太陽の周りを大きく変形しながら動いていたものは何?
何であれとてつもないエネルギーであることは間違いないわね。
もう2度と、沈み行く、けれどもまだ光り輝くまぶしい太陽を肉眼で見ることは
ないでしょうから、貴重な体験をしたことを胸に収めて。ホント「見てご覧!」
って、そんな感じで引き寄せられたのでした太陽に。
ン?そういえば、室戸岬の洞穴で瞑想していた彼の体内に飛び込んで来た太陽
(のエネルギー)を感じ取ったって逸話があるそれをふっと思い出したわ。
恐れ多くも、ーーーあら同じねーーなどとは露ほども思わないけれど。
人間のスケールの差異は、太陽と月、否、月とすっぽんほどにもならないくらい
ですから。
国費で中国留学した最澄(天台宗)と違って、私費留学生だった空海(真言宗)の
ことです、彼はって親しげに言ったのは。最澄も空海も同じ密教系です。
空海は太陽が体内に入ってきた強烈な感覚があったのでしょう。
たしか大日如来がシンボル(本尊)だったように記憶しています。
この春でしたっけ? 天台宗と真言宗のトップがガッシリ握手してハグしたのは。
ハグまではなかったかしら?ええ、どちらも凄いご高齢でした。
公務員の最澄、民間の空海って。民間の経営者”守るは己”が強いのは言うまで
もありませんね。守ってくれるものがなければ、自身を頼まなければ生きていけ
ません。
そしてその後の2人の歩みが後世の今を見ればわかります。
一つの流行のようになってしまった四国お遍路48箇所(寺)巡りの今日。
空海、弘法大師の行動の表れ。日本中に足跡を残す彼です。和歌山県高野山の
金剛峰寺が真言宗の総本山。最澄の天台宗は比叡山の延暦寺。
凡そ宗教ほど激しい自己顕示と排他はありません。うんざり。シッシッシッあっち
へ行って!ですあたくしには。
時代が変わり、5感で感じられない事すら科学の力で解明されてきている現在、
ありがたがって、難しい経文を唱える必要があるとは到底思えないのです。
神秘的だから、ご利益もある?解らないほどに難しいから霊験あらたか?
一神教の怖さは歴史が証明してますね。
あたくしは、他者が他者へ根本の幸せをもたらすことはないって確信しています。
どんなにありがたい教えであろうと、他者に依存している間はそれは借り物でし
かないのです。
自分を他者に預けた幸せなど砂上の楼閣でしかないことを知らなくてはなりません。
けれど人の言う事に耳を傾けない倣岸な人もいます。
なぜ皆自分を嫌うのでしょうか?なぜ自分以外の人になろうとするのでしょうか?
反対に、絶えず批判的な人が自分を愛しているかといえば、これもまた、自分を
嫌っている証。
親であれ、身内他人関係なく、一瞬も離れる事のない存在は自分自身だけなのに。
生を受け、此岸から彼岸へ行くまで、絶えず一緒は己自身。逃げることは不可能
な存在が自分自身だけと気付く、そう、なるべく早く身体で感じなければならな
いのです。それを感じた瞬間に、いとしくなって、嫌っていた、愛し切れなかっ
た自分にわびる滂沱と流れる涙の後から自分以上の存在なんてないって事に
気付くのです。
そこに初めて自分の足で立つ自分を見るのです。そして、自分を導くのは自分
自身だということに気づき、ーーーそうか、私にとって私以上の存在なんてない
んだ!---沸々と湧いてくる自信と開放感に涙するのです。これは
嬉し涙です。自己嫌悪?そんな、自分に失礼なことは2度と思わなくなります。
他者の目を気にしない、他者と比較しない、何も怖くない自分に出会うのです。
こんな嬉しい感覚は生涯に2度とないって思います。
あぁあたくしも意識はしていませんでしたが、多分自分が嫌いだったんだと、今
にして思うのです。それも長~い年月。苦しんで、自分で自分を認められない愛
し切れない、けれど、自分が大切、そんな自分と離れられない苦悶の日々が重く
のしかかっていたのです。つい何年か前まで。
エエ~~ッ!つい最近まで~~?・・・はい。
子どもの頃、あたくしにとって大人って不可解な生き物でした。好きじゃありま
せんでした。胡散臭い生き物でした。単純な質問にも明快な答えをくれません。
正確な答えを子どもは要求なんかしてないのです。ただ、どこかでふ~んそうな
んだって、子どもの心が納得をしたいだけなのに。
そう、ファンタジーでいいのです。いつか知識が増えて、現実に向き合うのですから。
いつも他者との比較の中にその子を置いて話す大人をあたくしは認めていません
でした。大人は子どもがどんなに無垢な心で大人達を見ているか知らなければい
けません。自分より長く生きているからあんな風に偉そうにするんだ、って。
尊敬なんか出来ないのです。尊敬されていないのに、威張りたがる大人がバカに
見えていました。いっつもーーーおとなって何?---。
みんな子どもの頃があったのに、そんな過去のない違う生き物のようでした。
くも膜下手術以後、そう、2年ほど経ったある日の事です。
洗面所で顔を洗ってました。その直後のことです。頭のてっぺんから足の裏を通
って抜けたように感じたものがあたくしを蘇えらせたのです。電流のような、
一瞬の感覚でしたけれど、それはあたくしに
「レイコにとってレイコ以上の存在がいる?」
って聞いたようでした。あたくしがそう感じたのです。瞬間!あたくしは崩折
れたのです、べたっと床に。手は洗面台の淵を握っていました。その衝撃に
立っていられなかったのです。考えた事もありませんでしたから。
その後、あたくしは人の身体の中に子どもの姿を見るようになったのです。
その人の子どもの時代の姿を。全く等身大の人にはお目にかかっていません。
それからあたくしは、自分の心の中に正真正銘の自分がいることに気付いたのです。
そのそれぞれの子どもを成長させなければならないって。
子どもを育てるコツは「5つ褒め3つ叱る」。
実際に褒められて育つのです。他者に批判的な人は褒められるより、叱られて
育った人のようです。
そして、人は自分を愛せないようになってしまうのです。
あたくしの目には怒られて、叱られて、上目遣いに人を見る子どもが見えます。
大体の人の心の中に住む子ども(まだ大人に会ってません)は、泣いているか、
視線の定まらない目を虚ろにしています。苦しそうな顔をしています。
「ああ、私も成長したい!」って、叫んでいるように見えるのです。
多分、心の中のあたくしも、まだ腕の中に腕が、足の位置に足が、頭は頭の中
には入ってないように感じます。ですから、あたくしはあたくしを育てる義務
があると深く思うのです。ニッコリ微笑むあたくしに出会わなければならない
のです。さあて、どうしましょう。丹田を意識して、腹式呼吸をします。
腹が立ったり、落ち込んだり、そんな自分を心の中の自分が励まします。
「大丈夫!大丈夫!あなたは素晴らしい。素晴らしい存在なのよ、だから、
腹を立てたり、落ち込んだりしないのよ。ええ、大丈夫よ!」って。
あたくしは本当のあたくしと出会ったのですから、じっくりと付き合うのです。
これは、全ての人が出会える自分です、出会わなくては自分が可哀想です。
「ごめんなさいね、いっつも無視してて」
此処から始まる自分との遭遇です。素晴らしい感覚です。
いわゆる宗教は必要ないってことに気付くのです。素晴らしい自分がいっつも
一緒なのですから。あぁ こんな言葉がありましたね。
「天は自らを助ける者を助ける」
ええ、そうなのですよ。
さあ、今すぐ自分に向き合って、心の中の自分に気付かなかったことを謝りま
しょう。 そして許すのです、他者がするのではないのです。 この世に最高の
存在(自分にとって)の自分を思いっきり褒めましょう。そしてねぎらいましょ
う、よく生きてきたねって。ええ、本当に頑張ってきたのですから。
自分にとって自分以上の存在なんてないのです。そこに気付いた時、本当の自分が
ニッコリ微笑んで、ググッと大きくなるでしょう。そうなのですよ。
何であれとてつもないエネルギーであることは間違いないわね。
もう2度と、沈み行く、けれどもまだ光り輝くまぶしい太陽を肉眼で見ることは
ないでしょうから、貴重な体験をしたことを胸に収めて。ホント「見てご覧!」
って、そんな感じで引き寄せられたのでした太陽に。
ン?そういえば、室戸岬の洞穴で瞑想していた彼の体内に飛び込んで来た太陽
(のエネルギー)を感じ取ったって逸話があるそれをふっと思い出したわ。
恐れ多くも、ーーーあら同じねーーなどとは露ほども思わないけれど。
人間のスケールの差異は、太陽と月、否、月とすっぽんほどにもならないくらい
ですから。
国費で中国留学した最澄(天台宗)と違って、私費留学生だった空海(真言宗)の
ことです、彼はって親しげに言ったのは。最澄も空海も同じ密教系です。
空海は太陽が体内に入ってきた強烈な感覚があったのでしょう。
たしか大日如来がシンボル(本尊)だったように記憶しています。
この春でしたっけ? 天台宗と真言宗のトップがガッシリ握手してハグしたのは。
ハグまではなかったかしら?ええ、どちらも凄いご高齢でした。
公務員の最澄、民間の空海って。民間の経営者”守るは己”が強いのは言うまで
もありませんね。守ってくれるものがなければ、自身を頼まなければ生きていけ
ません。
そしてその後の2人の歩みが後世の今を見ればわかります。
一つの流行のようになってしまった四国お遍路48箇所(寺)巡りの今日。
空海、弘法大師の行動の表れ。日本中に足跡を残す彼です。和歌山県高野山の
金剛峰寺が真言宗の総本山。最澄の天台宗は比叡山の延暦寺。
凡そ宗教ほど激しい自己顕示と排他はありません。うんざり。シッシッシッあっち
へ行って!ですあたくしには。
時代が変わり、5感で感じられない事すら科学の力で解明されてきている現在、
ありがたがって、難しい経文を唱える必要があるとは到底思えないのです。
神秘的だから、ご利益もある?解らないほどに難しいから霊験あらたか?
一神教の怖さは歴史が証明してますね。
あたくしは、他者が他者へ根本の幸せをもたらすことはないって確信しています。
どんなにありがたい教えであろうと、他者に依存している間はそれは借り物でし
かないのです。
自分を他者に預けた幸せなど砂上の楼閣でしかないことを知らなくてはなりません。
けれど人の言う事に耳を傾けない倣岸な人もいます。
なぜ皆自分を嫌うのでしょうか?なぜ自分以外の人になろうとするのでしょうか?
反対に、絶えず批判的な人が自分を愛しているかといえば、これもまた、自分を
嫌っている証。
親であれ、身内他人関係なく、一瞬も離れる事のない存在は自分自身だけなのに。
生を受け、此岸から彼岸へ行くまで、絶えず一緒は己自身。逃げることは不可能
な存在が自分自身だけと気付く、そう、なるべく早く身体で感じなければならな
いのです。それを感じた瞬間に、いとしくなって、嫌っていた、愛し切れなかっ
た自分にわびる滂沱と流れる涙の後から自分以上の存在なんてないって事に
気付くのです。
そこに初めて自分の足で立つ自分を見るのです。そして、自分を導くのは自分
自身だということに気づき、ーーーそうか、私にとって私以上の存在なんてない
んだ!---沸々と湧いてくる自信と開放感に涙するのです。これは
嬉し涙です。自己嫌悪?そんな、自分に失礼なことは2度と思わなくなります。
他者の目を気にしない、他者と比較しない、何も怖くない自分に出会うのです。
こんな嬉しい感覚は生涯に2度とないって思います。
あぁあたくしも意識はしていませんでしたが、多分自分が嫌いだったんだと、今
にして思うのです。それも長~い年月。苦しんで、自分で自分を認められない愛
し切れない、けれど、自分が大切、そんな自分と離れられない苦悶の日々が重く
のしかかっていたのです。つい何年か前まで。
エエ~~ッ!つい最近まで~~?・・・はい。
子どもの頃、あたくしにとって大人って不可解な生き物でした。好きじゃありま
せんでした。胡散臭い生き物でした。単純な質問にも明快な答えをくれません。
正確な答えを子どもは要求なんかしてないのです。ただ、どこかでふ~んそうな
んだって、子どもの心が納得をしたいだけなのに。
そう、ファンタジーでいいのです。いつか知識が増えて、現実に向き合うのですから。
いつも他者との比較の中にその子を置いて話す大人をあたくしは認めていません
でした。大人は子どもがどんなに無垢な心で大人達を見ているか知らなければい
けません。自分より長く生きているからあんな風に偉そうにするんだ、って。
尊敬なんか出来ないのです。尊敬されていないのに、威張りたがる大人がバカに
見えていました。いっつもーーーおとなって何?---。
みんな子どもの頃があったのに、そんな過去のない違う生き物のようでした。
くも膜下手術以後、そう、2年ほど経ったある日の事です。
洗面所で顔を洗ってました。その直後のことです。頭のてっぺんから足の裏を通
って抜けたように感じたものがあたくしを蘇えらせたのです。電流のような、
一瞬の感覚でしたけれど、それはあたくしに
「レイコにとってレイコ以上の存在がいる?」
って聞いたようでした。あたくしがそう感じたのです。瞬間!あたくしは崩折
れたのです、べたっと床に。手は洗面台の淵を握っていました。その衝撃に
立っていられなかったのです。考えた事もありませんでしたから。
その後、あたくしは人の身体の中に子どもの姿を見るようになったのです。
その人の子どもの時代の姿を。全く等身大の人にはお目にかかっていません。
それからあたくしは、自分の心の中に正真正銘の自分がいることに気付いたのです。
そのそれぞれの子どもを成長させなければならないって。
子どもを育てるコツは「5つ褒め3つ叱る」。
実際に褒められて育つのです。他者に批判的な人は褒められるより、叱られて
育った人のようです。
そして、人は自分を愛せないようになってしまうのです。
あたくしの目には怒られて、叱られて、上目遣いに人を見る子どもが見えます。
大体の人の心の中に住む子ども(まだ大人に会ってません)は、泣いているか、
視線の定まらない目を虚ろにしています。苦しそうな顔をしています。
「ああ、私も成長したい!」って、叫んでいるように見えるのです。
多分、心の中のあたくしも、まだ腕の中に腕が、足の位置に足が、頭は頭の中
には入ってないように感じます。ですから、あたくしはあたくしを育てる義務
があると深く思うのです。ニッコリ微笑むあたくしに出会わなければならない
のです。さあて、どうしましょう。丹田を意識して、腹式呼吸をします。
腹が立ったり、落ち込んだり、そんな自分を心の中の自分が励まします。
「大丈夫!大丈夫!あなたは素晴らしい。素晴らしい存在なのよ、だから、
腹を立てたり、落ち込んだりしないのよ。ええ、大丈夫よ!」って。
あたくしは本当のあたくしと出会ったのですから、じっくりと付き合うのです。
これは、全ての人が出会える自分です、出会わなくては自分が可哀想です。
「ごめんなさいね、いっつも無視してて」
此処から始まる自分との遭遇です。素晴らしい感覚です。
いわゆる宗教は必要ないってことに気付くのです。素晴らしい自分がいっつも
一緒なのですから。あぁ こんな言葉がありましたね。
「天は自らを助ける者を助ける」
ええ、そうなのですよ。
さあ、今すぐ自分に向き合って、心の中の自分に気付かなかったことを謝りま
しょう。 そして許すのです、他者がするのではないのです。 この世に最高の
存在(自分にとって)の自分を思いっきり褒めましょう。そしてねぎらいましょ
う、よく生きてきたねって。ええ、本当に頑張ってきたのですから。
自分にとって自分以上の存在なんてないのです。そこに気付いた時、本当の自分が
ニッコリ微笑んで、ググッと大きくなるでしょう。そうなのですよ。