ、そんな気持ちになりますね。でも、往人が人間のままでいることによって、少し違和感のようなものが残るのも確か。自分はおろか他人をも傷つけ殺してしまう呪いであればこそ、愛の残酷さが浮かび上がるはずなのに。実際、昔話編はそういう物語でした。けれどこれはテレビ版を観ているからこその発想かもしれません。

また晴子との関係も、テレビ版に比べれば未消化ですかねえ。観鈴を裏切ることになってしまっていますからね。母との絆、愛情がテレビ版の後半ではメインテーマになっていましたが、劇場版ではそれが曖昧でした。やはり91分でそこまで要求するのは酷でしょうか?

ところで、メインメニューのBGMは「鳥の詩」のオーケストラでの演奏。これはもう鳥肌もんです。とにかくすごいの一言に尽きます。
あと「がお」が一回しか聞けなかったのは残念。

幾つか文句をつけましたが、映画としてはけっこうまとまっていて、それなりに感動を呼び起こす出来になっていると思います。作画が必ずしも統一されておらず、ギャグっぽくなっている箇所もありましたが、ぼくにとってはシリアス調に束ねた方がよかったですね。しかしまあ合格点です。切なくなりました。

11人いる!

2009-06-09 23:16:08 | 漫画
「けいおん!」まであと二日。それまでがんばらなきゃ。
どうも今日は調子が悪い。書いたら寝よう。
アヌシーがついに開幕。一遍行ってみたい。

さてと。

言わずと知れた萩尾望都の名作「11人いる!」を読みました。
これはもうS級作品ですね。A級以上ってことです。ドラゴンボールで言えば、超サイヤ人3がS級で、悟飯がセルとの戦いのときに超サイヤ人2に覚醒したときの状態がA級です。A級でもものすごいレベルだということです。文学で言えば、名だたる世界文学の古典で且つおもしろく読めるものはよくてA級、しかしその中の特別なもの、例えばドストエフスキーの後期の長編などがS級です。もちろんこれはぼくの個人的な評価であって、絶対的な基準ではありません。オーケー?

さて「11人いる!」の舞台は宇宙船。宇宙大学の最終試験に残った10人が、宇宙船で53日間暮らすことを強いられます。それをクリアできたら晴れて合格。しかし、宇宙船に乗り込んだメンバーは、なぜか11人いた!

この設定が秀逸ですよね。どうやら宮沢賢治の小説からインスピレーションを受けたようですが、それをよく活かしています。宇宙船という完全な「密室」で、受験生以外の謎の人物が紛れ込んでいることから彼らの間に猜疑心が生まれ、サスペンスも生じます。謎を孕んだまま物語は様々な事件を生起させ、やがて収束へと向かうのですが、それがいわば第一のプロット。もう一つのプロットは恋愛です。と言ってもベタな物語ではなく、男性であること、女性であることについて色々と考えさせられる、しかも実に感動的なドラマです。この二つのプロットが絡み合いながら時間が進行してゆきます。

他にも幾つかの作品が収録されていましたが、いずれも傑作。学会で話題になるだけのつまらない小説を読むより、萩尾望都の漫画を繰り返し読んだ方がよっぽど時間を有意義に使える気がします。
でも漫画も多様ですよね。これほどのレベルの作品から、どっかの週刊雑誌に載っている下らない作品まで、まさに玉石混交。まあ裾野が広いと言えるのかもしれませんが。

そういえば、以前友達とアニメーションを作ろうじゃないか、みたいな話になって、ぼくがコンテを書き始めたところ、頭の中にあるイメージを絵にしようと奮闘し、しかし結局絵の横に言葉でそのイメージを説明するようになってしまったことがありました。ぼくにとっては、絵よりも言葉で世界を解説する方が合っているのかなあ、と残念のような得心のいったような複雑な気持ちがしたものですが、「11人いる!」の作者は完全に絵と言葉で世界を表現する能力に恵まれているようです。すばらしい。

青春の光と影

2009-06-09 01:24:22 | アニメーション
西荻窪の古書店のレビューを書いてから、このブログの訪問者数が倍近くに増えました。なんで?いいことだと思いますが、ちょっとプレッシャーも感じます…

今日は渋谷に行ったついでにアニメイトに寄ったところ、エヴァ(序)がやっていて、引き込まれました。ちょうどラミエルのところです。でも、例の「笑えばいいと思うよ」の直前で終了してしまったので、かんじんなところで!って感じでした。

さてエヴァを見ているうちに今日のブログの題名が閃いて、それが「青春の光と影」。あるいは「14歳」。どういうことかというと、どちらも14歳が主人公である「耳すま」と「エヴァ」が、ぼくの青春の光と影に対応しているってことです。

まず光の部分から言うと、ぼくは昔そこそこ足が速くて、勉強もできる方だったのですが、一方で不良と呼ばれる人たちともまあまあやっていけてて(修学旅行の部屋を同室にした程度には)、「わりと仲のいい女子」とはときどき一緒に帰っていたりしていて、で、その翌日にクラスメイトから「きのう一緒だっただろ」とか言われて驚いて…という、まるで「耳をすませば」の世界そのものみたいな世界の中にぼくはいたのでした。そんなぼくの憧れはやっぱり聖司や雫で、特別な思いを抱いていました。

他方、「エヴァ」を初めて見たのは中3のときだったのですが、ぼくはこれが原因で成績ががた落ちして(と昔から人には言っている)、気持ちも一気に暗いほうへと沈んでいきました。エヴァは、ぼくがそれまでに知っていたどんな漫画ともアニメとも違っていました。エヴァのショックは余りにも大きく、人間の負の面というものにぼくは意識的になりました。実生活でもよくないことが多くなり、例えば高校受験の失敗がその一つですが、ぼくは極端に社交性を失っていきました。

だから、「耳」はぼくの青春の光を象徴し、「エヴァ」は影を象徴しているような気がします。ところが、月日が流れるに従い、この光だったはずのものにぼくはがんじがらめにされてゆくことになるのですが。

でも、どちらもぼくにとっては非常に大切なアニメーション作品です。中3のとき、塾の先生から「勉強とアニメとどっちが大事なんだ」と問われたことがあって、ぼくは「アニメです」と即答し、殴られたことがありました。後にも先にも先生からげんこつを喰らったのはこれ一度きりです。しかしこの自分の受け答えには今でも誇りを持っていて、たぶん、ぼくが誇らしく感じている数少ない過去の出来事のうちの一つです。ぼくにとってすばらしいアニメーション作品は、学校の勉強や受験なんかよりもよっぽど大事でしたし、大事です。その気持ちをあの頃から持ち続けることができていて、それはひょっとすると人に誇れることなのかもしれないですね。まあ今のぼくの場合、学校の勉強なんてものは存在しないですけどね。

最後に。ハルヒの「笹の葉ラプソディ」の感想を書きそびれてしまっています。見たのがちょっと遅かったので、機を逸してしまい、そのままなんですよね。明日以降も書けないかもしれないので、ここで一言だけ言っておきます。キョン節は健在だった、と。

忘れえぬロシア

2009-06-07 23:08:29 | お出かけ
今日ではないですが、ブンカムラで開催されていた19世紀から20世紀初頭くらいまでのロシア美術の展覧会、「忘れえぬロシア」に行ってきました。ちなみにこれ、今日が最終日だったので、もう入場できませんが…

展示されていたのは主にリアリズムの美術。シーシキンとかですね(会場に、「シーチキン」と発言している紳士がいた)。ぼくはけっこうシーシキンの絵が好きです。彼の描くのは森林が多くて、今回もそういった絵が飾られていました。以前ここに書きましたが、しかしシーシキンはエストニアのアニメーションでぼろくそに揶揄されていて、そんなにけなさなくていいのに、と思ったものです。余談ですけどね。

ところでアレクサンドル・グリーンという作家がロシアにいますが、彼の『消えた太陽』という短篇集のカバーが、やはり美しい森林を描いたものです。ぼくはこれとかなりよく似たシーシキンの絵を知っているのですが、これは彼の絵を載せているのでしょうか…それとも模倣?

会場は人が多くて、かつての上野のダリ展ほどではなかったですが、それでもなかなかの混雑で、あまり満足に絵を見られなかったのが残念です。

ぼくには鑑賞眼がないので、どれが上手な絵でどれが優れているのか、といったことは皆目分からないのですが、しかしチェーホフの肖像画には圧倒されました(ゲーという画家の描いたもの)。チェーホフは好きな作家で、本に載っている写真や肖像画などはもう何度も見ていますが、生の肖像画(しかも当然カラー)を見たのは初めてで、その目をじっと見詰めていると、今にもチェーホフが喋り出しキャンバスから出てきそうな気がして、少し恐ろしくさえなりました。リアル云々ではなく、迫力があるんですよね。やっぱり特別な思い入れがあるので、不思議なことに絵画と感応しあっているのかもしれません。
ちなみにツルゲーネフの肖像画には、なんかものすごく倣岸な印象を持ちました。

絵のように美しい、という成句があるように、(リアリズムの)絵というものは現実の美しさを引き出していますよね。逆に、醜い部分に照明を当てたりもしている。そういう機能があるんだと思います。だから、画家の人が見ている世界っていうのは、たぶんぼくの見ている世界とは違うんだろうなと思って、羨ましくなるときがあります。でも、美醜を強烈に感じてばかりいたら、生きるのに疲れてしまうかな…?

ロシア革命アニメーションA

2009-06-07 00:37:04 | アニメーション
最悪でした。

今日、渋谷のアップリンクという映画館で「ロシア革命アニメーション」のAプログラムを見てきたのですが、ひどい上映でした。いや、作品がひどいと言っているわけではありません。上映そのものがひどかったのです。

スクリーンのある小さな部屋に通されると、そこには普通の映画館の座席ではない、多用な肘掛け椅子が置かれていて、それに腰掛けて鑑賞するようです。座り心地は悪くないので、こんな映画館もあるんだ、と驚きました。ところが。

上映開始間際に一人の女性のお客が中に入ってきたのですが、もう座席がありません。そこで、映画館のスタッフが補助席を用意することになりました。そこまではいいです。でも、ここからが問題。なんと、補助席の置かれたのは、スクリーンのまん前だったのですよ、あなた。一番前の、ど真ん中。しかも、その椅子は少し高めに設計されていて、その上そのお客の身長も高めだったようで、完全にスクリーンが陰になってしまっているのです。その小さなスクリーンは、「Ω」のような具合に頭で邪魔されてしまったのです。

でも、短編アニメーションだし、字幕なしかもしれないぞ、と期待を込めていたのですが、始まった作品は字幕のオンパレード。完全にその人の頭が邪魔で、読めないんです。

たとえば「あかさたなはまやらわ」という字幕が出たとします。ぼくの位置からでは、それは「あ       らわ」としか読めないのです。決して誇張ではありません。本当なんです。で、仕方ないので体を横に大きくずらして、横に身を乗り出す形で映画を見ました(座席の間隔は広かったのです)。それでも、字幕は「     はまやらわ」としか読めません。こんなにフラストレーションの溜まる映画鑑賞というのも珍しいです。ぼくは初めてでした。

映画を見ている一方で、頭の中は字幕が見えないもやもやした気持ちが95パーセントくらい支配していました。お願いだから早く終わってくれ、とぼくは祈るような気持ちでした。本当に「金返せ」って思いましたね。初めから字幕が付いていないアニメーションなんてたくさん見てきましたが、そういうのとは全く違いますからね。字幕があるのに見えない、しかも最初半分だけが。何を言っているのか分かりそうで分からない。いらいらしました。

しかも、今日の上映ではどうやら画面の端が切れているようなんですよね。仕方ないからロシア語のほうの文字を追ったりしたのですが、文字が切れていて、ところどころ意味不明の文章になっているわけです。よくできる人ならそれでも推測できてしまうんでしょうが、ぼくはそうではないですから。

本当に頭にきました。これをきっかけに、これとは関係のない癪に触ることまで思い出されてきてしまって、夕飯を食べ終わるまでぼくはかりかりしていました。

ただ、最後の作品だけはけっこう楽しめました。というのも、字幕がほとんどなかったから、というのが理由の一つです。ウラジーミル・タラソフ「射撃場」(1979年)。これはなかなかいいアニメーション作品だと思いました。アメコミ以上にポップな記号に満ちている、とパンフレットの解説には書かれていましたが、なんというか、とてもスタイリッシュな画で、しかもユーモアもあるし、感心しました。はと時計(みたいなやつ)が撃たれて分解するところをスローモーションで見せるシーンや、光と影を強調したデザイン、闇の中を蠢く「正体不明の怪物」のグロテスクさ、いずれも既視感のあるはずの表現ですが、しかし確実に斬新な表現になりえていて、作者のセンスの賜物でしょうか。それともアメコミ研究の?これほどの作品が埋もれていたか、とロシアの奥深さには驚くばかり。

余談ですが、パンフレットに寄せられたノルシュテインの文章は、なぜだかとても分かりにくく、しかもちょっと古臭いですね。「イデオロギーが優先すると芸術性が食われてしまう場合がほとんどだ」というノルシュテインの主張は、「政治とかかわるのは、芸術の純粋性を損ない、価値をおとしめるものだという立場からの批判」に他ならず、それは井上徹さんが退けている思考法なのでは?これでは結局のところ、プロパガンダ映画はプロパガンダであるがゆえに悪い作品である、と言っていることになり、今回の特集上映の趣旨そのものに反するし、いま見る意味を無化してしまっている気がします。

内容がどうであれ優れているものは優れている、と評価する立場や、プロパガンダ映画として、つまり政治と密接に結びついた独自のジャンルとして再評価を図る機運を損なってしまうのではないでしょうか。そもそもぼくはノルシュテインの言う「芸術性」というものはとても怪しいと思っていて、ノルシュテインは他のインタビューなどでも同様の意味の発言をしているから彼の中ではそれは確固たるものなのでしょうが、芸術を芸術たらしめるものっていうのは、非常に難しい問題のはずです。たとえば、何が詩なのか、という議論に終わりがないのと同じように。

ノルシュテインの諸作品と他の多くの娯楽作品との間には、確かに決定的な差があって、それは芸術性としか名付けようのないものなのかもしれませんが、でもこの安易な言葉に依存してしまっていては、大事なものが伝わらない気がします。ノルシュテインの発言って、19世紀的なんでよね。絶対的な何かを信じている。それはたとえば芸術性だったりするわけです。でもぼくたちは、芸術ってなんなのさ、と思っている。だから、ノルシュテインの文章に戸惑い疑念を抱いてしまうのかもしれません。子どもが大人の論理を理解できないように。それでも、彼の作品は圧倒的にすばらしいのですから、問題は一層複雑なんですよね。

ノルシュテインにとって芸術性とはなんなのか、というのは興味ある研究テーマですね。ところでほとんど作品のレビューは書かずに終わってしまいました・・・

壁抜け男

2009-06-06 01:21:35 | 文学
千と千尋が金曜ロードショーで放映されたので、これについて書く、と思いきや、7月3日にエヴァ序が金曜ロードショーで初、というニュースに驚いたのでそのことを、と思いきや、今日やっと英語の本を読み終えたのでそのことについて喜びを表します。

と思いきや、マルセル・エイメの短篇集『壁抜け男』について書きます。
非常におもしろい短篇集でした。ぼくの読んだのは、異色作家短篇集ではなく、角川文庫から出ている独自の選集版。収録作品は、

壁抜け男
変身
サビーヌたち
死んでいる時間
七里のブーツ

解説を読んで知ったのですが、エイメの小説は昔かなり翻訳が出たそうですね。ぼくが『壁抜け男』の存在を知ったのは、異色作家短篇集がきっかけで、そのラインナップに連なっているのを見て、気になっていました。ずーっと前、こち亀で壁抜けのエピソードがあって、それを思い出してどんな小説だろう、と興味が湧いたのです。

この短篇集は、奇想小説集と言えそうです。
「壁抜け男」は、どんな壁も自由に通り抜けできる男の話。手品とかではなく、文字通り壁をすり抜けられるのです。「変身」は、大人から一夜にして赤ん坊になってしまう男が登場するし、「サビーヌ」たちは極め付きの分身小説で、同時存在の能力、すなわち自分の分身をいたるところに出現させる能力を持った女性の話で、「死んでいる時間」の主人公は二日に一遍は死んでいるという(今日は生きているが、明日になると消滅し、また次の日になると現れる)奇妙な男で、「七里のブーツ」だけがわりとオーソドックスな児童小説っぽく作られています。とはいえ七里のブーツが関わっていますが。

奇妙奇天烈な設定を冒頭から紹介し、それから物語が動いてゆく、というのが主な作品の構成。こんな奇抜な設定を思いつけば、後はもういかようにも物語を作り出せるような気がします。実際、「死んでいる時間」などは、もっと多用な物語を潜在させているように思えます。例えば、二日に一遍しか生きていないのだから、逆に生命に喜びを感じて他の人より有意義な人生を送れるようになるとか、人生に執着しすぎて失敗するとか、そういう話を。この小説では、もっと生きていたいと思っていた主人公の発想が、もっと死んでいたいという発想に切り替わるところに物語の妙があります。

どの作品も本当に本当におもしろくて、すっかりマルセル・エイメのファンになってしまいました。ただ、5段階評価をするなら、4ですね。何かが足りない気がして。「壁抜け男」は結末が容易に予想できるし。表題にもなっていますが、この短篇集では一番評価が低いです、ぼくの中では。ああでもやっぱり、もっとよく考えてみると、その他の小説はどれもすばらしいなあ。設定負けしてないんですよね。

「七里のブーツ」は、児童文学の趣きがありますが、終わり方がなんとも詩的で神々しくさえあり、とても気に入りました。こういう小説も書くんだなあ。この人の他の本も是非読んでみたくなりました。でもあんまり読んでいる時間がないんだよなあ…あ、昼間から読めば時間は間に合いそうかな…でも昼間はだるいことが多いしなあ…

内容には踏み込まないように、と思って書いていたら、ぺらい記事になってしまった…
まあいっか、ユーモアのある、場合によっては冷たさも温かみもある奇想小説が好きな人にはお薦めの短篇集です。

ベティ・ブープ

2009-06-04 23:23:23 | アニメーション
実は、字幕つきの「ベティ・ブープ」シリーズは初めてでした。これまではYouTubeで鑑賞していただけだったので、いまいち意味がよくつかめませんでしたが、今度はしっかり内容が頭に入るぞ、と期待していました。

でも、このシリーズはもはや論理を超えてますね。アニメーションの戯れとでも言えばよいでしょうか。色々な遊びが画面に横溢していて、リアリティなる桎梏から完全に自由です。意味などというものに拘るのは、非常に窮屈な見方であるように思いました。意味という重力の魔を笑い殺す「軽さ」の掲揚。こんな遊びに溢れた「ベティ・ブープ」は、愛すべきアニメーションですね。

ぐにゃぐにゃとした動きが特徴だと言われますが、確かにそうで、人間はおろか無機質のモノでさえコンニャクやウナギのように曲がりくねります。またしばしば身体は変形し、ときには一部が体から離れ、踊り、また元の場所におさまります。木々やモノ、細胞にまで、万物に生命が宿り、アニミズム精神が謳歌される画面。これはアニメーションの一つの方向だろうと思います。日本では、それとは別の潮流が主流となり、リアリズム路線が打ち立てられ、リアリズムは『人狼』で頂点に達しました。ところが「ベティ・ブープ」はそれとは違う世界があることを教えてくれます。アニメーションとしての動きのおもしろさ。

去年、「ポニョ」を「ベティ・ブープ」と比較した人がいましたが、その「動き」が注目されたということです。なるべく動かさないようにする、という日本のテレビアニメの伝統の中にあって、「ベティ・ブープ」の想像力豊かな自在な動きが再評価されるといいですね。as well as「ポニョ」。

古本屋を巡る~西荻窪編2~

2009-06-04 00:18:03 | 文学
またまた西荻窪界隈を探訪。
前回見落としていた、ないしは閉まっていたお店を訪ねました。
これで、西荻窪の古書店はほぼ制覇したはずです。
今回は、前回よりも大きな収穫がありました。
それでは、文学愛好家のための古本屋案内↓

・比良木屋(ひらきや)
漫画にしろ文学にしろ、なかなかよい本が置いてあります。
しかし、いかんせん値段が高い。絶版本の価格が、かなり高いんですよね。また百の随筆集は他の古書店でもよく見かけますが、ここのはずば抜けて高かったです(ということだけ覚えていて、肝心の価格は忘れてしまいましたが)。しかし、リファテールの理論書などもあり、けっこう渋い品揃えです。お金には余り困っていない、という人にとっては掘り出し物を入手できてうれしいかもしれません。

・音羽館(おとわかん)
すばらしいお店です。
独断と偏見で西荻窪№1に認定します。
とにかく安い。ちょっと異常なくらいの低価格で売られている本があって、驚きました。しかも、品揃えがいい。たとえばユアグローのハードカバーが100円でした。帯つきの新品同様の状態の本です。ぼくは白水uブックス版のを持っているので買いませんでしたが、もしなければ即買いです。他のお店だったら、1500円は下りませんよ。なぜこんなに安いのか…
クライストの短篇集とか、谷崎潤一郎の犯罪小説集とか、レスコフの長編とか、文庫は軒並み安いですね。あの怪奇小説傑作集が5巻揃いで1000円なのには驚きました。なぜ?また、『ユビュ王』だとかラクー=ラバルト『近代人の模倣』だとかロシア・アヴァンギャルドの理論書だとか、いいものを置いています。色んなものが欲しくなります、このお店にいると。
中央線沿線にお住まいの方は、一度は足を運ばれるといいと思います。
ぼくもまた行きたいな。

・ねこの手書店
隣の荻窪や高田馬場などにも系列店のある古書店。しかし名前は全て異なります。たとえば荻窪のお店は「象のあし」で、高田馬場は「キノコノクニヤ書店」(笑)。
ここはとても幅広いジャンルのラインナップで、どんなお客さんにも対応できそう。まあまあの価格設定で、中にはけっこう安いものもあります。福武文庫のアポリネールの短篇集が250円なのはお得ですね。福武文庫はぜんぶ絶版ですから、どの古書店でも高めのお値段なんですよね。
ぼくは文学とアニメーションに興味があるので、どちらにもいいものがあるというのはうれしいです。

12軒のお店の中に実際に入ってみましたが、前回のを含めて6店ほどが特に印象に残りました。とりわけお薦めは、盛林堂書房と音羽館です。末永くお店を続けてもらいたいですね。

行く先には…

2009-06-03 00:04:16 | お出かけ
日中は、別に体調が悪かったわけではないのですが、天気もいいし、家で本を読んでいるのはもったいない、そんなことしてる場合じゃないぞ、と思って本を置いて自転車で当てもなく出かけました。最近、こういうこと多いです。どうも昼間っから本を読む気が起きないんですよねえ。

さて、なんとなくこぎだした先はコンビニで、そこでちょっとだけぷらぷらし、それから通りに沿って走りました。気分が少し重くなってきたので、もう引き返そうかなと思いましたが、せっかくだからもう少しだけ、と思い先の方へ。

どんどん走ってゆき、もうここから先へは行ったことがない、というところまで着きました。でも道は続いているものですから、更に先へ。

すると、通りからやや外れたところに小さな橋が見えたので、そこを曲がりました。
川。両岸は鬱蒼と樹木の生い茂る川が流れていました。こんなところが、と驚いて、前の方を見てみると、畑が広がっています。とうもろこしが育っているのも確認できました。まるで異世界に入り込んでしまったような気持ちです。東京でも畑は別段珍しいわけではないのですが、近所にはそういうところがなく、新鮮な驚きに包まれました。しばらく川沿いに自転車を走らせると、道しるべが立っていて、すぐ近くに図書館があるとか。ぼくはその方向へ曲がり、しばらく行くと、確かにそれは、でん、と建っていました。

もちろん中に入りました。なんか、すごくうきうきしました。知らない街の、知らない図書館に入るっていうのは、本当に気持ちのいいものです。まるで耳をすませばの世界に迷い込んだような気がして(初めての住宅地、初めてのお店に迷い込んだ雫を連想し)、そして当然ぼくは雫になった心持ちで、どんな本があるのか館内を歩き回りました。

唐突ですが、この話はこれでおしまい。

英語の本

2009-06-02 01:27:51 | 文学
群像社から、ブルガーコフ著『アレクサンドル・プーシキン/バトゥーム』という戯曲集が近日発売、だそうです。読まねば…でも買うのはやだな。図書館に入るのを待とう。そういえば、最近群像社から出ている小説はあんまり読んでないなあ。昔のはかなり読んだんですけどね。『ジャンナ』とか『死に魅入られた人々』(これは小説じゃないですが)なんかは読んだんですけどねえ。

ところで、目出度いことに、先月から読んでいる英語の本、必要なところは全て読み終わりました!万歳!ウラー!ちょうど173ページ読んだことになります。本自体はあと30ページくらい残っていますが、それは文学以外のことが話題なので、読まなくてもよさそうです。
でも、どうしようか迷っています。やっぱりここは一冊まるまる読破して自信をつけるべきでしょうか。いや自信はつかないでしょうけど、なんというか、やりきったぞ、という達成感を味わいたいですね。人にも言えますしね、一冊全部読んだよって。

まあしかし、173ページ読んだは読んだんですけど、全部を理解しているかといえば、そんなことは全然ないわけで、後ろめたさみたいなのがあります。もっとも、日本語の本だって批評書や理論書の類は難しいのが多いので理解しきれてないですけど。しかしそれとはまた別に、やっぱり全ての単語の意味を調べて読んでいるわけではないですから(そんなことしてたら時間がかかりすぎる)、重大な読み間違いがあるのでは、と心配になります。実際、さっきはああ言ってたのに、なんでここではこう言うんだ?みたいな疑問が出てくる箇所がありました。

読み終えた記念に何しようか、みたいなことは決めているので(それは一冊まるまるを読了した場合にするかどうかは未定)、その記念の行いをしたら、ここで報告します。たぶん。

それにしても、ロシア語力もそうだけど、英語力もつけなきゃな、と痛感。高校生のときは知ってた単語なのに~という悔しさを何度も味わいました。悔しさ?いやそんな感覚は既に麻痺してしまっていて、ああ知ってる単語だな、と淡白に思っただけ、というのが本当のところかな。