ゆうとたいへ

六十を過ぎて始めた自転車旅行、山登りをつづります

古代ローマ 三賢人の言葉 その三

2019-05-06 | 日記

 (p.206)

 ● 賛辞と巧妙なおべっかは紙一重


 あからさまなおべっかに引っかかるのは、
 引っかかるほうが愚かである。

 そして、あからさまにおべっかを使う者も、愚かである。
 どうせすぐに正体がばれてしまうからだ。

 しかし、この世には、
 巧妙な手口でおべっかを使う者がいる。
 やつらは利口で、正体を隠し通す。

 そんな連中に対しては、用心に用心を重ねなくてはならない。
 賛辞と巧妙なおべっかは紙一重だということを、
 知るべきである。

[キケロ『友情について』]

 


 (p.209)

 ● 最高の正義とされるものは、最高の不正である


 これこそ絶対の正義だ
 -と確信できたことがあったら、即座にそれを捨てよ。
 
 正義とは「より正しい」ということであり、
 言ってしまえば、「そのほうがまだマシだ」ということである。
 絶対の正義など、ありえない。
 
 だから、絶対の正義とは絶対の嘘であり、
 したがって絶対の不正なのである。

[キケロ『義務について』]

 


 (p.212)

 ● わずかでも前進するなら、もって足れりとせよ


 おまえは、偉大な賢人が求めた高い理想を求めるな。

 自分なりにわずかでも前進したなら、それで納得せよ。

 自分のカで得たなら、わずかな成果でも喜べ。

 おまえは賢人ではないし、賢人はおまえではない。

[アウレリウス『自省録』第九巻第二九章]

 


 (p.213)

 ● 未来のことで思いわずらうな


 未来を思い悩むな。

 おまえがいま、理性をもっているなら、
 未来もきっと、その理性がおまえを正しく導いてくれるだろう。

 おまえに理性があるかぎり、おまえの未来に不安はない。

[アウレリウス『自省録』第七巻第八章]

 


 (p.217)

 ● どんな驚きも悲しみも怒りもやがて消え去る


 世間に何か大きな事件が起こるたび、
 人びとは驚きあわて、憂い悲しみ、
 怒り心頭に発した。

 その人びとは、いまやどこにいるのか。
 すでにどこにもいない。

 そして、その驚きや悲しみや怒りは、
 いまどこにあるのか。
 すでにどこにもない。

[アウレリウス『自省録』第七巻第五八章]

 


 (p.219)

 ● 不可能なことを成し遂げようとするのは狂気の沙汰


 不可能なことに挑むのは、狂気だ。

 しかし、愚か者はつねにそれを試みる。

 彼らをとめるのは不可能で、
 だから、彼らをとめようとするのは狂気である。

 したがって、私は彼らをとめない。

[アウレリウス『自省録』第五巻第一七章]

 


 (p.225)

 ● この世に驚くべきことなどない


 日々めぐりあう出来事に驚きあわてる者は、
 何という世間知らずだろうか。
 
 この世に、驚くべきことなど、ないのだ。

[アウレリウス『自省録』第一二巻第一一章]

 


 (p.228)

 ● 習慣は人問の第二の天性である


 よい習慣は、
 それをほんとうに身につけたいと願うなら、
 いつしかきっと生まれつきの性質と同じようになる。

 人の習慣は、第二の天性になりうるのだ。

[キケロ『善悪の限界について』]

                              以上


古代ローマ 三賢人の言葉 その二

2019-05-06 | 日記

 (p.102)

 ● たとえ神々に見放されても


 私は、愚かな息子を愛している。

 だが、息子は愚かゆえ、神に見放されるだろう。

 そして、愚かな息子を愛する私も、神に見放されるだろう。

 それでも、私は息子を愛している。

[アウレリウス『自省録』第七巻第四一章]

 


 (p.104)

 ● 老人にとつて死期の到来は苦痛ではない


 私は、老いて死に近づきつつあるいまを、
 長い航海を終えた船が
 ようやく陸に近づいたような安堵感で迎えている。

 私の船も、いよいよ錨を下ろすときがきたのだ。
 その心境は、決して苦しいものではない。
 むしろ快適な思いだ。

[キケロ『老年について』]

 


 (p.118)

 ● 大事な時間を雑事のために浪費するな


 年をとると毎日、時が速く過ぎ去っていくのに驚く。

 それはきっと、これまで自分が失ってきたものを、
 いまさらながら指折り数えるからだろう。
 
 失ったものを数えるのは時間の浪費にすぎず、
 そんなことをしているうちに、
 みるみる時が過ぎてしまうのだ。

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 


 (p.122)

 ● 相手もまた人間であることを考えよ


 不幸な人を目撃したら、それが誰であれ、
 どんな立場や身分であれ、
 まず、「彼は人間なのだ」ということだけを思え。

 そうすれば、その人が「自分の仲間」だと感じられ、
 だから、「放っておくわけにはいかない」
 と感じるだろう。

[セネカの悲劇『狂えるヘラクレス』]

 


 (p.126)

 ● 同種のものは同種のものと、とかく連携する


 同志になれるのは、
 相手と自分が「同じ種類の人間」だからだ。

 「志が同じだから同志になれた」のではない。
 二人とも、もともと、
 「同じ志をもつ種類」の人間だつたから、
 同志になれたのだ。

 だから、ほんとうの同志は、
 いつまでも、何があつても、
 同志でありつづける。
 もともとが「同じ種類の人間」であることは、
 変わりようがないのだから。

[キケロ『老年について』]

 


 (p.128)

  ● 親しむに足りない人物とは


 親しむに足りない人物とは、
 自分自身を不満に思い、
 自分自身の言動のほとんどすべてを
 後悔しているような者である。

 自分で自分を認められない者は、
 他人の心に何の光も与えられない。

[アウレリウス『自省録』第八巻第五三章]

 


 (p.131)

 ● 誰にほめられるべきなのか見極めよ


 誰にでもほめられたいと願う者よ。

 おまえは、一時間に三度も
 おまえのことを呪うような人物からほめられたいのか。

[アウレリウス『自省録』第八巻第五三章]

 


 (p.132)

 ● 相手の人生観がわかれば振りまわされることはない


 めぐりあった人物が、
 快楽と苦痛に対して、
 名声と悪評に対して、
 さらには生と死に対して、
 いかなる考えをもっているのか。

 それがわかれば、
 その人物がいかなる突飛な行動に出たとしても、
 驚くことはない。

 その人物がその突飛な行動に出ざるをえなかった理由が、
 明確に見えてくるだろうから。

[アウレリウス『自省録』第八巻第一四章]

 


 (p.133)

 ● 他人の心より自分の心の動きに注意を払え


 他人の心の変化を悩む人は、決して不幸ではない。
 その悩みが、きっとその人のまわりを、
 よい方向へと変えていってくれるから。

 しかし、自分の心の変化に注意を払わない人は、
 必ず不幸になる。
 そのままではきっと、その人のまわりが、
 どんどん悪くなっていくから。

[アウレリウス『自省録』第二巻第八章]

 


 (p.140)

 ● すべての事物の源泉は極小である


 大事件とは、往々にして原因が複雑で、
 だから解決が困難だー
 と、おまえは思うだろう。
                                    
 しかし、「複雑な原因をつくりだしている原因」は、
 じつは、きっと些細にして単純なことなのだ。

 だから、「原因の原因」までさかのぼれば、
 どんな大事件も、簡単な解決方法がきっと見つかる。

[キケロ『善悪の限界について』]

 


 (p.142)

 ● 謙遜して受け入れ、平然とあきらめよ


 大切なのは、謙遜して受け入れること。

 そして、それを平然とあきらめることだ。

[アウレリウス『自省録』第八巻第三一章]

 


 (p.145)

 ● 怒りに対するもっとも効果的な鎮静手段


 怒りを静める効果的な方法は、怒ったまま放っておくことである。

 怒りを無理に抑えようとしても、できるわけがない。
 しかし、時が経てば、何もしなくとも人は冷静になっていく。

 怒りとの戦いは、延長戦に持ち込むにかぎる。

[セネカ『怒りについて』]

 


 (p.150)

 ● 死者にはもはや何の苦痛もやってこない


 存在しない者は何も感じない。
 「私は存在していない」と感じることさえ、ない。

 死がそうしたものならば、
 苦痛もなくなるが快楽もなくなる
 -と悲観するか。

 快楽もなくなるが苦痛もなくなる
 -と楽観するか。
 
 人それぞれであろう。

 私は、後者を選ぶ。

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 


 (p.151)

 ● われわれが死ななければならないのは確かである


 自分の死については、
 誰しも特別な感慨を抱き、
 この世でもっとも「特別な事件」として、
 それを思い悩むだろう。
 
 しかし、人が死ぬことは、この世にあって、
 あまりにありふれた一般的な出来事にすぎない。
 だから、思い悩むほどのものではない。

[キケロ『老年について』]

 

 

 (p.154)

 ● 死について思い悩むから不安になるのだ


 不安には二種類ある。
 
 一つは、現実の不安。
 もう一つは、想像上の不安。

 死の不安は後者である。
 死は、それ自体が不安を引き起こすのではない。
 死について思い悩むことによって、
 自分で勝手に不安になっていく。

 死の恐怖を想像しなければ、死は怖くない。

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 


 (p.166)

 ● おまえを悩ますのは、おまえの判断である


 おまえが悩んでいるのは、
 おまえの目の前にあるもののせいではない。

 それに対するおまえの判断のせいである。

[アウレリウス『自省録』第八巻第四七章]

 


 (p.173)

 ● 人は安易に暗い未来を想像する


 重い病は、患者に知らせないほうがよい。

 なぜなら、人は重い病だとわかると、
 悪しき未来を勝手に想像して、
 病を悪化させるからだ。

 明るい未来を想像するより、
 暗い未来を想像するほうが安易なのである。

[セネカ『生の短さについて』]

 


 (p.174)

 ● 軽蔑を超える重荷はない


 もはや去っていく地で、恥ずべきことをしても、
 あとから罰を受けることはない。
 
 その地からいなくなってしまえば、罰から逃れられる。

 しかし、罰以上に大きな重荷を背負う。
 それは、軽蔑されることである。

[セネカ『母への手紙』]

 


 (p.177)

 ● 焦って死ぬ必要などない


 あの断崖絶壁を見よ。
 あそこから飛び降りれば、おまえは死ねる。

 あの海、川、そして泉を見よ。
 その深奥に達すれば、おまえは死ねる。

 果実を結ばないあの枯木を見よ。
 あの木の枝で首をくくれば、おまえは死ねる。

 死ぬ手段はどこにでもあり、死ぬことはいつでも簡単にできる。

 だから、焦って死ぬ必要はまったくない。

[セネカ『怒りについて』]

 


 (p.180)

 ● 欲しい知識より、理解できる知識を求めよ


 いきなり「欲しい知識」を求めるな。
 まずは、「理解できる知識」を求めよ。

 その姿勢の積み重ねが、
 やがて欲しい知識をほんとうに得ることにつながる。

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 


 (p.183)

 ● 愛情を育てるのはやさしく、憎悪を消すのは難しい


 やさしさや愛情を育てる教育は、それほど難しくはない。

 ほんとうに難しいのは、残虐さや憎悪を消し去る教育である。

[セネカ『怒りについて』]

 


 (p.184)

 ● よい教師は最良の友人である


 かつて、ある教師は私を励まし、私の素質を伸ばし、
 ときには私を称讃して勇気づけてくれた。
                                
 さらには、私にさまざまな訓戒を与えて、
 私を怠け者にさせない術(すべ)を心得ていた。

 もし、私が、この教師を「最良の友」として心から感謝しないならば、
 私はまったく恩知らずの人間となってしまうであろう。

[セネカ『善行について』]

 


 (p.188)

 ● 本を読むなら、つねに名著を読め


 色とりどりの華やかなごちそうというのは、
 たいてい味がいいだけで、
 ほんとうに必要な栄養は含まれていない。
 そんなものを次から次へと食べても、
 体を壊すだけである。

 読書も、心の栄養となる名著だけを読むべきだ。
 そして、名著とは、たいてい質素である。

 見た目が華やかな書物は、
 たいてい読みやすくても心の栄養が含まれていない。

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 


 (p.194)

 ● 言葉よりも実例を示せ


 言葉で諭す教育は、難しい。

 けれど、実例を見せて導く教育はじつに簡単で、
 しかも効果が大きい。

 子どもは体験を信じるのである。

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 


 (p.193)

 ● 尊敬できない教師とは


 もし教師が、
 一人の生徒をほかの生徒と同類の人間と見なすならば、

 もし教師が、
 一人の生徒にその者だけの素質があることを認めないならば、

 もし教師が、
 一人の生徒がテストのために
 教材を鵜呑(うの)みにしているだけなのを見過ごすのなら、

 私は、そんな教師を尊敬する理由をまったくもたないであろう。

[セネカ『善行について』]

 


 (p.196)

 ● 善人について議論するより、みずから善人になれ


 善人とはどんな人なのですか。
 -などと聞く暇があったら、おまえが善人になれ。

 おまえはほんとうは知っているはずなのだから。

[アウレリウス『自省録』第一〇巻第一六章]

 


 (p.193)

 ● すべての罪は、悪者と友情を結んだおまえにある


 友にそそのかされて悪事に手を染めてしまう
 -ということもあるだろう。
 
 しかし、だからと言って、弁解の余地はない。
 すべての罪は、おまえにある。

 なぜなら、そもそもおまえが愚かで善悪の判断を誤り、
 「悪事をそそのかす人間」を友に選んだからだ。

 悪友による罪は、悪友の罪ではなく、
 悪友を友としたおまえの罪である。

[キケロ『友情について』]

 


 (p.199)

 ● 不正をなす者には、何もしなかった者も含まれる


 悪をなした者とは、
 実際に悪をなした者と、
 それを見ながら何もなさなかった者である。

[アウレリウス『自省録』第九巻第五章]


古代ローマ 三賢人の言葉 その一

2019-05-06 | 日記

 確か、このブログを書き始めたのは、退職した頃、すなわち2011年頃ではなかったかと思う。

 その間、Goo Blog 内で、もう一つの "Sugar's Adventure "(南米自転車旅行とアメリカ合衆国徒歩旅行)の旅行記を作成した。

 (→ https://blog.goo.ne.jp/gkazk )

 今回、『古代ローマ三賢人の言葉』という本を読み、これを再度(自分で)読むため、ここに記載し残しておきます。

 *************

 

2019年5月5日

 

 感心する言葉に出会いました。

 

 次の本にでていた「ことば」です。

 

 〔著者〕キケロ/セネカ/アウレリウス
 〔訳者〕金森誠也・長尾剛
 『超訳 古代ローマ三賢人の言葉』
  PHP研究所 2012年

 

 これを知ったからといって、明日から生活が変わるわけではないのですが、きっと何か役に立つことがあると思います。

 

 私にとっては役に立つ警句です。

 

 では、ご紹介します。

 

 (尚、括弧は本文のページです)

 

 

 

(p.27)

 

 ● いま、この瞬間を生きる
                     

 

 明日を思いわずらうと、
 どうしても今日を蔑(ないがし)ろにしてしまう。

 

 自分ではどうにもならない運命に悩み、
 自分でどうとでもできる事実を取り逃がしてしまう。

 

 明日を考えて、今日を失う。

 

 われわれの今日の最大の障害は、
 「明日を考えること」 である。

 

[セネカ『生の短さについて』]

 

 

 


(p.29)

 

 ● 大所高所に立って物事を観察せよ

 


 目の前のことを、
 「目の前のこと」として見るな。

 

 より高いところに心の目を置いて、
 「ずっと下で起こつていること」
 として観察せよ。

 

[アウレリウス『自省録』第九巻第三〇章]

 

 

 


(p.31)

 

 ● つねに死を念頭に置いて生きよ

 


 万事に節度をもって生活するコツを、教えよう。

 

 人生は短く、いつ終わるかわからない
 -と、つねに念頭に置いておくことだ。

 

 そう思えば、いつでも、
 ハメを外した真似をする気にはなれない。
 他人に嘲笑されながら死んでいくのは、
 誰でも嫌なものだから。

 

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 

 

 


 (p.36)

 

● つねに自然な表現を心がける

 


 どんなに晴れやかで立派な場所に立ち、
 どんなに多くの人に注目されたとしても、
 ごくふつうの路地で、
 ごくふつうの人と話をするように語るのが、よい。

 

 自然な表現態度が、もっとも他人に意を伝えられる。

 

[アウレリウス『自省録』第八巻第三〇章]

 

 

 


 (p.38)

 

 ● 己の自然に従って生きよ

 


 人の理性は、人の心に何を命じているのか。

 

 それは、単純明快だ。

 

 自分が正しいと思うとおりに生きろ。
 -と命じているのだ。

 

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 

 

 


 (p.42)

 

 ● 人はいつでもどこでも、己の生き方を反省できる

 


 人びとは、自分を見つめなおすために旅に出る。
 田園へ、海へ、そして山へ。

 

 けれど、そんな旅は無駄で、子どもじみた遊びにすぎない。

 

 じつは人は、いつでもどこでも、
 自分を見つめなおせる力をもっているのだから。

 

[アウレリウス『自省録』第四巻第三章]

 

 

 


 (p.43)

 

 ● 怒りは自分の欠陥である

 


 怒りは、欠陥である。

 

 怒りを感じたら、それが自分の欠陥だと知れ。
 
[セネカ『怒りについて』]

 

 

 


 (p.45)

 

 ● 貧しさは思い込みにすぎない

 


 もし、おまえが多くの富を得たとしても、
 他人がもっと多くの富を得ていれば、
 おまえは自分を貧しいと感じるだろう。

 

 貧しさとは事実ではない。思い込みにすぎない。

 

[セネカ『ルキリウスへの手紙』]

 

 

 


 (p.49)

 

 ● 他人の言葉は人を翻弄させ、平穏になれない

 


 私は、さまざまな騒音よりも、
 人が語る言葉のほうが、耳に入れるのが恐ろしい。

 

 騒音は不愉快なだけだが、人が語る言葉は、
 心のなかに容赦なく入り込んでくるからだ。

 

[セネカ『ルキリウスへの手紙』]

 

 

 


 (p.50)

 

 ● 面倒なことはすべて自分の心のなかにある

 


 面倒なことから解放されたければ、
 そう願うだけでよい。

 

 なぜなら、面倒なこととはすべからく、
 心のなかにあるからだ。
 
 実際にある出来事はすべからく、
 面倒と思わなければ、面倒にならない。

 

[アウレリウス『自省録』第九巻第一三章]

 

 

 


 (p.51)

 

 ● 私は自分自身を苦しめるほど価値のある人問ではない

 


 私の人生は、苦しみ悩むほど大層なものではない。

 

 私はその程度の人間で、だから私は悩まない。

 

 ただ、あるがままに生きている。

 

 そういう人生が、よい。

 

[アウレリウス『自省録』第九巻第四二章]

 

 

 


 (p.53)

 

 ● チャンスを見逃すな

 


 可能性は、つねに目の前にある。

 

 けれど、見過ごした可能性は、再び帰ってこない。

 

[アウレリウス『自省録』第二巻第四章]

 

 

 


 (p.54)

 

 ● 私はいったいいま、どんな心をもっているのか

 


 私は、いったいいま、どんな心を抱いているのだろう。

 

 子どものような心か。
 若者のような心か。
 女のような心か。
 あるいは、暴君のようなおぞましい心か。

 

 それとも、家畜や野獣なみの愚かな心か。

 

 私はつねに、こんなふうに自問自答している。

 

[アウレリウス『自省録』第五巻第一一章]

 

 

 


 (p.56)

 

 ● 記憶も繰り返し甦(よみがえ)らせていないと消失する

 


 大切な思い出は、いつまでも忘れない。
 ーと思い込んでいる者は、自分の記憶力にうぬぼれている。
 人の記憶力はそれほど優れてはいない。

 

 だから、その思い出が大切なら大切なほど、
 忘れないよう、
 いつも心に繰り返し
 「廻(よみがえ)らせる努力」をせよ。

 

 忘れてしまった思い出は、
 二度と心に廻らせることはできないのだから。

 

[キケロ『老年について』]

 

 

 


 (p.57)

 

 ● 死後の名声にこだわることの無意味さ

 


 死後の名声にこだわる者は、
 彼の死後、
 彼を思い出してくれる人びとも程なく死んでしまう
 という事実を、考えていない。

 

[アウレリウス『自省録』第四巻第一九章]

 

 

 


 (p.60)

 

 ● 理性的な人問は欲望を制御する

 


 理性的な人間とは、欲望をもたない人間ではない。

 

 もっている欲望を制御できる人間である。

 

[セネカ『賢者の不動心について』]

 

 

 


 (p.61)

 

 ● 人の魂が傷つくとき

 


 おまえの魂が傷ついたのは、

 

 他人に背を向け、他人を傷つけたからだ。

 

[アウレリウス『自省録』第二巻第一六章]

 

 

 


 (p.62)

 

 ● 孤独はこの世の楽しみのすべてを奪う

 


 たとえば、食べ物が十分にあり、
 生活に必要なものがすべてそろっていて、
 けれどまわりに人影がまったく見えない
 ーという状況に置かれたら、
 人は生きていけるだろうか。
 いけないだろう。

 

 人は、楽しみがなければ我慢ができない。
 そして、孤独はあらゆる楽しみを奪ってしまうものだから。

 

[キケロ『友情について』]

 

 

 


 (p.63)

 

 ● 必要か不要かは失ったときにわかる

 


 人が道具をもつのは、
 たいてい、必要だからもっているのではない。
 たまたま手もとにあつたからもっているにすぎない。

 

 人が道具をつくるのは、
 たいてい、必要だからつくるのではない。
 他人がそれと同じような道具をもっていたから、
 つくるにすぎない。

 

 だから、人は道具を失うと、
 それがいかに余計なものだつたかに気づく。

 

[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]

 

 

 


 (p.69)

 

 ● 引越しや転職をしたがるのは、不安の表れである

 


 環境を変えたがる人間というのは、
 ただ落ち着きのない人間にすぎない。
 彼らは、現在にも過去にも未来にも思いわずらって、
 どこにも安定できない。

 

 彼らは、新発見を求め、新天地を求める。
 しかし、その思いは、高い志などではなく、
 ただの浅はかで陳腐(ちんぷ)な不安の表れにすぎない。

 

[セネカ『母への手紙』]

 

 

 


 (p.72)

 

 ● 年をとっても、関心があることはすべて覚えている

 


 年をとると忘れっぽくなる。
 けれど、それは、記憶力の衰えではない。

 

 少なくとも私は、
 老人が「自分のカネの隠し場所」を忘れたというのは、
 聞いたことがない。
 年をとっても、己が執着していることは忘れないものだ。

 

 つまり、年をとって忘れっぽくなるのは、
 記憶力が衰えたからではなく、
 執着心や好奇心が衰えたからにすぎない。

 

[キケロ『老年について』]

 

 

 


 (p.81)

 

 ● 真の友情は、ただそれがあるだけで十分である

 


 友情を抱くと人は寛大になり、物惜しみをしなくなる。

 

 ほんとうの友情は、それだけがあれば十分で、
 礼を求める必要などないからだ。

 

 したがって、なんらかの利益を友に期待するならば、
 それは、友情を十分に得られていない証拠である。

 

[キケロ『友情について』]

 

 

 


 (p.85)

 

 ● 友人が過ちを犯したときに何をすべきか

 


 友人が過ちを犯したなら、それを正せ。

 

 それができないなら、その過ちを引き受けよ。

 

 それもできないなら、もはやおまえは彼の友人ではない。

 

[アウレリウス『自省録』第一〇巻第四章]

 

 

 


 (p.91)

 

 ● 真の友情かどうかは、年をとってから判断するとよい

 


 ほんとうの友は誰なのか。
 その判断は、歳を重ねてからするのがよい。

 

 若いときにはたいてい、
 ともに楽しく過ごす仲間がたくさんいる。
 しかし、そうした仲間が熟年に達したときに
 信頼に足る相手になっているとは、断言できない。

 

 歳を重ねて人生が確固不動の趣きをなしたとき、
 ようやくそれが見えてくる。

 

 友情に、若い情熱は必ずしも必要ないのである。

 

[キケロ『友情について』]

 

 

 


 (p.96)

 

 ● 人は不幸になったとき、真の親友を見出す

 


 幸福を共有することは、簡単だ。

 

 しかし、不幸を共有することは、
 じつにやっかいでやりきれない。
 それを共有できるのは、
 よほど相手を愛している人だけだ。

 

 だから、人は不幸になったとき、
 ほんとうの友を見出せる。

 

[キケロ『友情について』]