(p.102)
● たとえ神々に見放されても
私は、愚かな息子を愛している。
だが、息子は愚かゆえ、神に見放されるだろう。
そして、愚かな息子を愛する私も、神に見放されるだろう。
それでも、私は息子を愛している。
[アウレリウス『自省録』第七巻第四一章]
(p.104)
● 老人にとつて死期の到来は苦痛ではない
私は、老いて死に近づきつつあるいまを、
長い航海を終えた船が
ようやく陸に近づいたような安堵感で迎えている。
私の船も、いよいよ錨を下ろすときがきたのだ。
その心境は、決して苦しいものではない。
むしろ快適な思いだ。
[キケロ『老年について』]
(p.118)
● 大事な時間を雑事のために浪費するな
年をとると毎日、時が速く過ぎ去っていくのに驚く。
それはきっと、これまで自分が失ってきたものを、
いまさらながら指折り数えるからだろう。
失ったものを数えるのは時間の浪費にすぎず、
そんなことをしているうちに、
みるみる時が過ぎてしまうのだ。
[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]
(p.122)
● 相手もまた人間であることを考えよ
不幸な人を目撃したら、それが誰であれ、
どんな立場や身分であれ、
まず、「彼は人間なのだ」ということだけを思え。
そうすれば、その人が「自分の仲間」だと感じられ、
だから、「放っておくわけにはいかない」
と感じるだろう。
[セネカの悲劇『狂えるヘラクレス』]
(p.126)
● 同種のものは同種のものと、とかく連携する
同志になれるのは、
相手と自分が「同じ種類の人間」だからだ。
「志が同じだから同志になれた」のではない。
二人とも、もともと、
「同じ志をもつ種類」の人間だつたから、
同志になれたのだ。
だから、ほんとうの同志は、
いつまでも、何があつても、
同志でありつづける。
もともとが「同じ種類の人間」であることは、
変わりようがないのだから。
[キケロ『老年について』]
(p.128)
● 親しむに足りない人物とは
親しむに足りない人物とは、
自分自身を不満に思い、
自分自身の言動のほとんどすべてを
後悔しているような者である。
自分で自分を認められない者は、
他人の心に何の光も与えられない。
[アウレリウス『自省録』第八巻第五三章]
(p.131)
● 誰にほめられるべきなのか見極めよ
誰にでもほめられたいと願う者よ。
おまえは、一時間に三度も
おまえのことを呪うような人物からほめられたいのか。
[アウレリウス『自省録』第八巻第五三章]
(p.132)
● 相手の人生観がわかれば振りまわされることはない
めぐりあった人物が、
快楽と苦痛に対して、
名声と悪評に対して、
さらには生と死に対して、
いかなる考えをもっているのか。
それがわかれば、
その人物がいかなる突飛な行動に出たとしても、
驚くことはない。
その人物がその突飛な行動に出ざるをえなかった理由が、
明確に見えてくるだろうから。
[アウレリウス『自省録』第八巻第一四章]
(p.133)
● 他人の心より自分の心の動きに注意を払え
他人の心の変化を悩む人は、決して不幸ではない。
その悩みが、きっとその人のまわりを、
よい方向へと変えていってくれるから。
しかし、自分の心の変化に注意を払わない人は、
必ず不幸になる。
そのままではきっと、その人のまわりが、
どんどん悪くなっていくから。
[アウレリウス『自省録』第二巻第八章]
(p.140)
● すべての事物の源泉は極小である
大事件とは、往々にして原因が複雑で、
だから解決が困難だー
と、おまえは思うだろう。
しかし、「複雑な原因をつくりだしている原因」は、
じつは、きっと些細にして単純なことなのだ。
だから、「原因の原因」までさかのぼれば、
どんな大事件も、簡単な解決方法がきっと見つかる。
[キケロ『善悪の限界について』]
(p.142)
● 謙遜して受け入れ、平然とあきらめよ
大切なのは、謙遜して受け入れること。
そして、それを平然とあきらめることだ。
[アウレリウス『自省録』第八巻第三一章]
(p.145)
● 怒りに対するもっとも効果的な鎮静手段
怒りを静める効果的な方法は、怒ったまま放っておくことである。
怒りを無理に抑えようとしても、できるわけがない。
しかし、時が経てば、何もしなくとも人は冷静になっていく。
怒りとの戦いは、延長戦に持ち込むにかぎる。
[セネカ『怒りについて』]
(p.150)
● 死者にはもはや何の苦痛もやってこない
存在しない者は何も感じない。
「私は存在していない」と感じることさえ、ない。
死がそうしたものならば、
苦痛もなくなるが快楽もなくなる
-と悲観するか。
快楽もなくなるが苦痛もなくなる
-と楽観するか。
人それぞれであろう。
私は、後者を選ぶ。
[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]
(p.151)
● われわれが死ななければならないのは確かである
自分の死については、
誰しも特別な感慨を抱き、
この世でもっとも「特別な事件」として、
それを思い悩むだろう。
しかし、人が死ぬことは、この世にあって、
あまりにありふれた一般的な出来事にすぎない。
だから、思い悩むほどのものではない。
[キケロ『老年について』]
(p.154)
● 死について思い悩むから不安になるのだ
不安には二種類ある。
一つは、現実の不安。
もう一つは、想像上の不安。
死の不安は後者である。
死は、それ自体が不安を引き起こすのではない。
死について思い悩むことによって、
自分で勝手に不安になっていく。
死の恐怖を想像しなければ、死は怖くない。
[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]
(p.166)
● おまえを悩ますのは、おまえの判断である
おまえが悩んでいるのは、
おまえの目の前にあるもののせいではない。
それに対するおまえの判断のせいである。
[アウレリウス『自省録』第八巻第四七章]
(p.173)
● 人は安易に暗い未来を想像する
重い病は、患者に知らせないほうがよい。
なぜなら、人は重い病だとわかると、
悪しき未来を勝手に想像して、
病を悪化させるからだ。
明るい未来を想像するより、
暗い未来を想像するほうが安易なのである。
[セネカ『生の短さについて』]
(p.174)
● 軽蔑を超える重荷はない
もはや去っていく地で、恥ずべきことをしても、
あとから罰を受けることはない。
その地からいなくなってしまえば、罰から逃れられる。
しかし、罰以上に大きな重荷を背負う。
それは、軽蔑されることである。
[セネカ『母への手紙』]
(p.177)
● 焦って死ぬ必要などない
あの断崖絶壁を見よ。
あそこから飛び降りれば、おまえは死ねる。
あの海、川、そして泉を見よ。
その深奥に達すれば、おまえは死ねる。
果実を結ばないあの枯木を見よ。
あの木の枝で首をくくれば、おまえは死ねる。
死ぬ手段はどこにでもあり、死ぬことはいつでも簡単にできる。
だから、焦って死ぬ必要はまったくない。
[セネカ『怒りについて』]
(p.180)
● 欲しい知識より、理解できる知識を求めよ
いきなり「欲しい知識」を求めるな。
まずは、「理解できる知識」を求めよ。
その姿勢の積み重ねが、
やがて欲しい知識をほんとうに得ることにつながる。
[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]
(p.183)
● 愛情を育てるのはやさしく、憎悪を消すのは難しい
やさしさや愛情を育てる教育は、それほど難しくはない。
ほんとうに難しいのは、残虐さや憎悪を消し去る教育である。
[セネカ『怒りについて』]
(p.184)
● よい教師は最良の友人である
かつて、ある教師は私を励まし、私の素質を伸ばし、
ときには私を称讃して勇気づけてくれた。
さらには、私にさまざまな訓戒を与えて、
私を怠け者にさせない術(すべ)を心得ていた。
もし、私が、この教師を「最良の友」として心から感謝しないならば、
私はまったく恩知らずの人間となってしまうであろう。
[セネカ『善行について』]
(p.188)
● 本を読むなら、つねに名著を読め
色とりどりの華やかなごちそうというのは、
たいてい味がいいだけで、
ほんとうに必要な栄養は含まれていない。
そんなものを次から次へと食べても、
体を壊すだけである。
読書も、心の栄養となる名著だけを読むべきだ。
そして、名著とは、たいてい質素である。
見た目が華やかな書物は、
たいてい読みやすくても心の栄養が含まれていない。
[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]
(p.194)
● 言葉よりも実例を示せ
言葉で諭す教育は、難しい。
けれど、実例を見せて導く教育はじつに簡単で、
しかも効果が大きい。
子どもは体験を信じるのである。
[セネカ『ルキリウスヘの手紙』]
(p.193)
● 尊敬できない教師とは
もし教師が、
一人の生徒をほかの生徒と同類の人間と見なすならば、
もし教師が、
一人の生徒にその者だけの素質があることを認めないならば、
もし教師が、
一人の生徒がテストのために
教材を鵜呑(うの)みにしているだけなのを見過ごすのなら、
私は、そんな教師を尊敬する理由をまったくもたないであろう。
[セネカ『善行について』]
(p.196)
● 善人について議論するより、みずから善人になれ
善人とはどんな人なのですか。
-などと聞く暇があったら、おまえが善人になれ。
おまえはほんとうは知っているはずなのだから。
[アウレリウス『自省録』第一〇巻第一六章]
(p.193)
● すべての罪は、悪者と友情を結んだおまえにある
友にそそのかされて悪事に手を染めてしまう
-ということもあるだろう。
しかし、だからと言って、弁解の余地はない。
すべての罪は、おまえにある。
なぜなら、そもそもおまえが愚かで善悪の判断を誤り、
「悪事をそそのかす人間」を友に選んだからだ。
悪友による罪は、悪友の罪ではなく、
悪友を友としたおまえの罪である。
[キケロ『友情について』]
(p.199)
● 不正をなす者には、何もしなかった者も含まれる
悪をなした者とは、
実際に悪をなした者と、
それを見ながら何もなさなかった者である。
[アウレリウス『自省録』第九巻第五章]