山の天気図を眺めてると、なんだか眺望の良さ気な山が浮かんで来なかった。
泳ぐ夏は、南房総のあちこちは毎週のように出掛けておるけんども、今年一番の冷え込み・・・行ってみるか・・・。
・・・ということで、昼前に南房総にある古刹、初代波の伊八の彫刻がいまでも現存するというお寺に電話をして、ご住職に拝観を頼んだところ、今日は法事が二つありますれば、午後3時くらいならご案内できますかな・・・とのことで、のこのこ出掛けて行って来た。
このお寺は、この地を治めていた三枝家の菩提寺であって、三枝守昌・その次男諏訪頼増(益)の墓もある。
初代伊八の彫刻とともに、武田家滅亡のとき、ともに果てたと言われている武田勝頼の嫡子武田信勝の位牌もあり、寺の開基も武田信勝だということになっている。
謎だらけと言っても良い。
途中時間があったので、大井戸諏訪神社、上諏訪神社、下諏訪神社に立ちより、苔むした力自慢の力石まで放置されたまんまの諏訪の社にしばし黙考、時の流れを感じたもんだった。
ここ南房総は里見家が滅んだあと、いろいろあって三枝家が藩主となり、江戸時代には1万石の大名となってる。
三枝家とは、武田信玄の足軽大将だった三枝虎吉の辺りからだろう。
虎吉が武田家家臣だった頃は、山形昌景を寄親としており、嫡子の昌貞は婿となり山形姓を名乗って武田信玄の近習を勤めておったが、長篠の戦いで戦死している。
その後の織田信長の甲斐武田攻めにも生き残り、新しい領主となった徳川家康に仕えている。
徳川家康初期の4奉行に名を連ねるほどの重用だった。
その虎吉の嫡子昌貞の戦死後、次男の昌吉が三枝家名代となり・・・1638年頃、三枝昌吉の嫡男守昌が南房総の地を収める大名となったが、すぐに没し、そのまた嫡男の三枝守全と次男の諏訪頼増(益)に引き継がれている。
1万石を三枝守全7000石、諏訪頼増(益)3000石と分けたために、旗本になっている。
何故? その意は? すでに語られている歴史を聞くと、いつも 何故?ナゼ?なぜ? になってくる。
天目山で勝頼が自害し、その子信勝も没したという歴史に依れば、半世紀の時を経ている。
ここで、もうひとつのなぜ? なぜ? 三枝守昌の次男が諏訪を名乗るようになったのか・・・。
南房総に諏訪神社があちこちにある、諏訪と言えば武田家だ。
武田勝頼の母は諏訪御前とも呼ばれた人だった。
父を殺した信玄の側室となった人だ。
こういう話は、その真実は解らないし、現代の道徳や倫理観で単純に感傷的に理解する話でもない。
・・・女・子供は黙っておれ! という話だろう。
そうして父信玄に厳しくされておった勝頼は母方の諏訪を名乗っていたこともある。
諏訪頼増(益)、この人こそ、父勝頼の名から一文字とって変名した武田信勝か・・・とも想える。
そうしてこれから訪れるお寺は開基が武田信勝だと言われており、その信勝の舎弟でもあった英丸が出家して和尚となり、開山したということになっている。
くどいが、武田信勝とは、天目山で父勝頼とともに自害し果てたという話になっている。
このお寺の開基の時期が、武田信勝の生年や天目山で自害したという時期とは少しずれているが、当時の記録や生年月日なんてもんは、適当なものだ。
それよりも今でもその武田信勝の位牌もあるという寺のご住職と直接に話す方がオモシロイ、そういう想いだった。
と同時に、西洋にまでその影響を及ぼした天才彫刻家の初代波の伊八の彫刻を見たかった。
ゴッホ、モネ、ピカソ・・・みな伊八の影響を受けている。
葛飾北斎なんて、そのまんま写生盗作してるようなものだ。
諏訪神社のあとに、鹿野山にも登り、初期の東山魁夷が徒歩で登って絵を描いたという九十九谷を見下ろして、ついでに神野寺にも寄って、奥の院で天狗の大下駄を履き・・・到着は30分ほど遅れてしまった。
俺の山行はいつもこんな感じで、どんどん寄り道が増えて内容が濃くなってゆく・・・。
里山に小綺麗な百合の花が一輪咲いている、そんな風情の、日当たりの良い、飾り気のないお寺だった。
ちょうどご住職が寺の庭を手入れされておるところで、観光寺ではなくって日々のお勤めをキチンとされておるという感じの里寺で、正面からどうぞお入り下さいと言われ、お邪魔した。
ご本尊の前の欄間に、初代伊八のそれはあった。
見事な波と龍、現物に勝るものはない。
その後にご住職が現れて、いろんなお話をしたけんども、武田信勝の話になり、その位牌があると聞いたと申し上げたら、ふっふと含み笑い、禅の僧侶だけに黙ってご案内していただいた。
薄暗い空間に、たくさんの時を経た位牌が並んでいた。
三枝の位牌と、諏訪の位牌・・・その隣に真っ黒になった大きな位牌があり、これです と。
・・・むかしはもっと派手で飾り物も豪勢なモノが付いていたんですがな、憚りあってみなとってしまって、簡素なものになってますよ・・・
・・・憚りあって・・・
含み笑いが返ってきた。
ニセモノであれば、これみよがしに飾り立てて吹聴するのが人間だろう。
・・・お位牌じたい、ただの板切れだと言えばそれだけのことでしょうし、あちこちにあって不思議はないでしょうし、墓とて、記念碑のようなものであちこちにあって当たり前と言えば当たり前・・・
どんどん惹き込まれて行く話術も、まさに禅問答。
あくまでも質素に、目立たぬように・・・これはホンモノだ・・・俺は勝手に解釈した。
山行も続くけんども、この話はもっと続くんだろうと想った。
・・・四国は土佐の高知に、勝頼の墓があるという話もあるようですが・・・
相変わらず温和な笑顔のご住職は・・・和歌山に、というお話もありますよ・・・と。
・・・ほ~ほ~ほ~、和歌山といえば高野山、奥の院・・・
笑って話題を変え、すると・・・せっかくですから、鴨川の大山不動尊に行かれると良い!・・・と。
・・・わたしも若き頃の修業時代から知ってますが、あそこにある伊八の彫刻は一番じゃ~ないかな
日は傾いてきてたけんども、お礼を言って財布にあったお札をぜんぶお布施ということで置かせていただき、キレイさっぱり有無の無となり、とは言ってもたいした額でもなかったが、すぐに車に飛び乗ったもんだった。
30分も山道を走り、誰もいない閑散とした古刹に着いた。
成田山新勝寺、相模の大山と並ぶ関東三代不動尊と聞いてはいたが、無人で閑散としておった。
檀家をとらない修験者の寺は、修復にかかる費用で揉める。
檀家がおっても揉める、時代の移り変わりだろう。
本堂の正面にそれはあり、本堂をぐるりと一周、波の彫刻があった。
ただ、俺にはさきほどのご住職が毎日お勤めをされておる本堂の真上の欄間にあった伊八の波と龍のほうが、見事に想えてしまってた。
あの雰囲気、もしかしたら、あの寺で勝頼も信勝も亡くなってるんじゃ~ないか?
そんなことも、まんざら突拍子もない考えでもないくらいに、清々しい気分だった。
この時期の陽が落ちるのは早い。
つるべ落としとはよく言ったもので、ドスンと落ちる。
山でも4時を過ぎて来るとヘッドライトを準備してるくらいにアッと言う間だ。
大山不動尊の裏山には、チョイと有名な棚田の大山千枚田があり、ちょうどライトアップをしてるところだった。
・・・日本の田舎に行けばどこにでもある段々畑やんけ!
・・・そんな元も子もなくなるようなこと言わないでよ、ここは雨の水だけで耕してるんだよ
・・・ふ~ん、そんなことより、美女たちに囲まれて甘酒でももらって、ビジョビジョに口説いてみるかな?
閑散とした里山、少ない観光客に暇そうにしてた地元のオバちゃんやお婆ちゃんたちと笑い合いながら色んな話をし、冷えきった身体には温かい甘酒が美味かった。
陽に焼けた顔や手をしている農家のお婆さんは、歳を聞くとなんと同い年だったり、よくよく解らない笑い話は多い。
そうしてまたまた、夜も眠れなくなりそうだ・・・。