書店で『クロス』を探していると、同じ本棚に辻仁成氏の『ぼくから遠く離れて』がありました。これは光一という男の子が不思議な指示により、女装に導かれ、アンジュという女の子にしてトランスしていく物語。ふわふわした幻想感がある物語です。
そのなかで、女装してアンジュになった光一が女装して初めて外出するシーンです。
君はマナの部屋で再びアンジュに変身することになった。
足のすね毛を処理し、爪にマニキュアを塗った。
マナが持っている衣類の中から着れそうなものを選んだ。
ユニットバスで裸になって下着をつける。マナが手伝った。顔のうぶ毛を剃り、丁寧に洗顔をする。仕上げはマナの手によるフルメイク。デパートの美容部員のように慣れた手つきでマナは君の顔を女性のそれへと変えていく。次第に、自分が自分ではなくなっていくのを、不思議な感覚とともに君は見守る。
ベッドの上、脱ぎ散らかされたマナの衣類が、まるでパッチワークのように広げられている。そして、君の部屋と繋がる、あの壁。あの目の興奮が君をぎゅっと包み込む。マナの愛くるしい喘ぎ声が脳裏を掠める。どのようなことが行われていたのか、想像し、君はマナを直視できなくなる。
マナの指先が君の唇に触れる。リップが塗られる。君はあの夜のことを訊けない。盗み聞きし、最後に射精してしまったことを思い出しながら、顔を赤らめてしまう。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
変なの、と言いながらマナは最後に君の顔に粉をはたいた。
「できた、見る?」
「うん」
マナが鏡を君の前に置いた。目を開いて覗き込むと、アンジュがいた。
「麗しのアンジュ、また、会えたね、ようこそ」
マナがアンジュに向かって微笑みながら、挨拶をした。
マナのロングブーツを借りることになった。
黒のストッキングを穿いた足先が冷たいブーツの中に忍び込む時、厚い靴下とは違う、薄手のストッキングの、そのスースーとした感触と肌触りとによって、君は自分が女性になってしまったことを悟る。
マナが君の隣でハイヒールに足を入れる。
「じゃあ、行くよ。大丈夫?」
「わかんない。ドキドキする」
「いい? 一歩外に出たら、君は男子じゃないということを忘れないで。仕草も、声も、雰囲気も女性にしないとだめ。そうじゃないと世界に違和感、衝撃、不愉快、誤解を与えてしまうことになる。睨まれちゃうわよ」
「できるかな」
「しなきや。電車にも乗るし、降りたら駅から目的地までは歩いて十五分から二十分はかかる。センター街を抜けないとならないし、大勢の人とすれ違う。あとね、もし、トイレに行きたくなっても男性のトイレには入れないのよ」
「え?」
「そりゃあ、そうでしょ? フルメイクして、女装なんだから、いいこと? 男子トイレには入れません。襲われちゃうよ。何もかも女性と同じにしなきやだめ、女性と同じ気持ちで行動し、発言し、挑むこと。わからないことはわたしに訊いて。導いてあげるから」
「うん、わかった」
そう返したものの、君はどうしていいのかわからず怖気づいた。マナが押し開けたドアの向こう側へ出ていく勇気はなかった。
マナは君が踏み出すのをじっと持っている。
「君次第、無理強いはしない。嫌だったら、辛かったら、乗らなかったら、やめてもいいよ。また今度にしてもいい。内召はいつまでも持つと思うよ」
「大丈夫、行くよ、もう待てない。今すぐに会って確かめたいことがたくさんあるんだ。今日、会いに行く」
「その声、それじゃだめ。少し高めに、そしてか細く、女性らしく。できなければ、囁けばいい。囁くように喋れば、少しは女性らしくなるから」
屈辱を感じる。纏っていた鎧を脱ぎ捨て、裸よりも裸の格好で歩くことになる自分を想像してみる。君はマナに渡されたポシェツトを握りしめ、ついに一歩、新世界へと踏み出してしまった。
頭に血が昇り、逃げ出したくなった。こんな姿で外を歩くだなんて本当にできる? マナが君の腕に自分のそれを潜らせる。
「じやあ、行きましょう。大丈夫よ、ほら、わたしがついてる」(続く)
『ぼくから遠く離れて』(辻仁成著)
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そのなかで、女装してアンジュになった光一が女装して初めて外出するシーンです。
君はマナの部屋で再びアンジュに変身することになった。
足のすね毛を処理し、爪にマニキュアを塗った。
マナが持っている衣類の中から着れそうなものを選んだ。
ユニットバスで裸になって下着をつける。マナが手伝った。顔のうぶ毛を剃り、丁寧に洗顔をする。仕上げはマナの手によるフルメイク。デパートの美容部員のように慣れた手つきでマナは君の顔を女性のそれへと変えていく。次第に、自分が自分ではなくなっていくのを、不思議な感覚とともに君は見守る。
ベッドの上、脱ぎ散らかされたマナの衣類が、まるでパッチワークのように広げられている。そして、君の部屋と繋がる、あの壁。あの目の興奮が君をぎゅっと包み込む。マナの愛くるしい喘ぎ声が脳裏を掠める。どのようなことが行われていたのか、想像し、君はマナを直視できなくなる。
マナの指先が君の唇に触れる。リップが塗られる。君はあの夜のことを訊けない。盗み聞きし、最後に射精してしまったことを思い出しながら、顔を赤らめてしまう。
「どうしたの?」
「ううん、なんでもない」
変なの、と言いながらマナは最後に君の顔に粉をはたいた。
「できた、見る?」
「うん」
マナが鏡を君の前に置いた。目を開いて覗き込むと、アンジュがいた。
「麗しのアンジュ、また、会えたね、ようこそ」
マナがアンジュに向かって微笑みながら、挨拶をした。
マナのロングブーツを借りることになった。
黒のストッキングを穿いた足先が冷たいブーツの中に忍び込む時、厚い靴下とは違う、薄手のストッキングの、そのスースーとした感触と肌触りとによって、君は自分が女性になってしまったことを悟る。
マナが君の隣でハイヒールに足を入れる。
「じゃあ、行くよ。大丈夫?」
「わかんない。ドキドキする」
「いい? 一歩外に出たら、君は男子じゃないということを忘れないで。仕草も、声も、雰囲気も女性にしないとだめ。そうじゃないと世界に違和感、衝撃、不愉快、誤解を与えてしまうことになる。睨まれちゃうわよ」
「できるかな」
「しなきや。電車にも乗るし、降りたら駅から目的地までは歩いて十五分から二十分はかかる。センター街を抜けないとならないし、大勢の人とすれ違う。あとね、もし、トイレに行きたくなっても男性のトイレには入れないのよ」
「え?」
「そりゃあ、そうでしょ? フルメイクして、女装なんだから、いいこと? 男子トイレには入れません。襲われちゃうよ。何もかも女性と同じにしなきやだめ、女性と同じ気持ちで行動し、発言し、挑むこと。わからないことはわたしに訊いて。導いてあげるから」
「うん、わかった」
そう返したものの、君はどうしていいのかわからず怖気づいた。マナが押し開けたドアの向こう側へ出ていく勇気はなかった。
マナは君が踏み出すのをじっと持っている。
「君次第、無理強いはしない。嫌だったら、辛かったら、乗らなかったら、やめてもいいよ。また今度にしてもいい。内召はいつまでも持つと思うよ」
「大丈夫、行くよ、もう待てない。今すぐに会って確かめたいことがたくさんあるんだ。今日、会いに行く」
「その声、それじゃだめ。少し高めに、そしてか細く、女性らしく。できなければ、囁けばいい。囁くように喋れば、少しは女性らしくなるから」
屈辱を感じる。纏っていた鎧を脱ぎ捨て、裸よりも裸の格好で歩くことになる自分を想像してみる。君はマナに渡されたポシェツトを握りしめ、ついに一歩、新世界へと踏み出してしまった。
頭に血が昇り、逃げ出したくなった。こんな姿で外を歩くだなんて本当にできる? マナが君の腕に自分のそれを潜らせる。
「じやあ、行きましょう。大丈夫よ、ほら、わたしがついてる」(続く)
『ぼくから遠く離れて』(辻仁成著)