馬鹿も一心!

表題を変えました。
人生要領良く生きられず、騙されても騙されも
懸命に働いています。

(8)おもいでの夏 入学。

2024-07-24 07:39:25 | 日記

Summer of '42 (FILMING LOCATION) - Michel Legrand (1971)


(7)おもいでの夏 卒業。
https://blog.goo.ne.jp/kikuchimasaji/e/2c8d684d5b3ad465279307bc4b5fc743
19歳で卒業する頃、
造船所の甲板から転落して瀕死の重傷を負った父も自宅に戻った。
結核療養所にいた弟も帰って来た。
兄も大学入学した。
食料品店で働いていた母のみの稼ぎから抜け出した。
漸く普通の家庭生活になったのだ。
僕の心の浮き沈みも落ち着き出した。
受験勉強は順調ではなかった。
山登りは中断した。
江の島の砂浜で白波が、砂を押し寄せては、返す波頭を
空白の頭で眺めた。
振りかえる先には、富士と丹沢山塊が屏風の如きじっと立っている。
湘南の砂浜や江ノ島から見た海岸風景 - 朝と夕暮れの情景 (Full HD)
ひとしきり、心を落ち着かせると
証券会社支店に電話した。
駅前バス停ベンチで待った。
リツコさんは、海辺のレストランで励ましの本を差し出した。
戦後、
日本では1947年から1949年にベビーブームが起きた[4][注 1][5]。この3年間は出生数が250万人を超えており、合計すると約800万人程度の出生数となる。1949年の出生数269万6638人は戦後の統計において過去最多であり、この出生数は2019年の出生数86万5239人の約3.1倍である[6][7][注 2]。なお、この期間に生まれた世代は団塊の世代と呼ばれる。

大学受験が最も競争率が高く、旧課程の受験生不利であった。やはり、付け焼き刃の受験では、駄目か?
数校受験したがみな落ちた。
いったい、これからどうやって生きていこうか?
最後の合格発表の掲示板を
補欠合格欄を観た。
なかった。
正規合格もみてみた。
番号はあった。
窓口で合格通知票と年間授業料分の奨学金通知を貰った。
高校退学を引き留めた恩師の母校であった。


後に恩師は大喜びであった。
リツコさんはに、知らせるべき走った。
湘南電車に飛び乗った。
海辺のレストランで、意外にも静かに
「良かったね」と言った。
寂しげな目を下に落とした。
やつれていた。

続く

別れの予感 林部智史

(7)おもいでの夏 卒業。

2024-07-23 07:36:54 | 日記
「おもいでの夏 The Summer of '42」2022 ミシェル・ルグラン、Michel Legrand

僕は、海辺の街の一部上場証券会社に、アルバイトで
訪れた日を鮮明に記憶している。
1964年6月16日 昭和39年
株式相場の仕組みを2階の窓に面した机で女性に教わっていた。

ビルが左右に大きく揺れ出した。
左隣に座る女性が叫び声と同時に僕の腕を掴んだ。

1964年(昭和39年)6月16日13時1分40.7秒(JST)に、新潟県の粟島南方沖約40km(北緯38度22.2分 東経139度12.7分 深さ34km)を震源として発生した地震である[2]。地震の規模はM7.5(Mw7.6)[1]。

新潟地震




その女性がリツコさんであった。


僕が学んだ高校は戦前、旧制中学として
海軍兵学校の予備校として設立。
特殊な位置にあった。
昼間部 夜間部 通信教育部
90分授業
夏のスクーリング授業には
海軍白の制服を着用した横須賀工科学校の大柄な生徒が学んだ。
おおらかな学校であった。
黒板書きのバイトをしながら19歳で卒業。
全く勉強をしなかったので、心太のように押し出された。
リツコさんは、心配したのだ。
上場証券会社のサラリーマンは、高卒大卒申し分ない学歴。
僕の卒業では、一流企業入社は不可能。
リツコさんは知っていた。
「進学しなさい」。
このままでは、堕落な人生が待っている。
予備校に通うことにした。
しかし、入塾試験があった。
1年遅れの僕には、資格がなく
兄に身代わり受験をさせた。

後に兄は有名予備校の国語講師になった。
現在も無償でネット受験講座を持つ。
半年間で学ぶ。
その予備校には、後に有名になった
疑惑の銃弾の三浦和義がいた。

悪徳悪質芝信用金庫と韓国錯乱(86)三浦和義事件

学費がなかった。
野毛の図書館で学ぶ。

続く
PARA SIEMPRE VERANO DEL 42...wmv




(6)おもいでの夏 思春期の葛藤。

2024-07-22 07:04:24 | 日記
(5)おもいでの夏 湘南の風

続きです。
1942年昭和17年 第二次世界大戦中の疎開先の少年が
思春期を迎える心の不安と青年になるストーリー。
美しい人妻に恋した少年の旅立ち。
画面には、美しい人妻の夫の戦死の手紙
少年が読んで呆然。
一夜を共にして、翌日、別離のメモ
少年時代の描写と、青年として戦地から帰還。
おもいでの夏の家を訊ねる二つの画面
青年になり、少年時代の回想い入り込む
少年の殆どが通過儀礼の如く思春期
ブログを書く高齢者の男性は、身を焦がした少年時代に郷愁。
女性から見たら、何とも妄想の少年に嫌悪する。
人生で重要かつ大事に大人になる踊り場
お勉強ばかりで少年らしい葛藤を実体験しなかった少年は
先頃、H県知事の如く精神が偏狭したまま大人
外見上は優れた人物に見えるが、社会性を学ばなかった。
政治リーダーには不適格。
役場の課長止りがふさわしい

53年前の映画です。
脚本家の少年時代を描いた。
Summer of '42 (FILMING LOCATION) - Michel Legrand (1971)


僕は高校1年で退学しようとした
恩師は、必死に引き留めた。
そうして定時制に転じ。
昼間の授業と通信教育も受講。
同級生とも馴染めず、家庭でも孤立
同世代の女の子には全く関心がなかった。

山登りに熱中した。
雪山単独行
特に岩登りには執念
リツコ姉さんは、破天荒無頼な生活を案じた。
「いったいこれから先どうするつもり」
「わからない」
沈黙した。
心は錯綜して彷徨っていた。
精神安定を求めて単独登山。









僕は高校1年で退学しようとした
恩師は、必死に引き留めた。
そうして定時制に転じ。
昼間の授業と通信教育も受講。
同級生とも馴染めず、家庭でも孤立
同世代の女の子には全く関心がなかった。


山登りに熱中した。
雪山単独行
特に岩登りには執念
リツコ姉さんは、破天荒無頼な生活を案じた。
「いったいこれから先どうするつもり」
「わからない」
沈黙した。
心は錯綜して彷徨っていた。
精神安定を求めて単独登山。
僕は、青年になるためにもがいていた。
飛び立てないのだ。
続く



DAVID FOSTER - I Will Be There With You ( 歌詞 和訳 日本語 翻訳 Lyrics ENG & JPN )

(5)おもいでの夏 湘南の風

2024-07-20 08:37:55 | 日記

「おもいでの夏 The Summer of '42」ミシェル・ルグラン、Michel Legrand


当時のキャリア女性は、気位が高い。
名前はリツコ
支店では、リッチャンと呼ばれている。
17歳の僕が リッチャンと呼ぶと
キッ!睨む。
「姓で呼びなさい」
彼女は湘南の平塚海岸沿いに
母と二人暮らし。
だが、夏の江の島で支店の海の家があった。
僕が立ち寄ると、にこりとして「かき氷食べる」。
職場でのキツイ表情ではなかった。
彼女は言った。
「弟が欲しかったの」
内心、気落ちした。
10代後半になれば男の子は目覚めるのだ。
年上で化粧してヒール靴の女性に!
淡いが情熱的、恋情を抱くのだ。
まあ!弟で仕方ない
それ以前に女教師と江の島で初キスをしていた
海辺のレストランで食事でご馳走。
17歳の少年には、食べたことないギリシャ料理
この場所では、「お姉さん」と呼びなさい。
うれしそうな眼差し。
後年 わかったのは、あの日あの時
姉 弟でなければ不釣り合い?
だったのだ。






湘南乃風 純恋歌 (歌詞入り)



思い出の夏

続く