遠方の海や山に毎週のように何百キロと走り回ってると、その遊び以外の行き帰りの行程でも予期できないトラブルはいろいろと起きている。
いちいち他人には言わないだけで、山馬鹿・海馬鹿という連中は、そういうアクシデントをいつも笑い話に変換してしまい、すぐに対応して乗り切ってしまう。
後悔しない人間は、その刹那刹那をいつも自己責任、自分の知恵と造像力と器用さをフル回転、乗り切ってしまう。
そういう者同士の日常の会話は、深く意味のあるヒソヒソ笑い話になる。
起きてしまったことは対応するだけ、起きてしまったことを悔やむことなど無い。
反省や後悔は、その後の生き方を委縮させるだけのことで、乗り越えたらまた出掛けて行くんだ。
車という機械で何十万キロも走ってると、人間と同じようにアチコチにガタを抱えてる訳だから、故障したり壊れたりは当然に起こる。
その都度に最善の対応を考えて、無事に戻ることを最優先することになる。
生きて行くということは、この必ず起こるアクシデントを愉しむことでもある。
行動しない、都会でチマチマ暮らしてるだけの大人には、こういうアクシデントすら経験がない。
人のいない、民家もない、そんな山や海の中で立ち往生してしまったら、パニックになってしまう大人が多いのは、そういう人間としての当たり前の対応力がまるでないからだ。
携帯が繋がらないとパニックになる。
電気が無いとパニックになる。
エエ歳こいて、情けの無い大人は多い。
俺は大手術の挙句に永久オストメイトとなった。
クヨクヨ考えることなどなく、手術の翌日から歩行を始めた。
この身体で愉しんで生きて行くことだけを考えて余念なく、最短で退院までこぎつけた。
それから3年半、いまでは普通に山に登り、海で遠泳して暮らしてる。
若い頃、酔って暴れてショーウインドーを素手で殴り割ってしまったことがある。
右手はガラスの破片まみれ。
手首に突き刺さった破片は5本の指の腱に達し、3カ月間右手は動かず、最悪はダメかも知れないと言われたときは、すぐに左手と口にペンをくわえて字を書く練習に余念がなかった。
クヨクヨ考えない。
すぐにニヤッと笑って・・・ではどうするか? ・・・で生きて来た。
そういう生き様をずっと続けてると、そばにいる子供や女どもはみなそういう生き方を身に付ける。
な~んだ、そういうことか、ナニが起きても慌てず騒がず、愉しくこなしてゆくことが、生きることか・・・と。
カタログ・パンフレット生活。
旅行やお出掛けはナニかを見て探し、そこにあるアドバイスに従って金を出し予約する。
自分のそん時の興味や欲情で動くわけでもなく、カラカラのオツムにはナニも浮かんで来ないような寂しい日々では、生きて居るとは言えんだろう。
なにからなにまで猿真似ゴッコ。
ゼニカネ使って余暇なんだとさ。
こういう大人の傍で育つ子供は可哀相だ。