日日の幻燈

歴史・音楽・過ぎゆく日常のこと

豪徳寺に来たなら世田谷代官屋敷

2014-12-30 | 江戸の面影

豪徳寺に来た以上、すぐそばの世田谷代官屋敷に行かない手はない。
…なんて偉そうに言いますが、豪徳寺をネットで調べていて、初めてその存在を知った私でした。
ということで、11月15日、豪徳寺のあとに行ってきました。

世田谷代官屋敷は、彦根藩井伊家の世田谷領を差配した大場家の役宅。大場家は世田谷吉良氏の重臣でしたが、小田原北条氏滅亡の際に吉良氏も没落すると、大場信久はこの地で帰農しました。農民になったといっても土地の名士であるわけで、家康の関東入国に際しては検地の代行を命じられています。
世田谷が井伊家所領となった1633年、信久の孫・盛長が代官に任じられ、その後、明治に至るまで大場一族がその職を世襲しました(一時期、他家と2人制だったそうです)。
屋敷は江戸初期からここにあったのでしょうが、普請記録として確認できるのは1737年に7代・盛政が建て替えた時が最初で、明治までに何度か増改築が行われているそうです。

【世田谷代官屋敷・表門】

道路に面して表門。この表門、国の重要文化財に指定されています。この表門の横に駐車場と管理人詰所みたいな建物があります。ここから入りますが入場無料、しっかりしたパンフレットまでもらえます。

【玄関】

表門からは入れないので、主屋の玄関へ行くにはぐるっと建物をまわらなければなりません。ちなみにこの主屋も重要文化財です。

【主屋・西側庭園1】

玄関とは反対側の庭園。様々な木や花が植えられているのですが、多分、これは後年整備されたものだと思います。

【主屋・西側庭園2】

世田谷代官としての主な職務は年貢の徴収や治安維持でしたが、その他、豪徳寺での井伊家の葬儀・法要の差配、井伊家江戸屋敷での必需品の調達なども課せられていたそうです。

【主屋・内部】

玄関からは上がれませんが横の土間には入れます。そこから室内を見渡せます。手前の板の間は名主詰所、その向こうの畳敷きの部屋は代官居間。いちばん奥はその名も「切腹の間」。いつでも腹を切る覚悟で職務に当たるという、大場家代々の覚悟のほどを示しているのだとか。

【白州通用門】

世田谷領の治安維持も職務であった以上、犯罪人捕縛のため道具も常備されていましたし、江戸上屋敷で開かれる裁判の下調べも行われました。犯罪人(今風に言うならこの時点では容疑者?)が通り、お白州へ向かったのがこの門でしょうかね。

【白州跡】

お白州も残っていました。ただし、場所が若干違うとか。でも玉砂利はまさしく当時のものだそうです。

【白州の玉砂利】

ここに正座させられたらけっこう痛そう。一応は平べったい石が敷かれているけど、やっぱり痛いよな…。


敷地内には郷土資料館もあります。こちらも無料。大場家に伝わる古文書や書画など、世田谷近辺の歴史を知るにはとても勉強になります。





にほんブログ村 歴史ブログ 江戸時代へ