起きたのが6時半ごろ、このところの、コロナのせいでもないのに、なんでもかんでもコロナのせいにする顧客らとの折衝に疲れておって、ゆっくりと山用の車を満タンにして、おにぎりかじりながら出発した。
5時間弱くらいは寝ておったから、登山口までの難儀な林道を入れても片道4時間は行けるだろうと読み、コロナ自粛の続くスイスイ中央高速を走っておった。
往復の運転8時間、そこから山に入って二つ三つの頂を目指す。
2000mオーバーの、いつもの人のいない山にしたかった。
気温があがっておって、雲が多かった。
とりあえず長野は松本ICまでのんびり走りながら、山々を眺めておって、結局は笹原の道が続く山にした。
対向車が来るとどっちかがバックして退避しなければいけない未舗装路のグネグネ山道は、どういう訳かは知らないが、何処の山でもそんなメンドウなすれ違いが起きなくなってる。
いよいよ俺が神になってきたせいか・・・笑うしかない。
都会のコロナ自粛解除を目前にした間抜けな騒動などドコ吹く風の、いつもの冬から春へとむかう山々、新緑もこれからだろう景色に、吸い込む空気の量も自然と増えていってた。
松本・安曇野の向こうのアルプスは雲の中だった。
日差しは強くなっておって、4時ころ降りて来ると首筋や顔がヒリヒリ痛くなっておった。
2000mでも、10度くらいあったろう。
中央道で来たから、帰りは関越で帰ろうと思い、川越街道のR254に松本の山中で合流して、鹿教湯温泉を抜け、上田まで降りる道を辿ったが、去年の大雨洪水被害にあった上田の千曲川川底では、まだ整備工事をやっていた。
浅間山から続く山塊が夕日に染まってるのを見ながら走っているうちに、来週はあそこらに登るか・・・そんな想いがよぎってきた。
休日は、山や海で遊び惚けている人生が半世紀も続いているが、平日よりも疲れることをやっているようでもあり、よく感心されることは多いが、俺みたいにアチコチに家を持ち、子供らを育てあげてきてると、その生き様は言葉では表現できないし、モノでも表せない。
生きてる価値観がぜんぜん違っていると、言葉は意味をなさない。
知りたければ、黙ってついて来い! しかない。
言葉とは、すなわち体制や大衆の価値の共有に使われるもので、洗脳された共通の意味付けがされているものだから、それを使って俺の61年を語ることなど不可能なわけだ。
休日に街中でノホホンと楽をして、休息を楽しむ、それは俺には出来ない相談となる。
まず育てあげた子供らにそんな姿は見せられない。
自分で好きに自由自在に、生きるということは、これだけのモノも背負っていかなければいけないという現実を見せてやらなきゃ~理解はできないだろう。
休息は死んでからで、良い。
身体障害者となってからも、それは変わらない。
生きてるうちは自分の好きなように生きてやるが、子供らにはその意味と責任も見せてやりたい。
こういう時代に、こういう国家で、こういう多くの国民の中で、それだけのモノを背負って、それでも笑い飛ばして生きるには、能力や経験だけでなく、体力や精力も人の何倍も身につけておかなければダメだし、老いてゆけばその分、自己管理も必要になるし、鍛えておかなければ尋常でない仕事もこなせない。
人生四面楚歌、身内も理解しないものとは疎遠にすることも厭わず、ただこれからの人類はかく生きるべしという、強い思いだけで未知の世界を歩いている。
死ぬまでそれで生きるつもりだから、どの子供らも、俺を追い越すことなど無理な話だな。
魂で語るとは、上手い言い草だと想うよ。
それしかない世の中社会に成り果てている。
我が子でも、大衆の中に埋もれて行くものは、それで良いと想ってる。
種を繋いで、次の可能性に繋いでくれればエエんのんさ。
俺は俺の道を行く。
それで終わりにする、もうそんな場所まで独りで歩いて来てる。
戻ってシャワーを浴びて、バイクに乗り換えて銀座の店に出た。
深夜の銀座は静かなもんだ。
すぐにややこしい仕事の書類作りから始めて居った。
だいたい、俺の週末はこんな日帰り遊びで過ごしてる。
仕事も、コロナには無縁の忙しさ。