人が生きるということ、思考や知識ばかりに頼って、その身体を常に鍛え上げることを止めてしまえば、あの世や霊魂を怖れるようになり、感情や神経が歪んで肥大化し、その守りだけで生涯を終えるようになる。
逆に筋肉や身体ばかりを鍛えていると、これもまた同じ結末になっているのは、笑える景色ではある。
今年は先祖10何代の墓を仕舞い、軽快な痕にして身近に移し、2代に渡って住んでいた家を片付け、売却も終え、老いた両親の認知症も解消し、これからの生活設計へと歩を進めた。
俺の世代がやらなければいけない過去の整理と未来の構築、これをどんどん進めて、この1年で一気に終える。
昨日は4時に起き、バイクで銀座の店に出て、始発の新幹線で広島まで日帰りして来た。
朝陽に輝く富士山をガラガラの車内から眺めながらサンドイッチをムシャるムシャ喰い、昼前に降り立った広島の街は真夏のような入道雲で、まだまだ夏を感じるものだった。
情報を操作されて操られている田舎の時は、止まったまんまだ。
銀行の中で銀座や東京の話をして皆さんに聞かせてやっても、理解できないような止まったまんまだ。
こりゃ~ダメだ、そんな空を相手の会話のようだった。
生とはナニか? 死とはナニか? 生きるとはナニか? ナニが楽しくて生きるのか? 思春期から世の中社会に逆らってまでして生きながら考えて来たことの、集大成に入っている。
俺自身は大笑いして、愉快なことばかりになっている。
自分自身の、達成感は半端ないが、それを知り、感じる者はおらんだろう。
ただの女好きが、居た、それだけの話だ。
ただの銀座の商売人が、儲かっていた、それだけの話で良い。
自分の愉しみや満足とは、関わった人たちの心底溢れる笑顔のことを言う。
自己救済など、最初からナニも無いし、念頭にも無い。
こういう生き方を続けるには、常に相当な原資と体力がいるから、30年、銀座で商売を続けて、山に登ってる。
国家や組織や群れとは最低限の関わり合いにし、メンドクサイ付き合いはいっさいしない。
過去の遺物やモノは整理し、常に身軽に飛び回れる身体で居る。
ナニを聞かれても、即答、即断、どんなアクシデントにも笑って即座に対処し、人間の世界では孤立を選ぶ。
あとは、高い山の頂きで、静かに独り咲く雌花を、しっとり濡らし続けることくらいかな。