10月に『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』の内容で、日本女性学研究会が講座を開催してもらえました。友人の小川真知子さんが声を挙げてくれたので、できた講座です。
講座の報告を話し手のわたしが頼まれて、日本女性学研究会のニュースレターに書きました。その文章を下記に記します。
10月例会報告 源 淳子
10月13日(日)に行われた10月例会のテーマは、「自分らしい週末と葬送を考える」だった。この会は私が問題提起者だったが、その提起者自身が報告をするのは何とも書きにくいのだが、ご容赦ください。
私は、この4月、『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』(同時代社)を上梓した。この本を読んで関心をもった友人の小川真知子さんが、今回の例会の企画をしてくれた。
当日はドーンセンターの会場とオンラインをむすんで開催された。会場の参加者16人、オンラインの参加者7人(会員外計7人)だった。
司会の小川さんから会の進め方や注意等があり、私は自己紹介から始めた。この自己紹介が長くなってしまった。私が島根県奥出雲の小さい寺に生まれたことから話さないと、なぜ私が「死」や「死後」の問題に早くから関心をもったかということがわかりにくいと思ったからである。死後の問題として、遺骨にも関心があった。
今から38年前、父の遺骨を拾ったとき、拾わず残った遺骨がどうなるかを業者に尋ねたところ、「粉にして果樹園の肥料になる」という答えだった。このとき、すべての遺骨が肥料になってもかまわない、と強く思ったのある。その業者の回答は、遺骨の具体的なことを考えるきっかけになった。ちなみに現在は遺骨を肥料にしておらず、各自治体で決めた場所に集める方法である。
その後、親鸞を研究するなかで、親鸞が「死んだら遺体を賀茂河に流し魚の餌にしてほしい」といったことばに触発され、親鸞の遺体観から私の遺骨を拾ってもらわなくてもよいという考えに至った。
そして、つれあいと生活をともにしたなかで彼の考えも同じだったので、どちらが先に逝ってもお互いの遺骨を拾わない、と二人で決めた。しかし、現実には遺骨を拾わない人はほとんどおらず、彼が死んだ後、葬儀社はこのことをなかなか理解してくれなかった。ていねいに説明をしてようやく了解してもらい、私は彼の遺骨を拾わないことができた。
「遺骨を拾わない」ということは墓をつくらないことであり、その管理から解放され、墓の悩みをもたないで生きることである。それは、墓についての悩みをもっている多くの人にとっても好都合ではないかと考え、本のかたちにしたのである。
私にとって大事な人の悼み方は遺骨を大切にするのではなく、生きていたときの彼を愛しく大事に思うことである。だから、大切な人を喪うことは大きな喪失感になり、なかなか立ち直れないのである。そこに、亡くなった人が霊魂としてつながりがあると思いたい気持ちが生まれ、霊魂があると信じる人が、日本では60%もいるのである(1981年)。仏教は霊魂があるといわないので、彼の霊魂があるなんて兎の毛羊の毛ほども私は信じていない。日本の仏教は、霊魂の存在を肯定してきた。
以上が自己紹介である。
葬送が現在のかたちになるまでの歴史は、近代から始めた。家制度ができる近代天皇制国家は、天皇の万世一系を重んじるためには家族の祖先が大事であるから祖先崇拝を重視した。そのため民法で「祭祀権」を定めた。「系譜、祭具及ヒ墳墓ノ所有権ヲ承継スルハ家督相続ノ特権ニ属ス」(987条)。系譜とは過去帳、家系図をあらわし、祭具は仏壇、位牌である。墳墓は「〇〇家之墓」「先祖代々之墓」と刻まれた墓を示す。祭祀権はほとんどが財産の相続者である長男が受け継ぎ、家制度を補完した。
そして近代における戦争は、国家のために戦死した人を「英霊」として靖国神社に祀った。白木の箱に入った遺骨が自宅に還ってくるとして、遺骨は大切なものという意味が付加された。実際には石ころが入っていたり、何も入っていなかったそうだが、遺骨の意味が重視されたことは間違いない。石ころでも、何もなくても、墓に納め、墓参りをしてきた。
戦後、家制度はなくなったが檀家制度は残り、葬送のかたちも戦前が引き継がれた。これに大きな変化をもたらしたのは葬儀社の出現であり、地域共同体で行っていた葬儀が葬儀社主導に変わったことである。そしてもう一つの大きな変化は、コロナ禍での変化である。一般葬から家族葬への移行である。葬儀のありようを個人が反省した上での変革ではなく、外部からの力による変化である。現在家族葬が半数以上を占め、テレビコマーシャルも家族葬の宣伝しかしていない。家族葬に伴い、葬儀費用も一般葬があたりまえだった時代からみると大きく減少した。
しかし一方、遺骨を納める墓の事情には大きな変化はみられない。納骨堂やその種類はさまざまなかたちをとるようになったが、墓についての悩みは多くの人が抱えている。その悩みは、「お墓参りができない」「管理する後継者がいない」「墓じまいをしたいけど、どうしてよいか分からない」など、多種にわたる悩みである。
そういう悩みは、結局は遺骨に束縛され、墓にも束縛されているからである。結論として墓からの解放は、「遺骨を拾わないこと」である。その前に、「遺骨とは何か」を考える必要がある。遺骨について考えることをしてこなかったので、遺骨は拾うものという慣習が今なお根強く根底に残っている。私は、遺骨や墓に縛られない人生があることを提起したかったのである。
以上のような私の問題提起が終わり、30分の小グループでの話し合いが行われた。その後のグループ発表で、多くの質問があった。私が印象に残った質問を挙げてみよう。
▼墓じまいをして寺と縁を切るにはどうしたらよいか?
▼霊魂の有無について知りたい(ただし、「水子霊」「英霊」「祖先の霊」などは否定)。
▼親鸞は祖先供養をしない、という意味を教えてほしい。
▼葬儀にかかわる仕事が貶められている。死と穢れの関係とは?
▼仏壇・位牌の意味とは?
▼土葬の許可の問題について。
▼遺骨の意味は何? ・・・など。
ほとんどの答えは、本に書いているので本を読んでいただきたい。
各グループの感想も、こうした死後の問題を前向きに考えてみようとする内容であり、発題者としての私はホッとしたし、意義ある集会だったと了解した。
参加者のみなさま、スタッフのみなさま、お疲れさまでした。そして、ほんとうにありがとうございました。
講座の報告を話し手のわたしが頼まれて、日本女性学研究会のニュースレターに書きました。その文章を下記に記します。
10月例会報告 源 淳子
10月13日(日)に行われた10月例会のテーマは、「自分らしい週末と葬送を考える」だった。この会は私が問題提起者だったが、その提起者自身が報告をするのは何とも書きにくいのだが、ご容赦ください。
私は、この4月、『「遺骨を拾わない・お墓をつくらない」葬送を考える』(同時代社)を上梓した。この本を読んで関心をもった友人の小川真知子さんが、今回の例会の企画をしてくれた。
当日はドーンセンターの会場とオンラインをむすんで開催された。会場の参加者16人、オンラインの参加者7人(会員外計7人)だった。
司会の小川さんから会の進め方や注意等があり、私は自己紹介から始めた。この自己紹介が長くなってしまった。私が島根県奥出雲の小さい寺に生まれたことから話さないと、なぜ私が「死」や「死後」の問題に早くから関心をもったかということがわかりにくいと思ったからである。死後の問題として、遺骨にも関心があった。
今から38年前、父の遺骨を拾ったとき、拾わず残った遺骨がどうなるかを業者に尋ねたところ、「粉にして果樹園の肥料になる」という答えだった。このとき、すべての遺骨が肥料になってもかまわない、と強く思ったのある。その業者の回答は、遺骨の具体的なことを考えるきっかけになった。ちなみに現在は遺骨を肥料にしておらず、各自治体で決めた場所に集める方法である。
その後、親鸞を研究するなかで、親鸞が「死んだら遺体を賀茂河に流し魚の餌にしてほしい」といったことばに触発され、親鸞の遺体観から私の遺骨を拾ってもらわなくてもよいという考えに至った。
そして、つれあいと生活をともにしたなかで彼の考えも同じだったので、どちらが先に逝ってもお互いの遺骨を拾わない、と二人で決めた。しかし、現実には遺骨を拾わない人はほとんどおらず、彼が死んだ後、葬儀社はこのことをなかなか理解してくれなかった。ていねいに説明をしてようやく了解してもらい、私は彼の遺骨を拾わないことができた。
「遺骨を拾わない」ということは墓をつくらないことであり、その管理から解放され、墓の悩みをもたないで生きることである。それは、墓についての悩みをもっている多くの人にとっても好都合ではないかと考え、本のかたちにしたのである。
私にとって大事な人の悼み方は遺骨を大切にするのではなく、生きていたときの彼を愛しく大事に思うことである。だから、大切な人を喪うことは大きな喪失感になり、なかなか立ち直れないのである。そこに、亡くなった人が霊魂としてつながりがあると思いたい気持ちが生まれ、霊魂があると信じる人が、日本では60%もいるのである(1981年)。仏教は霊魂があるといわないので、彼の霊魂があるなんて兎の毛羊の毛ほども私は信じていない。日本の仏教は、霊魂の存在を肯定してきた。
以上が自己紹介である。
葬送が現在のかたちになるまでの歴史は、近代から始めた。家制度ができる近代天皇制国家は、天皇の万世一系を重んじるためには家族の祖先が大事であるから祖先崇拝を重視した。そのため民法で「祭祀権」を定めた。「系譜、祭具及ヒ墳墓ノ所有権ヲ承継スルハ家督相続ノ特権ニ属ス」(987条)。系譜とは過去帳、家系図をあらわし、祭具は仏壇、位牌である。墳墓は「〇〇家之墓」「先祖代々之墓」と刻まれた墓を示す。祭祀権はほとんどが財産の相続者である長男が受け継ぎ、家制度を補完した。
そして近代における戦争は、国家のために戦死した人を「英霊」として靖国神社に祀った。白木の箱に入った遺骨が自宅に還ってくるとして、遺骨は大切なものという意味が付加された。実際には石ころが入っていたり、何も入っていなかったそうだが、遺骨の意味が重視されたことは間違いない。石ころでも、何もなくても、墓に納め、墓参りをしてきた。
戦後、家制度はなくなったが檀家制度は残り、葬送のかたちも戦前が引き継がれた。これに大きな変化をもたらしたのは葬儀社の出現であり、地域共同体で行っていた葬儀が葬儀社主導に変わったことである。そしてもう一つの大きな変化は、コロナ禍での変化である。一般葬から家族葬への移行である。葬儀のありようを個人が反省した上での変革ではなく、外部からの力による変化である。現在家族葬が半数以上を占め、テレビコマーシャルも家族葬の宣伝しかしていない。家族葬に伴い、葬儀費用も一般葬があたりまえだった時代からみると大きく減少した。
しかし一方、遺骨を納める墓の事情には大きな変化はみられない。納骨堂やその種類はさまざまなかたちをとるようになったが、墓についての悩みは多くの人が抱えている。その悩みは、「お墓参りができない」「管理する後継者がいない」「墓じまいをしたいけど、どうしてよいか分からない」など、多種にわたる悩みである。
そういう悩みは、結局は遺骨に束縛され、墓にも束縛されているからである。結論として墓からの解放は、「遺骨を拾わないこと」である。その前に、「遺骨とは何か」を考える必要がある。遺骨について考えることをしてこなかったので、遺骨は拾うものという慣習が今なお根強く根底に残っている。私は、遺骨や墓に縛られない人生があることを提起したかったのである。
以上のような私の問題提起が終わり、30分の小グループでの話し合いが行われた。その後のグループ発表で、多くの質問があった。私が印象に残った質問を挙げてみよう。
▼墓じまいをして寺と縁を切るにはどうしたらよいか?
▼霊魂の有無について知りたい(ただし、「水子霊」「英霊」「祖先の霊」などは否定)。
▼親鸞は祖先供養をしない、という意味を教えてほしい。
▼葬儀にかかわる仕事が貶められている。死と穢れの関係とは?
▼仏壇・位牌の意味とは?
▼土葬の許可の問題について。
▼遺骨の意味は何? ・・・など。
ほとんどの答えは、本に書いているので本を読んでいただきたい。
各グループの感想も、こうした死後の問題を前向きに考えてみようとする内容であり、発題者としての私はホッとしたし、意義ある集会だったと了解した。
参加者のみなさま、スタッフのみなさま、お疲れさまでした。そして、ほんとうにありがとうございました。
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