馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

「あんたと、離婚できないなら死んだほうがましよ!

2017-09-12 10:11:37 | 日記

9月10日(日)

朝10時 自宅を出る。

駅前の不動産屋に向かう。

漁港の橋を渡る。

秋日和

船溜まりには、ハゼ釣り人が連なる。

船橋漁港

初夏はコハゼだったが

 

白身も太くなり、釣り応えがありそうだ。

連休にハゼ釣りするか。

 

市場を過ぎ、国道の信号で立ち止まる。

30代半ばの女性と小学生低学年の男の子が

信号待ち。

 

突然、「あんたと離婚出来ないなら、死んだほうがましよ」

叫ぶ声。

振り向くと

隣で信号待ちする女性がスマホに向かって怒声。

青信号になり渡ると互いに反対方向に歩いたので

その後の話し声は判らない。

後姿を見ると、まだスマホを耳にあてている。

子供が無邪気に母親にまとわりつく。

 

一瞬だが

顔が豊田真由子似?

怒鳴り声が、錯覚と連想されたか?

 

電話の向こうで言われた亭主は、どんな反論したのか

唯 ひたすら言い訳、沈黙?

 

タレント 松居一代の旦那への猛攻撃も凄い。

 

私が女房に言われたら、ギブアップだ。

こんな年で野垂れ死する。

子供達は絶対、母親の味方をする

幸い、私達は、殆ど夫婦喧嘩はしたことはない。

唯、商売上、妻に類が及ぶ危険があるので

離婚を考えたことがあった。

妻、糸が針に従うように忍耐強く切れることもなく

ついてきてくれた。

感謝です。

 

結婚後、経年は長短を辿りながら愛憎が蓄積する。

他人には推し量れない個々の離婚人生。

 

身近に幼い子供がいて離婚夫婦を見てきた。

その子供が成長して、心に傷があるのを一瞬垣間見られる。

 

街道を行く親子の後姿を悲しい想いで見た。

子供の数年後、抱くであろう

表現できない悲しみ。

 

幸あれ

 

 

 


背後から濁流に突き落とされてⅣ。

2017-09-10 17:50:02 | 日記

背後から濁流に突き落とされてⅢからの続き

 

 

退社が決まったその年 6月

新任管理部長が、私に退社を思い止まるよう説得会談が行われた。

新管理部長は、本社で組合書記長だった。

 

 

やはり、書記長退任して直ぐに嫌がらせ人事を経験。

懸命に説得して頂いたが退社決意は変わらなかった。

後に管理部長は本社の専務になった。

経営側は、書記長を思い通りになる社員を

わざわざ地方から転勤させた。

 

退社して4年後、組合はストライキを敢行。

あえなく、敗北。

その時、初めて組合執行部は自らの無知無能を知った。

 

そして経営側担当者が、私を銀座での食事に招いた。

宴の終わりが近づく頃、

「書記長は、思想的問題も破壊者でもなかった。

後にも先にも、あなたを上回る書記長がいないでしょう」

真面目一筋の従業員を、己たちの保身と出世のために

貶めたのだ。

白々しい弁明を銀座のネオン下で聞いたのだ。

又も虚しい銀座の夜だった。

 

現場を知らない経営陣

経営を知らない組合

親会社に忖度する傀儡経営陣

親会社の労組が組織統一を企み、介入

私が書記長をする労使関係を無力化しようと画策。

全ての立場が、自分達が有利なように立ち回り翻弄。

皆 思惑通りにはならなかった。

会社が50年経っても生え抜きの役員が一人もいない。

互いの不信感は現在も消えていない。

 

後年 帝国ホテルで組合設立記念行事があり

行きたくなかったが、事情で出席。

当時の経営側幹部は、懐かしそうに

「書記長には全戦全敗だった」

 

組合役員は私に近寄って来なかったが

一人だけ、当時から弁舌だけは立派だが

行動が伴わないのが寄ってきた。

「書記長の当時の労使交渉は、今でも燦然と輝いています」

きまり悪そうに言った。

自分が列席する場ではないと知った。

直ぐに会場を後にした。

 

夕暮れの有楽町駅に向かう。

呟いた。

「俺は一体何だったのだ」

後に、聞いたのは

「組合役員は、書記長に後ろめたい気持ちがあるので

近づかないのですよ」

 

スケールは違うが、中東、アフリカの独裁者を斬首すれば

平和が訪れるなどの偏向戦争により、混乱は拡大。

収拾がつかなくなった。

北の金坊、不毛大地のキンペイを斬首したら

中東 アフリカ、アジアは人間らしい営みは失われ砂漠化する。

 

Ⅴに続く。


お婆ちゃん 道に迷う。

2017-09-09 23:50:33 | 日記

9月9日(土)

日付の如く、キュウキュウと苦しんでいる。

前立腺癌小線源治療を受けて、4カ月が過ぎた。

体調は快復しているが、前立腺周囲に、84個の

放射能カプセルが永久挿入された。

副作用の排便困難は回復。

むしろ、出過ぎる程だ。

毎日3食、食べる前にヨーグルト。

朝スムージー、パン。

昼飯は、玉ねぎ、ジャガイモ、レンジで加熱後丸かじり

キャベツは生で頂く。

夕食は少々。

体重も78キロから69キロになった。

しかし、排尿は辛い。

排尿切迫感と排尿痛だ。

夜半1時間に一回起きての排尿。

睡眠中は、尿道が細くなるので

肛門を中腰で力を入れるが

ソーメンの細さでしか出ない。

朝起床後、自宅で2時間程かけて、排便、排尿を済ませてから外出。

万が一のことを想定してすっかり、出し切ってからでないと心配なのだ。

駅に着けば直ぐトイレに直行。

乗換駅でも、排尿したくなくともトイレへ。

公衆トイレがあれば必ず入る。

しんどいね!

 

今日は土曜日。

朝 柔軟体操と腹筋、腕立て伏せ後

ウオーキングへ出発。

体内器官が活発に動き出すので

排尿も多くなる。

遊歩道は、殆ど人がいないので

草むらで放尿。

この時は、尿道も広がり割合出やすい。

 

今日は天気快晴。

風は秋の冷たさが漂うが

陽射しは強い。

遊歩道を茜浜に向かって歩くと

前方にお婆ちゃんがヨタヨタ歩いている。

茜浜への遊歩道

通り過ぎようとした時、声をかけられた。

「あの 水道局に行きたいのですが

どっちに行けばいいですか」?

この辺りに水道局は無いはずだ。

顔は黒く汗ばみ、太っている。

「近くまで来たのですが、突然道が分からなくなって」

「何回も来てるのですが

「私 認知症なのかしら」

「救急車呼んでもらおうかと思って」

私は、知っている建物、地名を問いただす。

一緒にその建物と地名を方向に案内。

 

お婆ちゃん 済まなそうに顔。

年齢は77歳だという。

あなたは、幾つ?

「70歳」

あら、そんな年に見えない。

「皺もないし、すたすたと歩いてます」

「いいえ 癌になり、歩くことが快復の道です」

そんな会話をしているうちに、目的の場所に着いた。

鄭重な礼をする。

「帰り道は大丈夫ですか」

「帰りは、船橋競馬場駅へ向かうので大丈夫です」

 

海岸と遊歩道と倉庫群の地域は

目印がないので、ウオーキング中に

行先の道をよく聞かれる。

 

私も、記憶力が加速度的に減退が早まった。

スマホのGPS機能に頼っては,益々

脳は衰えそうだ。

野性的感を養うには、歩くことだ。

妻も癌発症後、医師より歩くことを勧められた。

 

今後、突然 駅に降り立って

自分自身が分からなくなり

警察に保護されないようにしよう。

 


背後から濁流に投げ込まれてⅡ

2017-09-07 10:06:18 | 日記

背後から濁流に投げ込まれて1からの続き。

 

再び、8月半ばの日付に戻る。

日本橋高島屋 ピュリッツァー賞受賞 戦場カメラマン 沢田教一

安全への逃避 

開催中。

 

 

まだ、会場には行ってない。

母親が子供を抱えて、川に飛び込み逃避する写真は

18歳の時、新聞で見た。

ベトナム戦争など、関心がなかったが

写真だけは、強烈な印象として焼き付いている。

 

 

 

再び

8月15日に戻る 午前中 日本橋で仕事を済ませ

 

柳橋事務所に戻った。

 

事務所で一人、玉葱、ジャガイモ、ピーマンをレンジで4分加熱して食べた。

 

窓辺から、見る隅田川、神田川は豪雨で水嵩は上がり

スカイツリーも臨めない。

 

何故か?

ベトナム 川に飛込、逃避する親子を想った。

神田川がお茶の水上流から、汚泥を巻き込み流れて来る。

ベトナム家族は、このような流れを、渡り切ろうと

対岸に向かったのだ。

 

 

先日 受信した一つのメールに想い巡らした。

伊豆に8年前、東京の住まいから移住した方からの花便りだ。

 

広い庭で栽培したキュウリの花とアジサイの花の写真が添付されている。

夫人と二人暮らし。

晴耕雨読の日々が季節毎に花便りとして送られてくる。

既に70歳後半の引退生活。

 

私がサラリーマン時代 労組書記長として

経営側と対峙した労務課長。

後に本社に戻り栄進。

部長、関連会社社長になった。

 

同じ頃、私は貧乏に喘いでいた。

 

私が、思想的問題あり、破壊者として汚名を被せ追放された当時

 

 

担当課長であった。

 

人間的には、申し分ない清廉潔白な方だ。

個人的な付き合いであれば、居心地の良い付き合い。

酒豪であり、知識もあり常識人。

サラリーマンとしては、かなり珍しい。

優秀なサラリーマン。

 

労使交渉は、経営側担当者と労働者側担当者は

信義誠実に議論協議して個人的信頼関係を構築しなければ

合意には至らない。

そのような認識であった。

平和的春闘合意を成立。

3月28日に生まれた娘を

やっと抱っこできる日常生活に戻れると安堵した。

夏の組合全国大会終了と同時に書記長辞任して

仕事現場に復帰を考えていた。

 

当時、予期しないことだった。

私に対して報復人事をしたのだ。

 

現実の出来事ではないが、比喩的表現すれば

突然、背後から蹴落とされ、濁流の川に投げ込まれたのだ。

 

妻と2歳の息子、0歳の娘を抱えて

川に飲み込まれまいと必死に流れ抗う。

 

戦火から逃避のベトナム人家族の光景と同じ。

 

 

岸辺では、ニヤリとほくそ笑む者

見て見ぬ振りする者。

手を差し伸べる者皆無。

合水和泥は無かった。

 

 

私との関わりにより、経営側の睨まれるのを

恐れて周囲は離れていった。

 

失業して、妻子を抱えた

34歳の男。

 

会社を破壊する男の経歴では

雇ってくれる企業はなかった。

 

起業する以外に選択はなかったのだ。

濁流に子供二人を妻と必死に抱えて

夜中まで内職して育てた。

子供達が、中学卒業するまで

高校卒業するまで

大学卒業するまで

その執念で働いた。

Ⅲに続く。

 

 


背後から濁流に投げ込まれて1

2017-09-06 08:56:16 | 日記

8月15日(火)

昼から柳橋事務所で、神田川、隅田川に降りしきる豪雨を

想いにふけりながら見つめていた。

 独り溜息をついた。

神田川 隅田川 豪雨

先日、伊豆に住む友人Kさんから、花便りがメールで届いた。

 

季節毎に、伊豆の暮らしと300坪の庭に花と野菜栽培写真が添付。

   

私が労組書記長の時、経営側労務課長であった。

36年以上前 、盛夏の8月、組合全国大会に書記長辞任。

会社も退職したのだ。

自己都合退職というより、追放であった。

K課長は言った。

「私は責任を感じておりません」

「書記長は真面目にやり過ぎたのです」

 

完璧な解雇理由であった。

返す言葉もなく、逆流する胃袋の痛みを抑えていた。

 

思想的に問題があり、会社を破壊する人間と周囲に触れ回った

根拠のない人格攻撃の言質であれば反論もしたであろうが、

要するに、あなたは、会社で必要のない。

宣告したのだ。

そして、夏の労働組合全国大会閉会と共に

書記長辞任と退職をしたのだ。

 Ⅱに続く。