若かった頃には、ほとんど見栄からコンサートや演劇にもそれなりに出かけたものですが、最近はなかなか見栄も張れません。懐の都合もありますし、自由になる時間の問題もあると思います。
と ころが不思議なことに、落語は年に一度くらいのペースで聴いています。取り立てて落語を意識をしているというわけではありません。落語会という形ではなく、講演会とし て聴くこともよくあります。これは、落語家という肩書きを持った人がやたら増えたという証拠ではないかと思っています。かつて、衰退していた上方落語を復興させたのは桂米朝さんだと聞きますが、今や特に落語を聴きたいと意識をしないでも、どこかで生の落語に触れることができる時代になったということなので しょう。
先日、手話落語というものを観る機会がありました。説明によると、英語落語や韓国語落語があるように、落語のひとつのバリエーションとして手話落語があると いうのです。それは、通常の(というのも変ですが)落語に手話通訳がついているのは違います。桂福團治さんの手話落語を観ました。彼が33年前に始めたのが手話落語の始まりだそうです。言葉の世界をそのまま手話にシフトできないですから、まだまだ発展途上だと思いますが、聞こえる人も聞こえない人も同じ会 場で落語を楽しめるようになるといいですね。
この落語会では、通常の(というのも変ですが)落語には手話通訳がついていました。問題は通訳者(?)の位置です。聞こえる人の立場で考えれば、落語家の表 情や動きを楽しむためには高座に近い位置にいてもらわないほうがいいのです。一方、聞こえない側からすれば、同じ視野の中に落語家と通訳者がいなければ楽 しめないということになります。その落語会のメンバーの一人、桂米團治さんは、聞こえる人も聞こえない人も共に楽しめる落語会にすることが、これからの課題だと指摘していました。なるほど、落語を聴くのとは別に、ちょっと刺激的な話題でした。伊達に人間国宝の息子をやっているわけではありませんね(などと、ずーっと父上と比較されたり、嫌味を言われてきたんでしょうね。お気の毒さま)。
そういや桂 かい枝さんさんの英語落語を聴いたこともあります。日本語で解説してもらってやっと笑えたりして…。英語で楽しむには私の力が足りなかったように記憶して います。
落語のカタチもどんどん変化しているのですね。
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