続強子の部屋

思いつくまま、気の向くまま、書いています。

三人揃って同じ

2018-03-17 17:39:27 | 楽しかった
昨夜はMちゃんとお寿司屋さんに行来ました。
お母さんと二人でやっていたお店ですが、お母さんが亡くなって
大将一人でやっています。
お母さんが仕切っていたから大将も気落ちしていましたが
元気になりました。

私も気になっていた兄の戦場のことが一段落したので、
大将の顔を見に行きました。
ニシンの焼いたのを頂きました。美味しかったです。
夫はニシンの焼いたのが好きでした。私の育ったところでは
ニシンと言えば身欠きニシンでした。夫はカドと言っていました。
なかなか美味しい品には巡り合えませんでした。
夫が昨夜のニシンを見たらどんなに喜んだかしら。ごめん美味しくて。

そのあとサヨリやホタテを握ってもらって、他にお客さんがいなかったので
手相の話になりました。指の形長さ・・・  
何と私たち三人は同じ手相で、指の長さも似ていました。
小指が長い、薬指が人差し指より長い、親指が大きい、
太陽線がある。
流石大将は若いので、綺麗な手でした。年長の私は少し
関節がごつごつしていますが、Mちゃんも綺麗

きっとこれからも今のように幸せになっているわねと
陽気になってお酒も沢山飲みました。
大将は今は独身なので、良い人に巡り合えるよう励ましました。
きっと幸せが来るに違いありません。
Mちゃんも私も幸せだから

靖国神社の桜

2018-03-16 13:49:30 | 辛い
靖国神社の桜が開花しそうです。
靖国神社には私の長兄が祀られています。陸軍伍長です。
西部ニューギニアサンサポールで戦死しました。
小指ほどの黒い塊がお骨でした。

戦後生きて帰って来た方が、我が家を訪ねてくださって。
食べ物がなくてトカゲやカエル何でも食べたことを話して
くださったそうです。
お芋を植えてもなかなか育たなかったそうです。
兄は工兵だったので、連合軍の鉄条網を爆破するために
突撃しましたが、敵の戦力に負けて戦死したそうです。
相手の豊富な食糧を奪うための攻撃だったそうです。

大きい兄さんと呼んでいた私に、強子が一年生になったら
帰って来るよ、と言って寒い朝早く発って行きました。
私は小さかったので、近所の小母さんと家にいました。

あるとき池部良さんの、 江戸っ子の倅 読んで朝鮮半島を
出発した船団のことを知リました。船団が爆撃されて、
池部さんはハルマヘラでご苦労なさいましたが、
兄は助かったものの、ニューギニアに行かされました。
本を読んで池部さんの船は、天津山丸、兄は亜丁丸だとわかりました。

兄が天津から南方に行くと知らせがあった時、私たちは良いなあ^~
バナナやパパイヤ、パンの木があるそうだ~と喜びました。
兄が行き着いたところは、地獄の島でした。

地獄の日本兵(飯田進氏  日本軍兵士(吉田裕氏) 
ニューギニア戦線の真相  アジア太平洋戦争の真実 

私は魔境に生きた(島田覚夫氏
終戦も知らずニューギニアの山奥で原始生活10年

極限の戦場(久山忍氏
西部ニューギニア戦線、飢餓地獄を彷徨した将兵の証言

江戸っ子の倅7(池部良氏
この5冊でやっと不思議だった兄の戦死の様子が分かりました。
両親が知らなくてよかったと思いました。
まだ生きているのに、蟻や蛆にたかられた若者を思い辛く重い
気持ちになります。
いつも毎朝靖国神社のお札に向かってお祈りしていますが
辛い気持ちがますます募ります。
桜が散るころお参りに行こうと思います。
それにしても無事帰って来た上層部の人間が遺族会の役員をしていた
ことが分かりました。何なんでしょう、

無事帰って来た方々もマラリヤ、重症の水虫、精神的な病に苦しんだそうです。
近所のお茶屋さんのおじさんは戦地から無事帰って来ても、
何もせず家の中でぼんやりしたりにこにこ笑ていました。
何にも知らない私たちは、南洋ボケ、なんて言っていました。
残酷な子供でした。申し訳なかったと思います。







春です

2018-03-14 12:51:23 | うれしいこと


近所で一番遅い我が家の梅が咲いてくれました。鳥たちが来てくれます。

クリスマスローズが元気です。

隅の方の水仙も咲いてくれました。


サクラソウが芽ばえ初めました。


馬酔木が咲いて間もなく桜でしょうか。
小さな庭にうれしい春が来ました。外回りを掃除していたらバッタが
死んでいました。暖かくなったので早く出てきてしまったのでしょうか。
ちょっと可哀そうです。
私も暖かさに油断しないようにします。

東日本大震災

2018-03-12 19:14:22 | 怖かった
あの日は友人のMちゃんがお菓子を持ってきてくれて
玄関先でおしゃべりしていた時です。強くとても長い揺れでした。Mちゃんが
ドアーを抑えてくれて、私はダウンのコートを着てバッグを抱えました。
揺れが収まって、Mちゃんは家に戻りまたその時強い揺れが来ました。
遠い所で大きな地震が起きたなと思いました。
でもこんなに大きな災害とは思ってもみませんでした。

夫の従兄従妹たちが津波の被害に遭いました。怖い思いをして、
避難所も辛くて、大変な思いをしました。
夫が生きていたら、どんなに気を揉んだことかしら。

地震が起きる一月前頃、夫のネクタイピンや、私の指輪ネックレス
もう使わなくなった物を、貴金属買い取り店に行って、換金しました。
Mちゃんに5万円ぐらいだったらイタリアン。なんて言いました
何と26万円になりました。温泉ねなんて言いましたが。

このお金は被害に遭った、従兄従妹たちの御見舞金になりました。
御見舞金は倍以上かかりましたが、少し役に立ったかなと
思っています。
今は元気になったみんなですが、忘れられないことが沢山
あるそうです。

子どもたちが小さい頃行った。野蒜の民宿の懐かしい人たち
金華山、鮎川、浄土ヶ浜、奥松嶋、大鷹森、
穴子のてんぷらの美味しかった石巻のお店、
みんな被害に遭ったのです。悲しいです。
まだまだ元には戻れませんね。頑張ってほしいです。



東京大空襲

2018-03-10 17:11:49 | 怖かった
わすれられない日東京大空襲です。
ブログでは何回もつぶやいていますが、恐ろしい思いをしました。
ぐっすり寝ていた私は、母に起こされて身支度をさせられました。
外は大風が吹いていました。道路は大きな火の粉が物凄い勢いで
流れるように飛んでいきます。
隣の小父さんは満州に出征中です。子供たちと小母さんも一緒に
逃げました。両親姉三人私総勢10人です。
近くの神社の防空壕に私たちを置いて、両親は家に戻り何かを
取りに戻りました。私は大声で 行っちゃダメだと叫びました。
姉たちの声もなにも聞こえません、私だけが叫んだんでしょうか
間もなく二人は戻ってきました。家まで行けなかったそうです。
防空壕の中にいても、周りが熱くなってきました。
私は熱い熱いと叫びました。みんなですぐそばの橋を渡りました。
何と向こうから大勢の人がこちらに向かって来ます。
火を見て興奮した馬が駆けてきたのが怖かったです。

両親は驚いたことでしょう。みんな川沿いを下りました。
橋を渡りました。橋の欄干が燃えていました。
花火のようでした。風に飛ばされないようみんな掴まりあって
無事渡り切りました。間もなく橋は焼け落ちたそうです。
後の人たちは川に落ちてしまったのでしょうか。
両親が戻ってくるのが遅かったら、川に落ちて
いたかもしれません。

どうして両親は、江東区に向かって避難したのか
荒川放水路の立派な橋を渡らず、逆行したのか、
生きているうちに聞いておけばよかったと思います。
今も風の轟々とした音、火に驚いた馬の蹄のの音を
思い出します。

亡くなった沢山の人たちのご冥福をお祈りいたします。