日々徒然なるままに

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ある物語 その四

2017-07-31 21:32:25 | ある物語
こんばんは。
朝から茹だるほど暑い日でしたが、午後からは遠雷がするなと思っていると、次第にその音が大きくなりやがて雨も降り出す天気となりました。
これで随分と気温が下がり、凌ぎやすくなりました。
ただ、午前中は前の晩、どうにも頭が痛くあまり眠れていなかったのか無性に眠くて、家事の後はころげておりました;。
怠惰なオバサンそのものですね;。
寝づらい夜だったということにしておきます;。
そんな朝は、このようなお天気でした。

                                 

昨日まで書き綴らせて頂いております「48色の夢のクレヨン」、続けさせて頂きます。


箱の中から次々と目新しいものが出てくるのを、ワクワクしながら覗き込んでいた子供たちでしたが、誰かが
「もうアメリカは敵ではなくなったんですか?」
と先生に質問しました。
先生は、
「これからは自分たちと仲良くしていく国です。もっとお互いのことをよく知って理解を深めていかなくてはなりません」
といわれ、アメリカの歴史を少し難しい話を交えながら話して下さいました。
でもじきににっこりとされ、
「これからは多くのことを自由に学べます、英語も自由に勉強できるようになります」
大学時代に戦争のために英語の勉強をあきらめざるを得なかったと言われていた先生は、心を込めてそう言われました。
花子や他の子供たちも、アメリカ人は悪い人たちばかりだと思っていましたが、今回のことで優しい人たちもたくさんいるということがわかり、
いつかこの嬉しい贈り物をして下さった人たちにお礼がしたいと思いました。
そしてその日から花子は、明日になればもっと良いことがあるような、今までとは違う大きな幸せが待っているような、そんな不思議な気持ちに
なっていったのでした。

それからまたしばらく経っていました。戦争が終わってからは二年半が過ぎていました。
頂いたあの箱のお礼に、皆で絵を描いて送ろうということになりました。
二週間ほど、わら半紙に自分の描きたい絵を何度も練習して来ました。
そして今日はとうとう、あの頂いた画用紙に絵が描ける日が来たのでした。
何を描いたらいいのか、最初はわからず先生に
「目に見えるものだけではなくて、思い出や、これからの未来のことを描いてもいいと思いますよ」
と言われ、みんな色んなものを練習して描きました。
欲しいと思っている食べ物、昔のきれいな家や店、友達や家族、山や畑、自動車、人形、それに去年戦後はじめて開催した運動会のことなど、
様々なものを今日は画用紙一杯に描いたのでした。
見たこともないようなたくさんの色のクレヨンやクレパスを思う存分使ったけれど、それを見た先生は
「子供は遠慮などしなくていいのよ、あつかましいくらい元気でいいの。あなた方がこれからの日本を背負っていくのですから」
と励まして下さいました。
そんな子供らの絵をみておられたもう一人の先生が
「誰か原爆ドームの絵を描きたいものはおらんか」
と聞かれましたが、みんなひそひそと顔を合わせて話すばかりで、誰も手を上げませんでした。
そんな中でただ一人手をあげた子がいました。
アメリカのオレゴン州生まれの男の子でした。
彼は戦争が終わった昭和二十年の十二月に船で日本へ帰ってきたそうです。
他の子たちがこわくて描けないという絵をどうして描けるのか、彼に花子が問うと
「ぼくは原爆ドームがこわいと思わない。原爆が落ちたときのことを知らないし、見てないから。だから壊れた建物だとしか思えない、それだけさ」
と答えるのでした。
彼が描いた絵はまるで大人の絵描きさんが描いたようによく描かれており、こわいとか気持ち悪いというよりも、素敵な絵に見えて感心しました。
これでアメリカに送る絵は揃ったけれど、全てを送るには重過ぎるのでこのうちの五十枚ほどを選んで送られることになりました。
花子は自分の描いた絵が選ばれるのを期待していました。
それは去年の運動会を描いたもので、みんなの晴れ晴れとした顔や、もう会えないけれど死んだお母さんやお姉ちゃん、おばあちゃん達の声援
そしてコスモスのバトン・・・、そんなもの全てを絵に込めて描いたからでした。
どの色を使おうかとクレヨンを見ながらあれこれ思い巡らして描いたのでした。
だから自信があったし、おばさんや近所の偉い大学の先生も友達もみんなほめてくれていたからです。
みんなそれぞれ、自分の絵が選ばれることを願っていましたが、先生に聞いてもどの絵を選んだかは、決して教えてはくれませんでした。

その後数ヶ月が経ち、自分たちの贈ったものがアメリカに届き、それを見ている向こうの子供たちの写真が新聞に載っていると知り、なんだか
不思議な気持ちになったのを花子は感じました。
その新聞記事によると、自分たちのお礼の箱には絵や書の他に手作りの人形、漫画雑誌、それに袋町小学校と似島(にのしま)孤児院から預かった
子供らのお礼の手紙も入れられていたそうでした。
送り先は東京に住んでおられるハワード・ベル先生宛で、その先生から東京にあるアメリカ政府の検察所を経由してからアメリカへ送られるとの
ことでした。


やがて月日は流れ、2007年6月25日、花子は朝の新聞である記事に目が留まります。
「被爆地の小学生の絵ワシントンで発見、ヒロシマ『夢の光景』修復」
と大きな題字の下に子供らの絵が載っていました。
どこかで見たことがある、そう思った瞬間、これは自分が描いたあの時の絵だ!そう花子は思いました。
あの時、一生懸命描いた「あの戦後初めての運動会の絵」でした。
小さな手にしっかりとコスモスの花を握りしめ、大きな口を開けながら、空を見つめ先頭を切って走っていた私。
消しては描き、消しては描きして、絵の下書きを仕上げるのに一晩かかり、それでもみんなが応援してくれたあの運動会の絵がアメリカに届いて
いたなんて・・・。
信じられないような思いで記事を読み進めるうちに、いつしか忘れ去ろうとして来ていた過去が蘇ってきたのでした。


                              


物語も佳境に入って参りました。
あと少しなのですけれど、今日は此処までとさせて下さい。
自分自身が読ませて頂き、要約しつつも内容を正確にお伝えすることの難しさを感じております。
当たり前と言えば、当たり前の話ではありますけれど。
あの時代、どんなことがあろうと人々は常に明るくあろうとし、前向きにひたむきに歩んでいこうとしていたことが、これほど生き生きと描かれて
いることに驚きを覚える気も致します。
否、あの時代だったからこそ、そうせざるを得なかったのかもしれません。
あるいは、どのような時代背景があろうとも、常に笑うことを忘れずにたくましく生きていく、それが自分たちの本来の姿なのかもしれない、そう
も感じます。
今現在、自分たちの住まうこの国をはじめ、様々に混迷を深めておる世界です。
少しでも多くの人々が互いに笑い会える、そのような世界が来ることを願う思いです。


本日もこのブログにお付き合い頂きまして、本当に有難うございます。
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