同棲してる彼が浮気をしてる・・・そういう娘のセリフに・・・お前のようなメンドクサイ女は、もしも俺が彼だったら、もっととっくに早く別れておるがな・・・即座に言い放ってやったもんだが、オスとメス、その生態を理解もせんで、良いだの悪いだの、洗脳された先入観で片付けようとしてるようじゃ~、孤独の老後でも送って行けや。
安易に答えを求める生き方は、ゼニカネ・モノを求める日常になり、浅薄な欲求の虜となってその輪廻を回り続ける。
あちこちにおる子供らとの接し方は、そんな感じだ。
その後、また彼とヨリを戻して、元気に暮らし始めてる。
我が子でも、ヘナチョコであれば怒鳴り倒す、弱い我が子には、俺は興味がない。
ただ、どの子も小さい時分には、他人とは違う俺自身が、徹底的に口移しでいろんなモノを伝授してあるから、すぐに立ち上がって戻って行く。
そうさ、俺は今週に登る山のことを考えておる。
俺も忙しいんだから、お前らも振り向かずにどんどん生きて行けや。
少子化の時代だから、親も爺婆もま~、驚くほどに過保護。
たったひとりの子供に皆でかかり切りになって、大事に大事に大騒ぎして育児ゴッコに余念がない。
そんな子供らが思春期になって自我に目覚めてくると、親や爺婆の薄気味悪い笑顔ばかりに囲まれて、肝心かなめの・・・どう? 生きれば良い?・・・という見本になる大人がいないことに愕然とする。
親も爺婆も、少ない子孫を守ることに必死で、それだけが生き甲斐とでもいうような、哀れな惨状になっている。
で? 生きるって? なに? なにが楽しくて生きるの?
みんなとおなじように暮らしておれば良いのよ!! では、解決などせんだろう。
俺はあちこちに我が子を自分の手で育ててきたから、一人前になったらまた俺の愉しみに没頭している。
壁にぶち当たったり、行き詰まったり、疑問や煩悶を抱えた時、そんなオヤジの元にやってきては、俺と一緒に大笑いしながらガキの頃に戻って、山に登って海で遊ぶ、そうしてまたそれぞれが自分らの日常に戻って行く。
そういう大人がどんどん減っていってる。
街中で、みなとおなじように安全・長生きだけを競って暮らしてる。
こんな国に、子供や若者たちの楽しい未来なんて、ある訳がない。
大人とは、先に生きて笑って見せてやる存在だが、知識やゼニカネで誤魔化してるド阿呆ばかり、終わってるよ。
教育を考える前に、大人自身が、テメ~の日常を反省すべきじゃ~ないのか?
もう一度言ってやろうか? 聞いてみたいもんだ。
・・・ナニが楽しくて、あんたは生きておるの?
子や孫が楽しみ? そんだけ? それでは子や孫が、あんまりにも可哀相だろう。
ナニも無い親や爺婆に、ジッと見つめられて生きていかんとならん。
俺だったら、とっととそんな家は捨てて出て行っておったな。
富士山登山禁止、俺なんかは相当に前から富士山は遠くの山の頂から眺める山だと想っているから、野口健みたいに常に視線を浴びてゴミ拾いを偽善者よろしくやってるよりも、登山禁止にした方が良いと想っておる。
高けりゃ~いい、速けりゃ~いい、大きければいい・・・これはバブル期に登場する人間の流行り病みたいなもんで、バブルが弾ければ閑古鳥、そんなレベルの話だ。
富士山、御岳山、浅間山、この辺は俺は登らずに眺める山になっておる。
そろそろ、メディアに染められてるだけの幼稚な百名山ゴッコも、終わりにせいや。
コロナとおなじで、名山は一桁も二桁も多いだろう。
ナニも考えてない人たちの平々凡々とした日々の生活の中に、突如として登場して、その生活や人生までをも一新させるような仕掛けを始めるのが、周旋屋という生業だ。
小学校だけでも6回の転校を経験しておったガキの頃、新しい学校に行くとまず、そのクラスや学校で除け者・嫌われ者を見つけては仲良くなり、その彼や彼女をともなって、他の連中のなかに飛び込んで行き、気が付けばみんなで笑っていた、そんなことが楽しかったもんだった。
どのみち俺はよそ者で、じきにまた転校すると知っていたからこそ、思い切ったことが出来ていたとも言える。
そのまんまおなじような生き方をずっと続けているようでもある。
傷つけた、傷つけられたという傷が、俺にはとても楽しい、生きてる証のような標にしか思えてなくて、もっともっとと傷のつけ合いを求めて生きているようでもある。
さ、今日もやるべ。