思った事をそのままに

毎日綴る事は無いと思いますけど、日常の生活やその他に感じた事を思うが侭に書きたいと思います。

蓮舫代表で民進党はどう変わる

2016-09-22 19:43:39 | 政治

9月15日に民進党党代表戦が行われたが、前原、玉木を圧倒し蓮舫が代表となる。

だが、蓮舫は民進党内部からも余り信用されていない様で、執行部就任で多くの議員から強く固辞され、決定されたのが6日後の21日。

この人事に強い遺憾を感じさせられるというか、信じられない名前がある。最高顧問に、管直人が就任されている。これはどういう事なんだ。
管は政権を持っていた時、どの様な政策や災害対策などにも全く無知だったとしか思えない。何故、こんな奴を最高顧問なんて座に置くのか。

党代表選では代表となった時に目標とする政策も示されていたが、蓮舫の「「新世代」の民進党」の頭に、「野党の存在価値は、議会で政府与党の失政を正すことに加えて、政権担当能力を示し国民に選択肢を提供することにある。 私たち民進党には政策があり、それを立案・実現できる人財がいる。これに信頼が加われば、国民の皆様が政権を選ぶ際の選択肢として選んで頂ける存在になれると確信している。」と書かれてある。

「蓮舫氏は役員人事を提案した21日の両院議員総会で、「全ての党所属議員の力をいただき、今の政権に対峙(たいじ)する政党になる第一歩にしたい」と意気込んだ。ただ、出席した議員は全体の半数に満たない70人程度だった。
 蓮舫氏が野田氏と相談して決めた顔触れは、野田政権時の顔触れと重なる。大串博志政調会長は首相補佐官を務め、山井和則氏は当時も国対委員長だった。政調会長代理だった馬淵澄夫選対委員長は野田グループに所属していたことがあり、「今でも野田氏との関係は良好」(周辺)という。
 副総理として政権運営に参画していた岡田克也前代表は常任顧問に就任。「常任幹事会の構成員として党の意思決定に参画する」(党規約)という重要ポストで、今後も党運営に影響力を残す。岡田氏に近い安住淳前国対委員長も代表代行に就き、引き続きに国会対応に目配りする。」(時事通信2016/09/21)

蓮舫が21日に決定した執行部の人事を見れば、民主党政権時代に閣僚や政務官、執行部を経験している者が殆どで、何も出来なかった民主党政権の議員を中心とした民進党に「私たち民進党には政策があり、それを立案・実現できる人財がいる」とは思えんが。

蓮舫は17日のテレビ番組で「米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の名護市辺野古への移設計画を進める安倍晋三政権の対応を批判した。

 蓮舫氏は、政府が平成29年度予算の概算要求で、沖縄振興費を今年度当初予算比で140億円減の3210億円としたことなどに関し「あまりにも乱暴なやり方だ」と指摘。

 党代表選の論戦で辺野古への移設計画に賛成する立場を示している蓮舫氏だが、「目標、目的以前にその途中経過は到底、賛成できない」と批判した。「今の政権の沖縄への手法はあまりにも県民の声に寄り添っていないやり方だ」とも強調した。」(産経新聞2016/09/17)と批判しながらも、記事の最後には対案は提示されていないと書かれてある。

これまで通り、単純に批判したに過ぎない。

麻生政権時代に普天間基地の辺野古移転が決定していた事を強烈に批判していた民主党代表の鳩山を思い出すよ。
選挙の時から普天間の県外移転を訴えていたが、不可能が判明し、辺野古移転を認めた。

二重国籍問題でも言葉が二転三転してたらしいが、普天間基地問題でも言葉が転がってる感じで、馬鹿みたいに批判しまくるんじゃ無く、しっかりとした対案を作り、政策に関する意味ある議論が出来るのか。

自分には、そんな能力ある政党とは到底思えない。


障害者だけが「感動ポルノ」とされる

2016-09-02 22:19:23 | 社会

今年の8月27・28日には、恒例となってしまっている38年前から始まっている日本テレビの24時間テレビが放送された。
全く知らなかったが、28日の19.00~19.30にNHKのEテレが「バリバラ~障害者情報バラエティー~」を放送していて、その内容が24時間テレビを批判するものだったとして、大きな反響を話題を読んでいるらしい。

24時間テレビは、第1回目の時には欽ちゃんや大竹忍が司会をやってたり、これまでに無い番組だったので、思わず最初から最後まで見てしまったのだが、2回目からはさすがにそんな事は出来ず、一応中心に見るようにし、他局に好きな番組があった時には変えていたし、いつも通りの時間に寝るようになっていた。
また、38年前から放送されている24時間テレビは福祉などへの募金を目的として行っている筈であり、集められた募金は一切差し引かれる事無く、福祉、環境、災害復興に分配され活用されているらしい。

「バリバラ~障害者情報バラエティー~」という番組を知ったのは今回が初めて。内容は、障害者をテーマとしたバラエティー・情報番組らしいが、Wikipediaによれば「現在の番組名はサブタイトルにもあった「バリアフリーバラエティ」の略。そもそもは、2009年春の『きらっといきる』のスペシャルにおいて、報道機関での障害者の描かれ方が、“一生懸命頑張っている障害者”の部分を一面に強調しすぎて画一的である、という「障害を持っている視聴者からの苦情」を、テーマとして取り上げたことがきっかけになっている。」更に、番組のチーフプロデューサーは「「『きらっといきる』の中で障害者の等身大の姿をどのように伝えるか模索してきた結果、これまで描かれなかった障害者のエンターテインメント性を打ち出したバラエティーに挑戦することにした」」と語っているらしく、障害者を笑うのではなく、障害者と共に笑い、バリアフリー(対象者である障害者を含む高齢者等の社会的弱者が、社会生活に参加する上で生活の支障となる物理的な障害や、精神的な障壁を取り除くための施策、若しくは具体的に障害を取り除いた事物および状態)を考える番組を求めるとなっているのだろうか、これを共に語り合おうとしているらしい。

28日に放送された、「バリバラ~障害者情報バラエティー~」でメインとなったのが「感動ポルノ」だったらしい。
「感動ポルノ」とは、オーストラリアのコメディアン兼ジャーナリストだった女性のステラ・ヤングが語った言葉らしいが、Wekipedea「障害を負った経緯やその負担、障害者本人の思いではなく、ポジティブな性格や努力する姿がクローズアップされがちである。「清く正しい障害者」が懸命に何かを達成しようとする場面をメディアで取り上げること」まとめて書かれてある。

ステイ・ヤングが2014年に講演していたと思うが、感動ポルノに関し語っているが、講演を紹介するサイトネオチューブがあり、自分なりに感動ポルノは何なのかと考えてみた。

最初の部分で、「障害というものを、平均以下の状態であると見なさない限り、「達成」と言われるようなことは何もしていなかった」と語っているが、社会全体が障害者を健常者に比べ下のレベルにあると表現しているのだろうか。

講演の途中にスポーツで活躍している人々を写真で紹介し、更に「両手のない少女がペンを口にくわえて絵を描いている写真や、義足で走る子供の写真を見たことがあるのではないでしょうか。
こういう画像はたくさんあり、私はそれらを「感動ものポルノ」と呼んでいます。」と語る。
そして、「ポルノ」と表現している障害者の活動している写真を、非障害者の利益の対象としている。

その意味を「写真の目的は、人を感動させ、勇気づけ、やる気を引き出すことです。つまり、「自分の人生はうまく行っていないけれど、もっとひどい人だっているんだ」と思わせるためのものです」としているが、自分は納得できない。

講演で紹介した写真を見ているのは、非障害者だけでは無く、障害者の人達も見ているんじゃないのか。同じ立場にある人達が頑張っている姿を見せられて、本当に感動させ、勇気付けられているのは非障害者だけなのか、障害者には存在しないのか。

こんな映像を、何故健常者に対する「感動ポルノ」と表現するのか、自分には理解出来ない。

終盤には、「人をモノ扱いしている行為です。さきほどお見せしたような画像は、健常者が良い気分になれるように、障害者をネガティブな存在としてモノ扱いしています。自分の抱えている問題が大した困難ではないと、違う角度から見られるようにするためです。」と語っているが、積極的に活動している人々が何故、ネガティブと表現されなければならないのか。
逆じゃないのか。彼等は、ボジティブに活発に活動している。そして、同じ様に活動している人々は世界中に多くいるんじゃないのか。

だからこそ、オリンピックに続いてパラリンピックが行われる様になっているし、出場している選手達もオリンピック選手に劣らない、素晴らしい記録を出しているんじゃないだろうか。

だが、障害者にとって社会こそが本当の障害である事は間違いないだろう。何といっても仕事が見つかりにくい。
それによって苦しい生活を強いられてしまう可能性が高い。勿論、そうでない人達も多くいるだろうけど。

28日に放送されていた「バリバラ~障害者情報バラエティー~」は24時間テレビは「感動ポルノ」を放送しているに過ぎない、と批判していたのだろうか。
今日の午前中に再放送された「バリバラ~障害者情報バラエティー~障害者×感動」を外付で録画し観たんだが、最初に感動ドキュメンタリーは編集によって「感動ポルノ」にされているとしていたが、感動ドキュメンタリーなんてあったのかな。

ドキュメンタリー番組は幾つかあるが、基本的に全ての人の行動を撮り、そのまま表現している筈。障害者とされる人の活動を放送したドキュメントも同じ様に行っていた筈であり、ドキュメントは障害者だからといって特別扱いするような物では無い。

そして、「感動ポルノ」は「障害者は可哀想」と決め付ける様に表現していたと思える。彼らに満足出来る生き方は出来ないんだろうとでも言いたかったのだろうか。
だが、健常・障害に関係無く満足できない生き方をしている人々は多くいる筈だ。なのに、何故障害者の生き方だけが「可哀想」だとして「感動ポルノ」にされるのか。理解できない。

まして、健常者は基本的に日常生活行動に支障がないとされるが、何らかの障害・疾患を抱えるが、決して日常生活に支障がない人々を指しているのであって、完全な障害や疾患のない健常者は存在しないんじゃないか。
「感動ポルノ」は障害の人々だけが対象となるのでは無く、健常者も対象となる筈だと思うのだが。
何故、健常者は対象から外され、障害者だけがどうして対象となるのか。「感動ポルノ」は、健常・障害の両者を同じ人と見るのでは無く、障害者を見下しているからではないのか。
ステイ・ヤングが「感動ポルノ」に関し「ある特定のグループに属する人々を、ほかのグループの人々の利益のためにモノ扱いしているからです。障害者を、非障害者の利益のために消費の対象にしているわけです」と語っているが、その通りで健常者とされる者達は障害者とされる者達を見下し、映像を通じ自分達の為に道具とし物として扱っている。

「バリバラ~障害者情報バラエティー~」も単に24時間批判では無く、この事を訴え様としていたのではないだろうか。