それ、問題です!

引退した大学教員(広島・森田信義)のつぶやきの記録

アナウンサーの言葉

2019-03-10 09:09:15 | 教育

 テレビから情報を得ることが多い。新聞と違って、音声と映像を伴う野で、情報の内容は分かりやすい。しかし、不適切さも鮮明になる。
 アナウンサーは、ニュース報道に際して、記事原稿を読み上げるのであろうが、しばしば、適切な読み上げのできていない事例に遭遇する。人名、地名は致し方ないとしても、常識的な語句の読みが出来ていないことも少なくない.更に多いのは、文脈の理解が出来ていないアナウンサーによるニュースの読み上げである。文の構成要素として、特に重要な部分とそうでない部分がある。このことに対応できていない例が少なくない.キーワードが聞き取れない時には、こういう原因がある。発音、発生の訓練は、当然、アナウンサーの基本的なスキルとして鍛えられるのであろうが、原稿の内容の理解度、認識レベルの向上のためには、どのような鍛錬がなされているのだろうか。これは、早口言葉や鼻濁音などのような、小手先の訓練では対応できない種類のものであろう。
 新聞の記事も表現力と理解力の低下が原因の不可解なものが多いので、ニュース原稿そのものに問題があるのかもしれない。
 テロップにも間違いが多い。一体、どういう立場の人間が書くのだろう。変換ミスだとしても、チェックすべき人間はいないのであろうか。アナウンサーの責任ではないが、報道という行為の一部であり、母国語の能力の向上が、外国語のそれよりも喫緊の課題であることを実感する。

 今春開校の県内公立学校(中高一貫校)では、国語以外の教科を、すべて英語で行うのだという。植民地、開発途上国の教育の趣がある。わが国の現状は、まさにそのようなものだとも言えるが、さて、どんな日本人が生まれることになるのだろうか。不安の方が先に立つ。


ゴーン氏、籠池氏

2019-03-06 21:29:07 | 教育

 

  ゴーン被告が、勾留108日の後に、10億円の保釈金を支払って、拘置所から釈放された。異例の長期勾留である。
 釈放されるに当たって、拘置所玄関から、作業服に変装したゴーン氏が、スズキの軽ワゴンに乗り込んだ。通常の釈放と違って、集まった報道陣も混乱しているようであった。今回の件は、フランスも株主の会社に関わる国際的な事件で、フランス大使館の職員も出迎えたようだ。
 世界が注目する中での、異例の釈放風景は、日本人にも異様に映ったが、欧米ではどうであったろうか。ゴーン陣営の、世界に対するアピールだろうか。

 なにやら時代劇の再放送のような趣があり、「○○屋、おぬしも悪よのう、」という声が、どこかから聞こえてきそうである。時代錯誤と言えば、本日、同時に、これも300日という長期の勾留をされた籠池夫妻(森友学園)の裁判が始まった。全15回という長期にわたる裁判の第一回であるが、籠池氏は、国策逮捕、国策捜査、国策勾留……と政治的な意図による被害者であることを主張している。報道された夥しい情報から、事件の背景に政治的な働きかけの疑惑があるようだとの疑問が払拭しきれない。これは、いよいよ時代がかってきている。
  これらの異例とも言える事例のありようは、近隣の社会主義大国、独裁主義国でのできごとのようでもあり、かつまた、開発途上国のいくつかではあり得るかもしれないことではあるが、先進国、自由主義国である日本の司法および行政に関しては望ましいこととはいえない。


「一斉」「統一」……、この窮屈なもの

2019-03-05 23:13:19 | 教育

 このほど文部科学省が、全国の高等学校における生徒の携帯電話の持ち込みを許可するという方針を決定したという。教育委員会も、その線で、持ち込み、使用法の検討に入っているようだが、携帯電話の持ち込みの可否まで、国の機関で決定することに違和感がある。そういえば、かつて、学校の給食に、カレーを出す日を決定しかけたこともある。実際はどうなったのか記憶にないが、北海道から沖縄までの全国の学校で、すべての子供がカレーを食べている様子を想像すると、ぞっとする。
 日本民族は、みんなで一緒に何か行動をすることを好むのだろうか。同じ思考様式や行動に走るという点では、中国、北朝鮮、韓国などの方が顕著であるから何とも言えない。では、人類特有のものかというと、そうともいえない。群れを作って生活、生存する動物はいくらも存在するからである。一匹狼などというが、オオカミも基本的には群れをなしている。
 無論、人間も、完全に一人では生きていけない。鴨長明も兼好法師も、他人と完全に遮断されては生き得なかっただろうし、随想も残せなかったに違いない。実際、かれらの随想の内容は、かなり他者や世俗に関心があったことを示している。
 民族性、国民性の特徴や、人類特有の性格でもないとするなら、人々や国によって、全体行動に走るのが好みであったり、そういう機会には積極的に参加したり、逆に、そうした人々や機会に距離を持ったりする人が共存しているということなのであろう。ただ、社会主義国や独裁国家は、国家経営の手法として個性や個人的権利や個性よりも国家、政府、為政者による思想、行動の統制を行っていることは否定できない。前記の文科省の行為にも、このような気配が感じられてならない。社会主義国家、独裁国家の国民として生まれなくてよかったと、しみじみ思うから、文科省の事例に違和感を覚えるのである。
  ところで、自由主義国家に生きる私たちが、個々のアイデンティティを放り出して、規模の大きな団体、一斉行動に走るのははぜであろうか。近年の若者は、個々の権利や嗜好を大事にして、ばらばらな存在になっているかに見えるが、実際には、歌手、タレントのコンサートに数え切れないほどの人間が集結して、キャンドルライトを振り回しているし、わが地元では、プロ野球の試合の入場券を求めて、数万人が集結し、暴動寸前の状態になったし、ある歌手は、7,000人のファンが集まったのに、人数が少ないといって、土壇場でコンサートを中止するという行動に出たというような事例を勘案するなら、この国の現在にも、大勢が集結して、同じ行動をとる人達が存在することは分かる。しかし、彼らは、自由意思で動いていることが、私にとっては、わずかな救いである。だが、先日、国内のある町(村?)で、村八分事件が怒り、話題になった。一人の住民を自治会からはじき出し、生活に支障を来す状況になったという。新米の村民が、既存の村の決まり事に異議を唱えたのが発端であるという。こういうことは、日本人特有のこととは思いたくないが、閉鎖的な社会にはありがちなことで、特に、最近流行している移住先の一部の農村や、古い体質の自治会などでは起こりがちなことである。農村の事例は、私自身、身をもって体験している。テレビで、移住受け入れ先の人が、わが村では、移住してきた人も含めて、村中総出の行事がたくさんあると誇らしげに語っていたが、私にとっては、少しも魅力とは思えなかった。自然が美しい、水や空気がきれいというのは、その通りであるが、そこには人や人の集団が存在し、それぞれの流儀で生きてきているということを、よくよく認識した上で移住という、おそらく人生の後半を生きる場の選択に望んで欲しいと願うばかりである。作家の曾野綾子が、都会に住むメリットとして、近隣との付き合いの希薄なことをあげていた。あれだけ精力的に、他者と交わる活動をしている人にして、そう言わしめるものがあったのであろう。
 自分の意思で、自分らしく生きる可能性の多い国に生きる者としては、自分の尊厳を大事にし、同じように他者の存在を尊重するような人間関係、集団を築いていきたいと思うし、最低限、そのようなことの出来る環境を選ぶ努力をしたい。


アポ電(アポイントメント電話)

2019-03-02 21:45:41 | 教育

 また、異様な短縮語だが、「アポイントメント電話」のことだという。直訳すれば「予約電話」であるが、事前に、自宅に現金がいくらあるのかを電話で確認する行為であり、現金があることを確認すると、それを入手するための詐欺的行為を働いたり、強奪をするという手荒で許しがたい手口の犯行に至る。
 ここで、驚くのは、どのような手練手管を弄するのか細部は不明であるが、電話で現金の有無を尋ねられて、正直に答えさせる説得力である。また、問いかけに素直に応じる人達が存在するという事実である。説得力は、詐欺や強盗に使用するのでなく、他の分野や目的に活かせば、すばらしい能力になるだろう。もしも、マニュアルでもアルのなら、是非とも読んで、その手口を分析してみたいものである。
 被害者の素直すぎる態度にも驚嘆するが、人を信用することを責める訳にはいかない。しかし、メディア・リテラシーの初歩として、情報は、疑ってかかる、しかる後に受容の可否を決めるという程度の「人の悪さ」があってよいのではなかろうか。