5月20日(水)
AM11時前、百貨店前行列。
食品を求める難民。
百貨店行列
人混みは避けて、裏通り立ち飲みがある小路に入る。
殆ど日中は歩く人はいない。
が!立ち飲みの小屋?
若者が焼き鳥ではなく、唐揚げ弁当を販売中。
顔には、やつれと悲壮感が漂う。
何とも痛ましい。
一つでも売らなければ、明日はない。
これでは都会の限界集落だ。
行政が機能せず。
10万円支給も拙速。
マスクもいつまで経っても来ない。
先ずは国民を安心させること。
お金を配ること。
あれこれ屁理屈言わない。
裕福な家庭に生まれ
銀のスプーンと漆のお箸で食事を与えられて
育った世襲議員には、到底生活実感が湧かないだろう。
なので、シンゾウ閣下が、自宅で優雅な引き籠りアッピール。
オイルショック
リーマン不況もあった。
だが、コロナ恐怖不況は
リアルに生活難民を映し出す。
民主国家が共産主義国家に負けて
国民は明日の飯がないのだと思い込んだら
一気に社会主義になだれ込む。
まあ それも仕方ないかな。
再掲50年前の新潟巻機山
2017年2月5日
1963年 昭和37年
17歳の夏休み、深夜 丹沢札掛け林道を一人歩いていた。
外灯はなく、満点の星と月明りを見上げながら
数分おきに
流れ星の光線が走り、瞬く間に漆黒の宇宙に飲まれる。
少年だったので驚いた。
谷底から沢を下る水音と私の靴音だけ。
後ろから、もう一人歩くのがいた。
山小屋に泊まり、翌朝、丹沢山に直登する
キュウハ沢を登った。
その沢に昨夜林道を歩いていた者と一緒になった。
年恰好は私と同じようだ。
その少年は、沢沿いの廊下と呼ばれる岩壁を巧みにトラバースして
軽やかに登攀する。
いつの間にか、互いに語り合い
一緒に登りだした。
熊の足跡があるガレ場に慄きながら
藪漕ぎして、必死に丹沢山頂上目指した。枯れ枝と思って掴んだ木が
鹿の遺骸に繋がった角だった。
頂上で鹿角を持っている。
今も所有している。
鶴見に住む同じ高校生だった。
気が合い、二人で山登りするようになった。
丹沢山塊の沢登り、ロッククライミングの真似事。
神津島にキャンプした。
彼の兄は、登山家でかなり高度な山登りをしていた。
その兄が上越に巻機山があり、ダイナミックな遡行が出来る
米子沢を登った。
その遡行に興味、二人で登ることにした。
初めて上越線に乗り、川端康成の小説 雪国 プロローグ
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」に憧れた。
トンネルを抜け雪は無かったが六日町駅に着き。
谷川最奥の清水まで60分バスに乗った。
米子沢を遡行した。
渓谷美と頂きのなだらかな草原。池塘に魅了された。
二人だけで、全く人が来ない河原で数日間 幕営して歩き回った。
太陽の直射日光が照り付ける河原の大石に二人寝そべり昼寝した。
突然 隣で寝そべる奴が言った。
「なあ! 日焼けしない部分があるぞ。
海岸の砂浜に寝そべり、体全身日焼けさせるが
「パンツ履いているので、おちちんは日光に当てたことない」
「この際、誰もいないから、健康のために日焼けさせようぜ」
「なるほど、確かにそうだ」と頷き
丸裸になり、日光に当てたのでした。
ヒリヒリしたか憶えていない。
その後、大学入学と同時に体育会山岳部に入部。
先週 19年ぶりに再会した北海道旭川在住の後輩から
昨日、メールで写真が送られてきた。
山岳部時代に登った巻機山の夏冬写真だ。
すっかり忘れていた記憶が蘇った。
体育会山岳部の公式合宿登山ではなく
個人山行の記録写真。
私が3年生で二人、OBが一人1年生が二人。
一年生は、北海道と九州出身。
夏に巻機山 米子沢を遡行したのを憶えていなかった。
雪山をラッセルする写真は記憶にある。
4年の冬、北海道出身の1年生と
巻機山登山に行った。
1年生は、夏山登山まで、心身ともに弱かったが
冬山では逞しくなった。
清水には到着したが
猛吹雪と豪雪で身動きできなくなり
屋根と雪洞入口が見える家に
スキー板を借りにいった。
家のオバサンは、疲労困ぱいの私達二人を眺めて、家に泊まるように
勧められて泊まった。
豪雪は3日過ぎても止まず泊まり続けた。
その家に代用教員がいた。
高校卒業したばかりの男性が
積雪期だけ分教場で子供を教えていた。
後に渥美清 演じる
「男はつらいよ」では分教場が舞台になった。
風雪は止んで除雪車がやって来た。
バスが来る村の停留所まで3時間歩いた。
宿泊代は要らないとオバサンは言った。
学生だったのでお金もなかった。
卒業してサラリーマンになった。
毎月、一度、金曜日上越線夜行列車に乗り
六日町から始発バスに乗り
清水の「上の家」と呼ばれる民宿に泊まった。
お土産持参と宿泊代は払った。
青春の焦燥を癒すべき
巻機山周辺を登った。
日曜 夜遅く自宅に帰った。
そして、婚約した妻を連れて
清水のオバサンに紹介した。
オバサン 喜んでくれた。」
歳月は流れた。
10年程前、清水の家を訪ねたが
既に故人になられた。
今では、有名な登山ルートになり
米子沢の登攀は人気だ。
実兄の娘の名前は、巻子
巻機山から頂いた。
私が最も好きな山だ。
写真見ながら50年前を想起
心は往来して
戻れぬ青春無頼に浸るのだった。
黄泉の谷を渡る前に
もう一度 巻機山に登りたい。
再掲悪徳悪質芝信用金庫安全な道はあるあか(54)
2018年3月27日
3月24日(土)
午前9時半 リュックを背負って遊歩道を歩き新鮮市場へ。
10時開店 駐車場には車が並ぶ。
新鮮市場
帰り道 リュックに、キャベツ、豚肉、ウイスキー、6缶入りビールを詰め込んで
桜並木の遊歩道を歩く。
桜木を見上げると、未だ蕾だ。
桜 開かない遊歩道
もう少し耐えて暖かな光を浴びて開くだろう。
桜並木が途絶える木々の間に向かう。
陽が差し込まない桜木の下
供花に手を併せ成仏を祈る。
殺人現場の供花
人間 死ぬのに失敗はないが
死に方は選択できない。
だが、私は、登山歴50年以上、
同期も山で亡くなった。
常に死の恐怖を感じての登山だったが
幸いにも怪我だけで済んだ。
交通事故も安全を心がけても不慮の死がある。
ここで殺害された中年の独身女性は、安全な道を
自転車で通勤道。
何のアクシデントも起こりえないはず。
悪意ある男が待ち構えているなど考えも及ばない。
真に憎むべき極悪人。
芝信用金庫の悪意ある担当者に
預金を横領されたうえに殺されそうになった。
注意して安全な道程を歩んでも
人生を平安平穏に全うするのは難しい。