札幌移転を機に、患者が自宅で自分らしく生活できる仕組みを作ることを夢見る石川さん
昨年6月、石川さんの所属する「国立病院機構八雲病院」は札幌市の「国立病院機構北海道医療センター」に機能を移転する計画を発表した。専門的に診ている筋ジストロフィーや重症心身障害を持つ患者は、治療やケアの向上で長生きできるようになったが故に、加齢に伴い生活習慣病などの合併症も抱えるようになった。医療過疎地である八雲町では、対応できる診療科や医師の確保が難しい。また、遠くからの通院患者も多いが、交通の不便さが高齢化する患者や家族の負担になっていた。
「今、常勤医は院長と私だけなのですが、やはり医師を初めとする医療スタッフの確保が田舎では大変だし、うちのノウハウをよその病院に広めたいと思っても、現場で共同作業をしながら研修をしないと難しい。札幌ならば短期でも研修に通ってもらいやすくなるし、それを自分の病院に持ち帰って、患者さんが全国どこにいても対応してもらえるようになったらいいなと思います。希少疾患の神経筋難病だと、私たちが携わった100人以上の亡くなった患者さんのことも含めて、これまでの経験で培ってきたノウハウをゼロから積み上げるのは難しいので、それを効率的に伝えて広げることも札幌で取り組みたいことの一つです」
患者や家族も、移転を歓迎する人が多い。
「全国に通院患者さんがいるので、札幌ならもっとこまめに行き来できる人が増えるといいなと思います。これまでは、交通の不便さを考えて、『うんと困らないようだったら、1年に1回でいいよ』と伝えていたのですが、そうすると、次の受診予定の前に呼吸が大変になってきても、ぎりぎりまで我慢してしまうこともあるようです。進行性の病気なので、もう少しこまめに来られれば、患者さんも苦しい時間が減るし、こちらも提供する技術がたやすくて済む。学年が進めば子どもたちが必要とする課題も変わりますし、20歳を過ぎれば誰でも肺活量や筋肉は落ちていきますが、病気の進行に加齢が重なるとまた身体の状況は変わってきます。成長期やデュシェンヌ型、福山型先天性筋ジストロフィー、脊髄性筋萎縮症中間型、先天性ミオパチーは、少なくとも年1回は来てほしい。道外からも来やすい札幌であれば、それが今よりは簡便にできるかもしれません」
ただ、移転後の具体的な計画はまだ公表されておらず、昨年11月、大阪から八雲病院に通っている患者5人を発起人として、「八雲病院のチーム医療を守る会」が発足した。全国二十数人の患者と家族が活動に参加している。代表で筋ジストロフィーと生きる伊藤雅博さんは、「私も重症肺炎を繰り返すようになった時に八雲病院のチーム医療に出会っていなければ、今のように元気に活動することはなかったでしょう。神経筋難病の医学研究は基礎研究に偏っているところがあり、現実に呼吸や心臓や栄養、リハビリの問題などで苦しんでいる患者への治療研究はまだまだ手つかずのままになっています。患者だけでなく医師にもあまり認識されておらず、不適切なケアによって若くして亡くなったり活動を維持できなくなる患者もおり大変残念です。患者さんに寄り添い、一人の人間として支えていく私たちにとってかけがえのない八雲病院の医療がこれからも守られることを願い、当事者が立ち上がって署名運動や国への要望活動を始めています。世界最高水準の生存率改善と生活の質の向上に寄与している八雲病院の機能が、移転後もさらに拡充され、世界に誇るモデル医療拠点として、患者の最適な療養環境となることを望んでいます」と訴える。
赴任したばかりの頃、札幌の家族から遠く離れて八雲病院で暮らしていた筋ジストロフィーの少年から、「僕はなんでここにいなくちゃならないの?」と、重い問いを投げかけられたことには既に触れた。この問いに対する答えはその後見つかったのだろうか?
「もうその子は亡くなったわけですが、私は時々、その子に心の中で謝るんです。『私はいまだにあなたへの答えを持っていないよ。本当に情けないよね。ごめんね』って。当時は医療と教育を一緒に受けるにはここに来るしかなかったのですが、都会ならまだしも、北海道の隅っこでこんな小さな町だと医療スタッフもそろいにくいし、医療の充実度も限界がある。自宅から遠く離れてなかなか帰れず、面会にもあまり来られない家族に代わって血の通ったケアがどれだけできていたか、突き詰めるときりがありません。お母さんが亡くなって、自宅から400キロ・メートル離れたここに来た7歳の男の子は、『僕は仏壇にお参りさえできないじゃないか』と訴えてきて、私は『本当にごめんね』しか言えなかった。その子のお姉さんが『私がお母さんの代わりに面倒をみるから、一緒に弟を連れて帰ろう』と泣きながら頼むのを、お父さんも涙を流しながらなだめていました。命を守るためにと言われてここに来ていたのに、家族や自分の家から離れてまで来るべき場所にできていたのかと思うと、いまだに謝るしかないのです」
しかし、そうした胸の痛みを持ち続けてきたからこそ、札幌に移転したら、患者が自宅で暮らしながら専門的な医療やケアが受けられる仕組みを作る夢を持っている。実際、京都から年に1回通院している筋ジストロフィーの大学生の兄弟は、24時間の介護サービスを受けながら親元から離れて一人暮らしをしている。京都大学に合格し、入学前に八雲でNPPVの調整と 咳せき 介助の訓練を受け、長時間の授業を受けても楽な車いすを作る準備を整えながら一人暮らしをしている脊髄性筋萎縮症の女性もいる。
「若い世代では徐々に在宅の暮らしが広がっているのですが、札幌でもこの子たちのような患者が、病気の知識も技術もあるスタッフの血の通ったケアを受けながら、自宅で暮らせるようなケアシステムを作りたい。ご両親が世話していたとしても、法事や旅行で家を空けたい時もあるでしょうから、その時は一時的に入院して、在宅と病院の垣根なく自由に行き来ができるようになれば、自宅で暮らし続けることができると思うのです。札幌だったら、医療やケアのスタッフも集めやすいし、彼らを育てるための研修にも通ってもらいやすくなるでしょうから、在宅医療のネットワークを作りたいと考えています」
また、札幌に移転したら、筋ジストロフィーや重度心身障害者の医療拠点というだけではなく、八雲のチーム医療を生かして、医療的なケアが必要な子どもたちの教育支援の拠点にもできればと石川さんは願っている。
「今は発達障害を持つお子さんも増えているので、何かあった時にちゃんと診られて、普段の生活について親や学校の先生の相談に気軽に乗れるような拠点にもなれればと思いますね。地域の学校に通っている子も、授業でちょっと困ったことがあったらここで解決したり、快適に過ごすための生活用具を工夫したりできたらいい。先生にもノウハウをお伝えして、持ち帰ってもらうような研修や行き来ができるといいですよね」と夢は膨らむ。
さらに、現在でも、八雲の医療やケアのノウハウは、ほかの地域にも広がり始めている。旧国立療養所ではない病院では初めて、9年前に筋ジストロフィー病棟を作った長野県の「鹿教湯三才山リハビリテーションセンター三才山病院」は、事前に医療スタッフが近隣の専門病院で研修し、その後、八雲病院と呼吸リハビリを中心とした交流研修を重ねるようになった。
「向こうが来るだけではなくて、こちらからも4、5日行っては患者さんの治療やケアについて相談に乗ったり、医師、看護師や理学療法士、作業療法士らと交流したりしています。NPPVや咳介助の機械をうまく使いこなすノウハウを研修直後から身に付けて、実践されているようです。元々、長野県出身の患者さんが県外病院の筋ジス病棟から長野県に戻りたいという要望を受けて、『筋ジス病棟をこの地域にも作りたい。長野の患者が長野で暮らせるようにしたい』と固い決意を持って作られた病棟ですから、スタッフの間で理念も共有できています。現場の医療スタッフだけでなく、事務の方々も一丸となって熱心に取り組んでいる姿に、『もう私たちが教えることはないね。むしろ羨ましいぐらいだね』と刺激を受けています」
国立病院機構西広島医療センター(2005年に合併する前は国立療養所原病院)の副看護師長は、15年ほど前に八雲病院の研修会に来た時、病棟を見学して、患者がもう気管切開をしていないことにショックを受けて帰って行った。
「その時に、『絶対にうちでもNPPVをやらなくてはいけない』と決心したそうで、先日、講演会のついでに立ち寄らせてもらった時、その師長さんが『10年間、八雲病院を目指してがんばりました』と、マウスピースで人工呼吸をする患者さんがたくさん電動車いすで活動している様子を見せてくれました。『マウスピースの患者さんの数は、うち以上ですね』と伝えて、 嬉うれ しくなりましたね。誰か1人がやらなくてはいけないと気づいて、それにしっかり取り組もうとする医師がいれば、どこだってできることなのかなと思いますね。どんな形であってもNPPVが広がって、どこに暮らしていても患者さんが生きやすくなるならばこれまでやってきたかいがありますね」
人工呼吸器が普及する前は、18~19歳だったデュシェンヌ型筋ジストロフィーの平均寿命は2倍以上に延び、世界中では今、就労や結婚や自立生活をどう実現するかという社会参加の議論が活発に行われるようになっている。石川さんはNPPVに取り組み始めたばかりの1994年に、ニューヨークの患者が自宅で一人暮らしをして旅行や友人との外出を当たり前のように行っているのを見て、師匠のバック医師に尋ねたことがある。
「どうしたら、日本もこのようになれるのでしょうか?」
バック医師は「患者さんを適切な医療で元気にしていけば、活動しやすくなり、自分自身で必要なことを社会の中で築き上げていく。ニューヨークでもそうやってきたんだ。ただし、一朝一夕にはできないよ」と答えてくれた。
「患者を元気にしていくという意味では、私や八雲のチームは、患者の呼吸を楽にして、命の危険を最小にするために気管切開のいらないNPPVを導入し、安心して食べられるように咳介助も行えるようにし、どんな年齢になっても自由に移動できる電動車いすを作り、どんなに手が動かなくなってもパソコンを扱え、生活の動作ができるような技術を提供してきました。だけど、バック先生は、『八雲のように人が少なく、都会から100キロ・メートルも離れた地域で、重い障害を持つ患者が長期間、施設に入所している生活では、いくら患者さんを元気にしてもそれを世間の人が直接目にする機会が少ない。これでは、社会の環境整備がなかなか進まない』とも心配していました。今はインターネットやマスメディアを通じて、患者さんが元気に暮らす様子を外に伝えることも可能になりました。これからはもう一歩、患者さんが自分たちで外に働きかけていくことで、社会のさらなる変化を進めていくことが重要です」と石川さんは語る。
そのために、札幌移転は大きなチャンスだと考えている。
「交流の場や機会が増えて患者さんの活動が広がれば、心身のバリアフリーや共生社会の実現につながるかはやってみなければわかりません。本人や家族自身が様々な生き方を選択し、その次の世代がさらに選択肢を拡大できるよう動いてほしい。専門医療ができることはそのためのサポートです。本人や家族が頑張れるように最高の体調や体力を整え、頑張りすぎた時の早い回復を手伝い、活動を支える機器を使いこなせるようにアドバイスする。そうすれば、『重い病気の人だから、関わって体調を崩したらどうしよう』とか『いろいろな機器や装置を使っているから、近寄りがたい』と思って遠ざかっている周囲の人の心の壁も、崩していくことができるのではないかと思うのです。それでも時には疲れた羽を休めて来てもらい、もし羽が折れてしまった時は、また別の羽で送り出せるよう準備をしておきたいと思っています」
そのためには人材や資金も必要となる。少子高齢化で社会保障費用が膨らむ中、石川さんは「希少疾患や難病だけが特別扱いされていると反発を抱かれないよう、社会の理解が進むことが不可欠」と語る。だが、道はまだ遠い。近年、利用が拡大している「出生前診断」にしても、現在、患者たちがどのように生活しているかがあまりにも世間に知られていないことが、情報不足に伴うつらい選択につながっているのではないかと石川さんは懸念している。
「もちろん過酷な病気であることは確かですが、元々、日本で出生前診断がデュシェンヌ型筋ジストロフィーに導入された頃は、“20歳まで生きられない遺伝性の重い致死的な疾患”という認識が大半でした。実際に、出生前診断に関わる産婦人科医や臨床遺伝専門医、遺伝カウンセラーに、少し前の医療事情による寿命や大変なイメージがあるのだとしたら、それを基にした情報提供と判断はどれほどの苦悩をもたらしてしまうことでしょう。今は人工呼吸器も進歩して、寿命も延び、様々な医療やケアの技術で生活の幅は広がっています」
前半で紹介した、八雲病院に7歳で入所した弟と離れたくないと泣いた姉に、記者(岩永)は取材の日に偶然出会った。あれから23年。自身の長男がやはりデュシェンヌ型筋ジストロフィーで、取材日は3か月に1回の外来日だったのだ。
「彼女は大人になって看護師になったのですが、自身が結婚し、妊娠した時、『弟と同じ病気なら、私は大丈夫。もし同じ病気だったら、弟と同じ八雲病院で診てもらいながら育てたい』と言って、出生前診断を受けませんでした。結局、ご長男は筋ジストロフィーと診断されましたが、八雲病院に通い仕事をしながら育てていらっしゃいます。次に生まれた長女の時も出生前検査は受けなかったんです。そういう判断をしてくれたということを、私は大切にしたいのです」と石川さんは語る。
「ヨミドクターで連載している筋ジストロフィーの詩人、岩崎航さんも詩で書かれているように、『こういうふうに生きていることが不幸だと決めつけるのは貧しい発想』であり、『そんなことないよ。まだまだ充実して生きるための支援が足りないし、もっと挑戦できることがあるはずだよ。未来はもっといい形で描いていけるよ』と世間に伝えたい。私たちの努力もまだ足りないのかもしれませんが、岩崎さんのように、患者さん自身も世間にアピールしていかないと届かないのかなと思います」
患者のお母さん役を長年務めてきた石川さんは現在56歳。65歳の定年までまだ10年あるが、これからはさらに、「子どもたち」の自立や社会参加を後押しすることに力を入れていきたい。
「自分の居たいところに、一緒に居たい人と、思うような暮らしをしていく。これまでは、病気や障害によってハードルが上がっていた多様な生き方を選べるようにしていくには、まずは、専門医療とつながりやすくして、社会で生きていくための準備が不足したまま成人した患者さんが、未来に向けて生きていけるように社会全体で支援していかなければなりません。心身共に元気になった患者さんが、社会の中で活躍する機会が増えていくことで世間の理解が進み、彼らを支援する環境も充実していくこと、彼らが社会に参加する様々なあり方を創出することを期待しています。私が八雲に来た時に、『どうして僕はここにいなくちゃいけないの?』と尋ねた彼に対して、『もうそんなことはないよ』と胸を張って言えるようになるまで、患者さんと日々模索して過ごしていきたいと思います」
(終わり)