山陽電車(姫路ー神戸間の臨海部を走る私鉄)の妻鹿駅の北の市川東岸に、こじんまりとお椀を伏せたような山がある。そこに登った。あいにくの天気(晴天すぎて暑い)で草いきれの山道を、もちろん誰とも行き交わないので、自分に「よいしょ、よいしょ」と気合を入れながら登った。
頂上には元「国府山城(妻鹿城)」があったところです。豊臣秀吉(信長健在で子分だったとき)が、西国平定(対毛利、赤松)に姫路の地を選んだときに、官兵衛は主人(小寺御着城主は赤松側)と反対の意見となったが、ためらわずに任されていた姫路城(御着城の出城)を秀吉に献じた。そして、この砦のあった妻鹿の地に城を構えたのです。
低い山なんですが、姫路の市街地を望むと、ビルの林立が甍のように連なっている中に、姫路城が頭一つ抜きん出て、周りを睥睨しているように見える。姫路城は姫山に建っているので、国府山からは、目の前に見える。
秀吉が砦のようなものから「秀吉姫路城」(大きくなったが、池田輝政の現在の姫路城ではない)を築くのを、出来上がっていく様を毎日眺めていたことでしょう。謂わば、戦国の世に主人に逆らう行為ですから、なんのためらいもなく決断したと思えませんが、その決断は福岡「黒田武士」となった後も、秀吉恩顧にも関わらず「徳川政権」にも、廃城や転地の憂き目もみず隆盛を保ったのに「天下を読む」能力に長けていたのでしょうか。
気の小さいkunio_nikkiには、封建時代の主人に逆らう気概が理解できませんが、「下克上」横行の戦国時代だから許されたのでしょう。家康平定後の江戸時代も安定しますと、城主に家来が逆らうことが公になると、「取り潰し」必定です。
写真を撮れるだけ取って下山した。自販機で水を買ってガブ飲みして、人心地がついた。
頂上には元「国府山城(妻鹿城)」があったところです。豊臣秀吉(信長健在で子分だったとき)が、西国平定(対毛利、赤松)に姫路の地を選んだときに、官兵衛は主人(小寺御着城主は赤松側)と反対の意見となったが、ためらわずに任されていた姫路城(御着城の出城)を秀吉に献じた。そして、この砦のあった妻鹿の地に城を構えたのです。
低い山なんですが、姫路の市街地を望むと、ビルの林立が甍のように連なっている中に、姫路城が頭一つ抜きん出て、周りを睥睨しているように見える。姫路城は姫山に建っているので、国府山からは、目の前に見える。
秀吉が砦のようなものから「秀吉姫路城」(大きくなったが、池田輝政の現在の姫路城ではない)を築くのを、出来上がっていく様を毎日眺めていたことでしょう。謂わば、戦国の世に主人に逆らう行為ですから、なんのためらいもなく決断したと思えませんが、その決断は福岡「黒田武士」となった後も、秀吉恩顧にも関わらず「徳川政権」にも、廃城や転地の憂き目もみず隆盛を保ったのに「天下を読む」能力に長けていたのでしょうか。
気の小さいkunio_nikkiには、封建時代の主人に逆らう気概が理解できませんが、「下克上」横行の戦国時代だから許されたのでしょう。家康平定後の江戸時代も安定しますと、城主に家来が逆らうことが公になると、「取り潰し」必定です。
写真を撮れるだけ取って下山した。自販機で水を買ってガブ飲みして、人心地がついた。