予防医学だとか、予防接種というものは、ひじょうに大雑把なモノで、人体の健全な機能や免疫まで殺してしまうという意味では、いかがなものかと首を傾げてしまう。
ちょうどそんな予防医学が流行り始めてから、免疫異常や癌や難病というものが同時に登場してる。
その関連については、だ~れも口を閉ざして語らないけんども、それもどうかと思うぜ。
無関係であるはずがない。
登山靴の履き方には、登りに緩く、下りにキツク、というのがある。
つま先を傷めないようにする意味があるけんども、キツク締めすぎて足首の自由を奪われて、滑落してしまった登山者もおるくらいで、なにごともほどほどが良いわけだ。
鵜呑みにする、湯のみで飲む、じかに自分で味わうことが一番だよ。
エナガという鳥はときどき1500m以上の山の森で見掛けることがあるが、シマエナガという北海道でしか見られない真っ白な種は、いま人気なんだそうな。
人間の欲望の対象となると、獣には不幸なことが起こる、黙って独り独りが眺めておれば良いではないか。
共有するという、感動を共有するという、ならば日常生活でも旦那や女房や恋人を共有してるのか? 独占してないのか? 人間の価値観なんてその時の風情でしかなくって、人類の在り方にはとどかない。
現代社会で言えば、家や家庭はその愚かな生き様の最たるもんだろう? おかしな獣は、人類のほうだろう。
互いに遠慮などせずに自由に生きて、それで共にいることに意味があれば夫婦であって、そうでなければとっとと別を探した方がエエんやないけ?
陰でコソコソばかり、遠慮して気を使って神経すり減らし・・・って、阿呆やね?
その時々の機微としてつく嘘には意味があるが、スケベ根性だけの嘘には意味などない。
いろんな自分の子供たちを見て居って想うことがある。
普通の親ならば、子が巣立っていったまんまの生活をそこで送っており、子は親のことを巣そのもののように想うんだろうが、俺はまだまだ色んなことをやっておって、離れて暮らす子らとの距離は拡がっているということ。
子らが成長するスピードよりも、俺の変わるスピードの方が速いんじゃ~ないかとすら想う。
たまに会うと、想うこと、会話が成り立たない。
まだそんな次元にいるのか? そんな会話をさせられる俺は疲れるだけだな~、そういうこと。
感情や思考の位置が、思考脆弱・経験不足過ぎる。
すでに止まってしまってるのか? とさえ想うことがある。
人間の社会の不思議さは、遺伝と言う、本来ならば親が生きた生の終わりから、次の子が生きる、そういう経験値がナニも遺伝されないことだ。
繰り返すか、下がるか、突拍子もない生を送るか、そこに獣としての進歩や進化は、まるでない。
これは自分自身を眺めて見ても、言えることだ。
滞留している。
結局、親であっても、上も下もロクでもね~、俺がここに生きてる、それだけのことさ。
さ、今朝はこれから裁判所に原告と一緒に出掛けて来る。
原告も被告も、みな身勝手な連中だと想いながら、空を眺めてると良い塩梅だ。
草津の奥の紅葉の山に登って、草津の湯に浸かって来たいと、ふと想った朝だ。