ちゃこ花房~本日も波瀾万丈~

前向きに生きています。
健康で楽しく生活できたらそれが一番
周りの人たちを、元気にできる自分でいたい。

私と言う人間 3  孤独

2006年06月22日 | Weblog
結婚して驚いた事は韓国式の法事
キッチンで用事をしている女性の数の多さと、
(嫁たち以外に、親戚の女性たちがわんさか)
並べてあるテーブルの数のすごさ、
日本語と韓国語が飛び交う中でなにをしていいのかわからず、
キッチンにたっても私は邪魔になるだけ。
私は何もできないのだから。

なんだか、その中に自分がいることが場違いのような気がして、
居場所がなくて、不安な気持ちになり、
孤独な思いにさいなまれたものだ。

テーブルの上に並べられてある、見た事もない料理の数々。
知らない人の、顔、顔、顔・・
法事のときに、繰り広げられる花札遊び
(ただし、やるのは男のみ)
当時は、実家のこの法事に、会社の社員等も加わり
100人以上の人間が出入りしていたのだ。
笑い声に、怒鳴り声、時には喧嘩が始まる。
子供の数も半端ではない。
祭り状態の中で、乳飲み子を抱えた私の母乳は
ぴたりと出なくなった。
(以後3人とも、私は母乳が出なかった)
そして、乳の出ない私は、
「何故でないのだ、母親なのに」の
周りの言葉に何度も傷つけられた。

こんな環境で、乳など出るか!
と当時の私に言えるはずもなく。

わたしが結婚した人は、
韓国人なのだ思い知らされるのがこの法事だった。
しかもこの法事の数が多い。
盆、正月の節句と呼ばれるものに加え、8~9回の法事
義父が亡くなった後は、月1回(一年続く)
「めんじり」という朝に行われる法事もあった。

法事のたびに私は子供をつれて、大阪の実家に
泊り込みで準備をしにいく。
法事が近づくたびに憂鬱になっていたのは
私一人ではなく、他の嫁たちもそうだった。

うちうちの身内だけで総勢40名強になる法事のすさまじさ。
早朝から深夜まで続く法事の中で
嫁たちは疲労困憊していくのだった。


実家は、4階建てのビル。
地下と一階が会社になっており
2階が両親の住まい、
3階が三男夫婦、四男の部屋、
4階が、次男夫婦が出たあとで空いてた。
隣に5階建てのビルがあり、
ここの一階で長女が喫茶店を経営。
後は、1ルームマンションで賃貸。


実家に行けば、花房一族一色で
逃げ場がないのだ。


オットは優しかったけど
こんな生活が当たり前の環境の中で
過ごしてきたオットに、
私のこのときの「孤独感」は
想像できなかっただろうと思う。
それが私にとって一番辛いことだったのかもしれないが

私はここで、
義母との共通の気持ちというのを知る。
一人っ子だった義母も、結婚して
義父の大勢の身内の中で、一人辛い思いをしたのだという。
きつい姑に、うるさい小姑。
一人っ子だった義母は、子供を10人産んで
自分の強い味方を作ったのだと言う。

花房一族の、ゴッドマザーのような存在の
強い義母を好きだったわけではない。
娘たちより嫁がかわいい姑はまずいない。
息子、孫はかわいいが、
所詮嫁は他人なのだと人知れず泣いたこともある。

それでも、強くて大きくて頼れる義母は
尊敬に値する人間でもあった。
気が付くと、常に母の傍にいるのがこの私だった。
「何もできなくて役に立たない」と
最初は言われたが、私は母から教わること全て
不器用で怒られながらも覚えていった。

結婚するまで料理などしたことなかった私だが
料理をすることが好きになったのは
母が根気よく私に教えてくれたから。

私が困ったことがあると、義母は奈良に飛んできて
家事も子供の世話もしてくれたし
体力が落ちると、私のために漢方薬を作って飲ませてくれた。

義母が亡くなり、49日が過ぎ
私はそれから実家に一度も顔を出していない。
法事にも一切出ず不義理の状態である。

そのことを、義母は多分あの世で
嘆いているだろうと
いつも心の中で「すみません」と詫びているが、

義母のいなくなったあの場所に
私は二度といきたくない


コメント
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