≪粟津則雄の小林秀雄論 その1≫
(2021年6月13日投稿)
今回と次回のブログでは、粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)を紹介してみたい。
今回は、小林の批評や歴史観の特色、『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』および本居宣長論などを中心に述べてみたい。
【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】
小林秀雄論 (1981年)
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
「あとがき」にあるように、若年期の粟津則雄にとって、小林秀雄は、「決定的な意味を持った文学者」であったようだ。
戦争中、中学生の頃に読んだランボオについての翻訳と評論や『ドストエフスキイの生活』に接して以来、この批評家の強い魅力の渦中に引きこまれたという。
粟津則雄の『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)という著作は、粟津が雑誌「海」の昭和53年4月号から昭和55年12月号まで、25回にわたって連載したものである。小林秀雄の伝記的部分への言及は、必要最少限にとどめ、能うかぎり、小林秀雄の作品そのものに即しながら、その思考の展開を跡づけたという。
そこには、さまざまな事件や問題に対する小林の分析や判断が見てとれるようだ。小林の時代的限界や、その思考の歪みをあげつらうことはせず、この批評家の仕事のあるがままの姿を見定めようとしたという。
(わが国の近代文芸批評がはらむ深い不幸や宿命を粟津は痛感しているが、小林の仕事との苦い対話を重ねることによって、この不幸を乗りこえる必要性を、粟津は説いている)
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、452頁~456頁)
粟津による小林秀雄像としては、一方では、「理智の極端な速度」の持主であり、「知的倦怠」を嚙み続けてきた人物であり、今一方では、その意識を「生活欲情」と結びつけずにはおかぬ「生ま生ましくド強(ぎつ)い眼」の持主でもあったといえる。
このように、一見両立しがたい、このふたつの特質が共存していたようだ。
小林は、この両者を、ともにおのれの精神の機能として受け入れた。単なる共存であったものを、鋭く緊迫した精神の劇にまで高め、このような諸機能の全体的な活動のうちに、おのれの個性を現前させようとした。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、115頁~116頁)
小林の批評は、次の二つの柱を展開しているとされる。
〇無秩序で混沌とした現実のありようの無私な受容
〇そういう現実に耐える「思想」
小林にとって、「読者」や「大衆」は「思想」の体現者といってもいい。
(両刃の剣とも化すのだが)
小林は、「純文学に新しい命を吹き込む」手段として、純文学が「健全な物語性、通俗性を取返す」べきだと主張している。
また、「小説の面白さは、他人の生活を生きてみたいといふ、実に通俗な人情に、その源を置いてゐる。小説が発達するにつれて、いろいろ小説の高級な面白がり方も発達するが、どんなに高級な面白がり方も、この低級な面白がり方を消し去る事は出来ないのである」と述べている。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、266頁~267頁、270頁)
小林は、『アシルと亀の子 Ⅰ』では、中河与一や大宅壮一の著書に、『アシルと亀の子 Ⅱ』では三木清の評論に、辛辣な論難を加えている。
これらの著書や評論が、その立場も方法も異なっているにもかかわらず、「虚無」に身を焼くこともなく、それゆえに個物としての人や作品を受け入れることもない、中途半端で観念的な代物という点で共通しているからである。
たとえば、中河与一の著書は、「形式の動的発展性図式」なるものを核として文学を形式の展開としてとらえたものらしい。小林の「虚無」は、「己れの芸術活動を、己れの他の活動と同一水準面に並列させて眺め始める事が出来ない様な自意識が、芸術理論を築かうとするのは無意味なわざだ」という評言として現われる。
(「虚無」にまでいたりつくことによって具体的な個物としての人や作品を受け入れるという小林の批評の構造とかかわってくると、粟津は捉えている)
『アシルと亀の子 Ⅱ』という評論には、「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使つて自己を語る事である」という、あまりにも有名になりすぎたことばがある。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、102頁~104頁)
小林は、歴史が新しい解釈などでびくともするものではないことを合点するに応じて、「歴史はいよいよ美しく感じられた」という。
ところで、森鷗外はその晩年の厖大な考証を始めることによって、「恐らくやつと歴史の魂に推参した」。『古事記伝』にこめられた「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という思想こそ、「宣長の抱いた一番強い思想」である。このように、小林は主張する。
そして、「解釈だらけの現代には一番秘められた思想である」という。
この点には、粟津は異論はない。しかし、このようなことを主張する小林には、『渋江抽斎』や『古事記伝』の作がなことが気にかかるという。粟津は、小林が史伝小説や古典註釈を行なうべきだったと、言っているのではない。鷗外や宣長にとっての『渋江抽斎』や『古事記伝』に相当するものは、小林にとっては『無常といふ事』という書物であったとは言い得ないとする。
この『無常といふ事』には、『渋江抽斎』や『古事記伝』のような書物で支えられることによって、はじめてのびやかに展開する思考を、それだけで虚空に浮かびあがらせているようなところがあると、粟津は評している。
小林にとって、歴史とは、「人間の生死に関する思想」から、さまざまな「夢」をぬぐい去り、『当麻』で叙述したような「単純な純粋な形」に収斂する場にほかならない。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、337頁、341頁)
小林は、世阿弥の「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」ということばを引き、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」と言う。
これは、小林の思考を端的に示すことばとして有名になった。
(粟津によれば、これは『当麻』で述べた中将姫とルソーとの対照のヴァリエーションであるとする)
たしかに、「『花』の美しさという一般化が、人びとを現に在る「美しい『花』」から遠ざけるとは言いうる。物数を極め、工夫を尽すのは、そういう一般化から「美しい『花』」を救い出すための、必須の手段にほかならない。
ここで粟津は、次のように、解説している。
だからといって、「『花』の美しさ」を、現代の美学者がもてあそぶ一般概念に解消してしまうのは、「美しい『花』」そのものを、痩せた、孤立した存在としてしまうことになりかねないと。
かつてマラルメは語った。
「私が『花』と言う。すると、現実のどんな花束でもないような純粋な花の観念そのものが、音楽的に立ちのぼる」と。
粟津は言う。
この「花」も、まさしく「美しい『花』」であるが、「『花』の美しさ」は、ここでは、「美しい『花』」を支える要素にほかならない。それはたしかに、「美しい『花』」を消し去りかねないが、そういう危うい性質を通して、「美しい『花』」に、充実した豊かさを与える。
一方、小林は、世阿弥が言いたいのは、「肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙も深淵だから」ということだと言う。
世阿弥の思想としてはそう言いうるだろうが、それを、小林のように、われわれすべてがとるべき態度となしうるかどうかは、粟津は疑問とする。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、345頁)
評論集『無常といふ事』には、『当麻』と『無常といふ事』のほかに、『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』という四篇のエッセーがおさめられている。執筆はこの順序になっている。このような対象を選び、こういう順序で書いたということは、小林秀雄の批評の質と構造を端的に示していると、粟津は考えている。
(『無常といふ事』は、「文学界」(昭和17年6月号)に、『平家物語』は翌月の「文学界」に発表された)
『無常といふ事』の末尾で、
「この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である」という。
こうした言い方のなかに、小林の姿勢をはっきりと見てとることができる。
そして、『平家物語』は、「無常」のなかで生きる人びとの生そのものを見定めようとした試みであったという。この平家物語論においても、「平家のあの冒頭の今様風の哀調」を、人びとにとってのつまずきの石であるとする。
そこには、平家の作者の思想や人生観がこめられているにはちがいないが、平家の作者は優れた思想家ではない点が肝腎だと指摘する。そして、作者を動かし導いたものは、叙事詩人の伝統的な魂であったと、小林は主張する。
(平家の作者が優れた思想家ではなく、「たゞ当時の知識人として月並みな口を利いてゐたに過ぎない」という。もちろん、この点には、異論もある)
このとき、小林は、平家物語に関する観念的解釈を乗りこえようとしていたようだ。小林の動機の一つには、ある史観によって過去を再構成しようとする志向に対する嫌悪があったといわれる。
「平家の哀調」は、仏教思想などに由来するものではなく、「この作の叙事詩としての驚くべき純粋さ」から来ると小林はいう。つまり「平家の作者達の厭人も厭世もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如きは、時代の果敢ない意匠に過ぎぬ」とする。無常の思想が、「時代の果敢ない意匠」にすぎない、「厭人も厭世もない詩魂」は、さまざまな思想が次々と脱落していったのちに現われ出るものであった。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、346頁~348頁)
粟津則雄は、「心理と倫理」において、「無垢」な「私」という観念は、小林の仕事のなかで、さまざまに転調しながら、独特の成長をとげると述べている。
たとえば、ドストエフスキーに関する仕事においても、もっとも本質的な観念としてそれが見られる。
また、『無常といふ事』や『モオツァルト』において、それが美しい結晶を示す。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、131頁)
小林は、思想を超えたものを、思想に迷いこむことによってではなく、思想から醒めることによって見ようとする。
平家の作者の思想は当時の知識人の常識であり、無常の思想は「時代の果敢ない意匠」にすぎぬというような言い方は、そういったことの現われであると、粟津はみる。
『平家物語』に続いて、翌8月号の「文学界」には、『徒然草』が発表される。
このエッセーで小林が描き出している兼好には、小宰相が見たような自然を見てしまった批評家とでも言いたいようなところがあるという。小林は、このエッセーの冒頭で、兼好にとっての「つれづれ」ということばの意味について触れている。このことばのなかに、兼好ほど辛辣な意味を見出した者は、兼好以前にも以後にもなかったとする。
小林によれば、「兼好にとつて徒然とは『紛るゝ方無く、唯独り在る』幸福並びに不幸」であった。そして、そのような徒然に身を置いた兼好のうちに、何かを書いたところで心が紛れるわけではなく、「紛れるどころか、眼が冴えかへつて、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さ」を見てとっている。
このことは、当時の小林にとっての批評が置かれた場所を端的に示していると、粟津は捉えている。小林にとっての批評の辛さは、彼があらゆる物の根底にあの自然を見てしまうという、まさしくその点から発しているとする。
あの自然を見た小宰相は、やがて「南無ととなふる声共に」海に身を沈める。一方、小林は、このような自然を心に抱きながら、なおも生き続けなければならない。
このような自然そのものから現に在る物を見返さねばならない。
それに際しての複雑な工夫、それが小林にとっての批評にほかならないと、粟津はいう。
小林が『徒然草』のなかの「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」という文章を引いて、兼好は「利き過ぎる腕と鈍い刀の必要を痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが徒然
草の文体の精髄である」と評する。
このことは、さらには小林自身のことをいっているようだ。
『徒然草』に続いて、小林は『西行』を書き、次いで『実朝』を書く。
小林は、『平家物語』で「自然」を、『徒然草』で「批評」を主題とした。そして、西行と実朝という二人の歌人を通じて、小林の精神のもっとも本質的な構成要素である「倫理」と「無垢」という主題をとりあげた。
小林の西行論の特質は、この生得の歌人のうちに、内省的な一人の倫理家を見ているという点にある。つまり、生得の歌人とこういう倫理家とが、西行の歌の姿と調べのなかで、独特の均衡を作りあげているさまを、見定めようとしている点にある。
小林は、西行という存在の意味について、次のように述べている。
「平安末期の歌壇に、如何にして己れを知らうかといふ殆ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあつたのではない。陰謀、戦乱、火災、饑饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想つた正直な一人の人間の荒々しい悩みであつた。彼の天賦の歌才が練つたものは、新しい粗金であつた。事もなげに古今の風体を装つたが、彼の行くところ、当時の血腥い風は吹いてゐるのであり、其処に、彼の内省が深く根を下してゐる(後略)」
これは、西行のもっとも深いところを的確にとらえた評言であると、粟津はみなしている。つまり、この評言は、小林自身の精神のありようをも、あざやかに照らし出しているという。
西行はこういう歌人であった。
そのような歌人でありえたのは、西行の内省が、ただおのれの内部だけに閉じた運動ではなく、おのれをこえたものによってつらぬかれ、突き動かされていたためであるようだ。
俊成や定家とくらべた場合、西行の歌のはらむ強い倫理性は直ちに見てとりうる。
そして、西行の倫理性もまた、いわば倫理をこえたものによって激しくゆり動かされた。内省が内省をこえようとし、倫理が倫理をこえようとする、そういう点に、小林は西行の歌が生れ出る立場を見ていた。(これは、小林自身の中心的な主題だった)
兼好の批評は、自然と倫理とをおのれのなかで、はげしく衝突させるところから生れたと小林は見ている。西行の歌もまた、同様の衝突を、その内的動機としていた。
小林の西行像は、「天稟の倫理性と人生無常に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、頽廃を知らず、俗にも僧にも囚はれぬ、自在で而も過たぬ、一種の生活法の体得者」という姿で描かれた。
烈しい内省がきわまるところに、ある自由と化する一点を目標とし、この一点を純粋なかたちで体現する存在が西行であったようだ。
このような小林の西行像について、粟津はコメントを付している。
内省と自由が結びつく一点に、性急に西行を現前させようとしているようなところが、小林にはあると、粟津はいう。
たとえば、西行の歌に、次のものがある。
「世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」
これに対して、小林は次のように言う。
「思想を追はうとすれば必ずかういふやつかいな述懐に落入る鋭敏多感な人間を素直に想像してみれば、作者の自意識の偽らぬ形が見えて来る。西行とは、かういふパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み、前人未到の境に分入つた人である」
この点、粟津は、「思想を追はうとすれば必ずかういふやつかいな述懐に落入る」ことと、「かういふパラドックスを歌の唯一の源泉と恃」むこととを結ぶものが、気にかかるとする。
西行は、そのようにして前人未到の境に分け入ったにはちがいないが、西行がえた自由には、「やつかいな述懐」がはらんでいた生のざらついた雑駁な手触りを、あまりにも見事におのれのなかにとかしこみすぎているようなところがあるという。
小林は、『西行』の末尾で、次の有名な歌を引いている。
「風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな」
そして、小林は次のように述べている。
「一西行の苦しみは純化し、「読人知らず」の調べを奏でる。人々は、幾時とはなく、こゝに「富士見西行」の絵姿を想ひ描き、知らず知らずのうちに、めいめいの胸の嘆きを通はせる。西行は遂に自分の思想の行方を見定め得なかつた。併し、彼にしてみれば、それは、自分の肉体の行方ははつきりと見定めた事に他ならなかつた」
これは、西行の肉体もまた、そのあるがままの姿で、その自由のなかでの純粋なヴィジョンと化したと、粟津は解釈している。そのような西行のありようは、このまま小林の極点をなしているとする。
西行の歩みは、倫理がきわまるところ無垢に達したといえる。
若年期のランボオ論以来、小林の批評の中心にあった無垢という主題は、『西行』に続いて書かれた『実朝』において、そのもっとも純粋な表現を与えられたと、粟津はみている。
小林は、『実朝』の冒頭で、「僕等は西行と実朝とを、まるで違つた歌人の様に考へ勝ちだが、実は非常によく似たところのある詩魂なのである」と述べている。西行と実朝を結びつけているのは、倫理と無垢との美しい合体であった。
もちろん、そのあらわれようは、それぞれにおいて異なっている。
(この点、西行の場合、ラスコーリニコフを思わせるようなところがあり、実朝の場合、ムイシュキンを思わせるようなところがあると、粟津はみている。)
そして、西行も実朝も、その生や制作は、ある強い倫理的動機につらぬかれていて、たとえ彼らが、いかに新古今風の美学に近づいているように見えても、その歌の姿ははっきりと異なると付言している。
たとえば、実朝には、西行のように、ひたすらおのれに執した執拗な内省の動きは感じられないとする。「やつかいな述懐」にのめりこみながら、それを「歌の唯一の源泉と恃」むというようなところは見られない。
実朝の場合、その倫理性は、彼の感覚にとけこんでしまっているようにさえ見える。
小林は、実朝について、次のように述べている。
「頼家が殺された翌年、時政夫妻は実朝殺害を試みたが、成らなかつた。この事件を、当時十四歳の鋭敏な少年の心が、無傷で通り抜けたと考へるのは暢気過ぎるだらう。彼が、頼家の亡霊を見たのは、意外に早かつたかも知れぬ。(中略)さういふ僕等の常識では信じ難く、理解し難いところに、まさしく彼の精神生活の中心部があつた事、また、恐らく彼の歌の真の源泉があつた事を、努めて想像してみるのはよい事である」
そして、小林は、このような源泉から生れる実朝の歌について記す。たとえば、
「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめたまへ」の歌について、
「彼は、たゞ、『あめやめたまへ』と一心に念じたのであつて、現代歌人の万葉美学といふ様なものが、彼の念頭にあつた筈はない」という。
さらに「殊更に独創を狙つて、歌がこの様な姿になる筈もない。不思議は、たゞ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この歌がそのまゝ彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないのだらうか」という。
小林のこのような分析は、実朝の生と制作をつらぬく、無垢と倫理性との合体と、その独特のありようを、的確に示している。
実朝に世間一般の歌人に見られるような成熟は見られない。
小林は、西行について、「彼の歌は成熟するにつれて、いよいよ平明な、親しみ易いものとなり、世の動きに邪念なく随順した素朴な無名人達の嘆きを集めて純化した様なものとなつた」と評している。
実朝には、そのようなかたちでの成熟さえなかった。実朝のなかには、人生の時間は流れていなかったとさえ言えると、粟津はいう。何ひとつ拒むことなく、すべてを受け入れる実朝の無垢は、ランボオと同様、おのれを沈黙の状態において、おのれのうえを人生の時間を通過させただけだとも表現している。
そして、西行を論じた小林が、次いで実朝を論じたのも、よくわかるとする。
西行には、無垢と倫理性とのあいだの激しいドラマが見られたが、実朝には、それが消え、すべてがただあるがままに実朝のなかに流れこんでいる。ここには無垢の観念のひとつの極限がある。
次に、実朝の歌の鑑賞について、小林の記述を粟津は紹介している。
実朝の歌「大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも」について、小林は次のように言う。
「いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあつたといふより寧ろ彼の孤独が独創的だつたと言つた方がいゝ様に思ふ。自分の不幸を非常によく知つてゐたこの不幸な人間には、思ひあぐむ種はあり余る程あつた筈だ。これが、ある日悶々として波に見入つてゐた時の彼の心の嵐の形でないならば、たゞの洒落に過ぎまい」
もうひとつの歌
「うば玉ややみのくらきにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる」
この歌について、小林はいう。
「実に暗い歌であるにも拘らず、弱々しいものも陰気なものもなく、正直で純粋で殆ど何か爽やかなものさへ感じられる。暗鬱な気持ちとか憂鬱な心理とかを意識して歌はうとする様な曖昧な不徹底な内省では、到底得る事の出来ぬ音楽が、こゝには鳴つてゐる」
これらの小林の鑑賞は、従来の通念を一挙に打ち破った精妙な鑑賞であると、粟津は評価している。鑑賞にともないがちな迂路に迷いこむことなく、また考証といった作業にのめりこむことなく、集中力をもって、ある中心へ向かっているという。
(それは実朝の中心であると同時に、小林自身の中心でもある。それは小林の批評に一貫する態度である)
ところで、小林は、『平家物語』『徒然草』『西行』について、その思考を推し進めてきた。
〇平家の作者における、無常の思想と厭人も厭世もない詩魂との結びつき
〇兼好に見られる「自然」と生の結びつき
〇西行に見られる無垢と倫理性との結びつき
そして、実朝にいたって、小林の思考はひとつの円を結び終ったように見えると、粟津は理解している。
小林は、実朝について、次のように記す。
「彼には、凡そ武装といふものがない。歴史の溷濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける。これに対し彼は何等の術策も空想せず、どの様な思想も案出しなかつた。さういふ人間には、恐らく観察家にも理論家にも行動家にも見えぬ様な歴史の動きが感じられてゐたのではあるまいかとさへ考へる」
小林もまた、「歴史の溷濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける」のに耐えていた。そのことによって、観察家にも理論家にも行動家にも見えぬ歴史の動きを感じていた。
それは、小林が『実朝』で、実朝と彼をとりまく社会との微妙な交感について、精妙な分析を行っていることからもうかがいとれると、粟津はいう。
小林の場合、このようにして、歴史の動きを感じとることが、歴史をあまりに内面化することとなった。小林としては、このようなかたちで、おのれを純化するほかなかったようだ。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、346頁~360頁)
小林秀雄は、昭和40年の6月号から、雑誌「新潮」に『本居宣長』の連載を始めている。
それ以前、小林は、昭和33年から5年にわたって、ベルクソンの思想を綿密に分析していた。
小林は、ベルクソン批評になおもつきまとう合理的分析の作業を、宣長を論ずることによって、さらに乗りこえようとしたと、粟津は捉えている。
ベルクソンを論ずるにあたって、その遺書から小林は始めているが、同様に、宣長論でもまず宣長の墓と遺言書について語っている。粟津はこの点に注意を促している。
宣長は、遺言書のなかで、墓の作りを図解入りで綿密に指定し、おのれの葬式、法事、墓参についても事こまかに指図している。小林は、この遺言書が宣長の「人柄を知る上での好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言ひたい趣きのもの」であるという。
そして、そのような宣長を「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家」と小林はみた。宣長にとって、遺言書は、その思考の徹底がおのずから生み出したものであったようだ。だから、「遺言書と言ふよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える」と小林は記している。
この点、粟津は次のように解釈している。
死に対する宣長のこのような姿勢には、宣長自身に対する小林秀雄の姿勢と微妙に対応するところがある。小林は、宣長を論ずるに当って、死に対する宣長の姿勢を模倣することで始めたと解している。そして、宣長論は、小林自身の遺言書といった色合いを帯びると、粟津はみる。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、421頁~428頁)
小林は、宣長の思想の具体的な分析に入るに先立って、契沖、藤樹、仁斎、徂徠といった国学者や儒家について語っている。
小林が目指しているのは、思想史的な影響関係の解明でなく、彼らの肉声に耳をかたむけることである。
契沖は、激しい理想主義と事実に対するきわめて即物的な眼をあわせ持っていた。藤樹も、外部の劇をそのままおのれの内部の劇と化した孤立した意識を持っていた。
仁斎も、一徹な内省によって、『論語』や孔子の動かしようのない「姿」に直面し、それを「見て見抜き」、「『手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ』と、こちらが相手に動かされる道」を行った。
徂徠の学問の支柱には、変らぬものを目指す『経学』と、変るものに向ふ『史学』との交点の鋭い直覚があると、小林は評している。
この徂徠像には、小林の歴史観が濃厚にかげを落としていると、粟津はみている。
小林もまた、人生如何に生くべきかという問いと、歴史を深く知ることとの交点に、その思考を注いできた。
契沖から徂徠の像は、小林の思考を鋭く体現しており、それぞれが小林の自画像であるともいえる。
(たとえば、画家がさまざまな人間の肖像画を描いた場合、それぞれ異なった人相をしていながら、不思議に画家自身に似通ってくるのに類似していると、粟津は説明している)
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、432頁~437頁)
「物のあはれをしる情(ココロ)の感(ウゴ)き」が極まるところ、われわれは「死の観念」に出会う。
われわれに持てるのは、死ではなく「死の予感」だけである。ただ、われわれは、愛する者を亡くしたとき、「死んだのは己れ自身だとはつきり言へるほど、直かな鋭い感じに襲はれる」。
このように、「他人の死を確める」ことによって、われわれの死の観念は完成する。
そして、小林は、このとき「彼は、どう知りやうもない物、宣長の言ふ、『可畏(カシコ)き物』に、面と向つて立つ事になる」と言う。
(これは、宣長の『源氏』論と『古事記伝』をつなぐ、もっとも本質的な流れであると、粟津は解している)
小林秀雄は、われわれが歴史に出会う契機として、子供を失った母親の悲しみについて、くりかえし語っていた。
小林は、この「可畏き物」に触れることによって、小林の批評の究極に触れたと、粟津は捉えている。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、450頁~451頁)
(2021年6月13日投稿)
【はじめに】
今回と次回のブログでは、粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)を紹介してみたい。
今回は、小林の批評や歴史観の特色、『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』および本居宣長論などを中心に述べてみたい。
【粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社はこちらから】
小林秀雄論 (1981年)
粟津則雄『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)
本書の目次は次のようになっている。
【目次】
初期創作の意味
ボードレールとランボオ
批評の自覚
志賀直哉論
批評の展開
心理と倫理
「私」の解体
『私小説論』の位置
『ドストエフスキイの生活』
ラスコーリニコフとムイシュキン
意識と世界
悪の問題
批評の成熟
歴史と生
文学の社会性
戦争と文学
事実の思想
『無常といふ事』
倫理と無垢
『モオツァルト』
『ゴッホの手紙』
『近代絵画』
『本居宣長』
あとがき
さて、今回の執筆項目は次のようになる。
・粟津則雄の著作について
・小林の批評 「批評の展開」「批評の成熟」より
・小林秀雄の歴史観
・美しい『花』と『花』の美しさ
・「倫理と無垢」
・小林秀雄の『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』
・小林秀雄の本居宣長論
・宣長の『源氏』論と『古事記伝』
粟津則雄の著作について
「あとがき」にあるように、若年期の粟津則雄にとって、小林秀雄は、「決定的な意味を持った文学者」であったようだ。
戦争中、中学生の頃に読んだランボオについての翻訳と評論や『ドストエフスキイの生活』に接して以来、この批評家の強い魅力の渦中に引きこまれたという。
粟津則雄の『小林秀雄論』(中央公論社、1981年)という著作は、粟津が雑誌「海」の昭和53年4月号から昭和55年12月号まで、25回にわたって連載したものである。小林秀雄の伝記的部分への言及は、必要最少限にとどめ、能うかぎり、小林秀雄の作品そのものに即しながら、その思考の展開を跡づけたという。
そこには、さまざまな事件や問題に対する小林の分析や判断が見てとれるようだ。小林の時代的限界や、その思考の歪みをあげつらうことはせず、この批評家の仕事のあるがままの姿を見定めようとしたという。
(わが国の近代文芸批評がはらむ深い不幸や宿命を粟津は痛感しているが、小林の仕事との苦い対話を重ねることによって、この不幸を乗りこえる必要性を、粟津は説いている)
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、452頁~456頁)
小林の批評 「批評の展開」「批評の成熟」より
粟津による小林秀雄像としては、一方では、「理智の極端な速度」の持主であり、「知的倦怠」を嚙み続けてきた人物であり、今一方では、その意識を「生活欲情」と結びつけずにはおかぬ「生ま生ましくド強(ぎつ)い眼」の持主でもあったといえる。
このように、一見両立しがたい、このふたつの特質が共存していたようだ。
小林は、この両者を、ともにおのれの精神の機能として受け入れた。単なる共存であったものを、鋭く緊迫した精神の劇にまで高め、このような諸機能の全体的な活動のうちに、おのれの個性を現前させようとした。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、115頁~116頁)
小林の批評は、次の二つの柱を展開しているとされる。
〇無秩序で混沌とした現実のありようの無私な受容
〇そういう現実に耐える「思想」
小林にとって、「読者」や「大衆」は「思想」の体現者といってもいい。
(両刃の剣とも化すのだが)
小林は、「純文学に新しい命を吹き込む」手段として、純文学が「健全な物語性、通俗性を取返す」べきだと主張している。
また、「小説の面白さは、他人の生活を生きてみたいといふ、実に通俗な人情に、その源を置いてゐる。小説が発達するにつれて、いろいろ小説の高級な面白がり方も発達するが、どんなに高級な面白がり方も、この低級な面白がり方を消し去る事は出来ないのである」と述べている。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、266頁~267頁、270頁)
小林は、『アシルと亀の子 Ⅰ』では、中河与一や大宅壮一の著書に、『アシルと亀の子 Ⅱ』では三木清の評論に、辛辣な論難を加えている。
これらの著書や評論が、その立場も方法も異なっているにもかかわらず、「虚無」に身を焼くこともなく、それゆえに個物としての人や作品を受け入れることもない、中途半端で観念的な代物という点で共通しているからである。
たとえば、中河与一の著書は、「形式の動的発展性図式」なるものを核として文学を形式の展開としてとらえたものらしい。小林の「虚無」は、「己れの芸術活動を、己れの他の活動と同一水準面に並列させて眺め始める事が出来ない様な自意識が、芸術理論を築かうとするのは無意味なわざだ」という評言として現われる。
(「虚無」にまでいたりつくことによって具体的な個物としての人や作品を受け入れるという小林の批評の構造とかかわってくると、粟津は捉えている)
『アシルと亀の子 Ⅱ』という評論には、「批評するとは自己を語る事である、他人の作品をダシに使つて自己を語る事である」という、あまりにも有名になりすぎたことばがある。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、102頁~104頁)
小林秀雄の歴史観
小林は、歴史が新しい解釈などでびくともするものではないことを合点するに応じて、「歴史はいよいよ美しく感じられた」という。
ところで、森鷗外はその晩年の厖大な考証を始めることによって、「恐らくやつと歴史の魂に推参した」。『古事記伝』にこめられた「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という思想こそ、「宣長の抱いた一番強い思想」である。このように、小林は主張する。
そして、「解釈だらけの現代には一番秘められた思想である」という。
この点には、粟津は異論はない。しかし、このようなことを主張する小林には、『渋江抽斎』や『古事記伝』の作がなことが気にかかるという。粟津は、小林が史伝小説や古典註釈を行なうべきだったと、言っているのではない。鷗外や宣長にとっての『渋江抽斎』や『古事記伝』に相当するものは、小林にとっては『無常といふ事』という書物であったとは言い得ないとする。
この『無常といふ事』には、『渋江抽斎』や『古事記伝』のような書物で支えられることによって、はじめてのびやかに展開する思考を、それだけで虚空に浮かびあがらせているようなところがあると、粟津は評している。
小林にとって、歴史とは、「人間の生死に関する思想」から、さまざまな「夢」をぬぐい去り、『当麻』で叙述したような「単純な純粋な形」に収斂する場にほかならない。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、337頁、341頁)
美しい『花』と『花』の美しさ
小林は、世阿弥の「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失せぬところを知るべし」ということばを引き、「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」と言う。
これは、小林の思考を端的に示すことばとして有名になった。
(粟津によれば、これは『当麻』で述べた中将姫とルソーとの対照のヴァリエーションであるとする)
たしかに、「『花』の美しさという一般化が、人びとを現に在る「美しい『花』」から遠ざけるとは言いうる。物数を極め、工夫を尽すのは、そういう一般化から「美しい『花』」を救い出すための、必須の手段にほかならない。
ここで粟津は、次のように、解説している。
だからといって、「『花』の美しさ」を、現代の美学者がもてあそぶ一般概念に解消してしまうのは、「美しい『花』」そのものを、痩せた、孤立した存在としてしまうことになりかねないと。
かつてマラルメは語った。
「私が『花』と言う。すると、現実のどんな花束でもないような純粋な花の観念そのものが、音楽的に立ちのぼる」と。
粟津は言う。
この「花」も、まさしく「美しい『花』」であるが、「『花』の美しさ」は、ここでは、「美しい『花』」を支える要素にほかならない。それはたしかに、「美しい『花』」を消し去りかねないが、そういう危うい性質を通して、「美しい『花』」に、充実した豊かさを与える。
一方、小林は、世阿弥が言いたいのは、「肉体の動きに則つて観念の動きを修正するがいゝ、前者の動きは後者の動きより遙かに微妙も深淵だから」ということだと言う。
世阿弥の思想としてはそう言いうるだろうが、それを、小林のように、われわれすべてがとるべき態度となしうるかどうかは、粟津は疑問とする。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、345頁)
「倫理と無垢」
評論集『無常といふ事』には、『当麻』と『無常といふ事』のほかに、『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』という四篇のエッセーがおさめられている。執筆はこの順序になっている。このような対象を選び、こういう順序で書いたということは、小林秀雄の批評の質と構造を端的に示していると、粟津は考えている。
(『無常といふ事』は、「文学界」(昭和17年6月号)に、『平家物語』は翌月の「文学界」に発表された)
『無常といふ事』の末尾で、
「この世は無常とは決して仏説といふ様なものではあるまい。それは幾時如何なる時代でも、人間の置かれる一種の動物的状態である」という。
こうした言い方のなかに、小林の姿勢をはっきりと見てとることができる。
そして、『平家物語』は、「無常」のなかで生きる人びとの生そのものを見定めようとした試みであったという。この平家物語論においても、「平家のあの冒頭の今様風の哀調」を、人びとにとってのつまずきの石であるとする。
そこには、平家の作者の思想や人生観がこめられているにはちがいないが、平家の作者は優れた思想家ではない点が肝腎だと指摘する。そして、作者を動かし導いたものは、叙事詩人の伝統的な魂であったと、小林は主張する。
(平家の作者が優れた思想家ではなく、「たゞ当時の知識人として月並みな口を利いてゐたに過ぎない」という。もちろん、この点には、異論もある)
このとき、小林は、平家物語に関する観念的解釈を乗りこえようとしていたようだ。小林の動機の一つには、ある史観によって過去を再構成しようとする志向に対する嫌悪があったといわれる。
「平家の哀調」は、仏教思想などに由来するものではなく、「この作の叙事詩としての驚くべき純粋さ」から来ると小林はいう。つまり「平家の作者達の厭人も厭世もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如きは、時代の果敢ない意匠に過ぎぬ」とする。無常の思想が、「時代の果敢ない意匠」にすぎない、「厭人も厭世もない詩魂」は、さまざまな思想が次々と脱落していったのちに現われ出るものであった。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、346頁~348頁)
粟津則雄は、「心理と倫理」において、「無垢」な「私」という観念は、小林の仕事のなかで、さまざまに転調しながら、独特の成長をとげると述べている。
たとえば、ドストエフスキーに関する仕事においても、もっとも本質的な観念としてそれが見られる。
また、『無常といふ事』や『モオツァルト』において、それが美しい結晶を示す。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、131頁)
小林秀雄の『平家物語』『徒然草』『西行』『実朝』
小林は、思想を超えたものを、思想に迷いこむことによってではなく、思想から醒めることによって見ようとする。
平家の作者の思想は当時の知識人の常識であり、無常の思想は「時代の果敢ない意匠」にすぎぬというような言い方は、そういったことの現われであると、粟津はみる。
『平家物語』に続いて、翌8月号の「文学界」には、『徒然草』が発表される。
このエッセーで小林が描き出している兼好には、小宰相が見たような自然を見てしまった批評家とでも言いたいようなところがあるという。小林は、このエッセーの冒頭で、兼好にとっての「つれづれ」ということばの意味について触れている。このことばのなかに、兼好ほど辛辣な意味を見出した者は、兼好以前にも以後にもなかったとする。
小林によれば、「兼好にとつて徒然とは『紛るゝ方無く、唯独り在る』幸福並びに不幸」であった。そして、そのような徒然に身を置いた兼好のうちに、何かを書いたところで心が紛れるわけではなく、「紛れるどころか、眼が冴えかへつて、いよいよ物が見え過ぎ、物が解り過ぎる辛さ」を見てとっている。
このことは、当時の小林にとっての批評が置かれた場所を端的に示していると、粟津は捉えている。小林にとっての批評の辛さは、彼があらゆる物の根底にあの自然を見てしまうという、まさしくその点から発しているとする。
あの自然を見た小宰相は、やがて「南無ととなふる声共に」海に身を沈める。一方、小林は、このような自然を心に抱きながら、なおも生き続けなければならない。
このような自然そのものから現に在る物を見返さねばならない。
それに際しての複雑な工夫、それが小林にとっての批評にほかならないと、粟津はいう。
小林が『徒然草』のなかの「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」という文章を引いて、兼好は「利き過ぎる腕と鈍い刀の必要を痛感してゐる自分の事を言つてゐるのである。物が見え過ぎる眼を如何に御したらいいか、これが徒然
草の文体の精髄である」と評する。
このことは、さらには小林自身のことをいっているようだ。
『徒然草』に続いて、小林は『西行』を書き、次いで『実朝』を書く。
小林は、『平家物語』で「自然」を、『徒然草』で「批評」を主題とした。そして、西行と実朝という二人の歌人を通じて、小林の精神のもっとも本質的な構成要素である「倫理」と「無垢」という主題をとりあげた。
小林の西行論の特質は、この生得の歌人のうちに、内省的な一人の倫理家を見ているという点にある。つまり、生得の歌人とこういう倫理家とが、西行の歌の姿と調べのなかで、独特の均衡を作りあげているさまを、見定めようとしている点にある。
小林は、西行という存在の意味について、次のように述べている。
「平安末期の歌壇に、如何にして己れを知らうかといふ殆ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあつたのではない。陰謀、戦乱、火災、饑饉、悪疫、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想つた正直な一人の人間の荒々しい悩みであつた。彼の天賦の歌才が練つたものは、新しい粗金であつた。事もなげに古今の風体を装つたが、彼の行くところ、当時の血腥い風は吹いてゐるのであり、其処に、彼の内省が深く根を下してゐる(後略)」
これは、西行のもっとも深いところを的確にとらえた評言であると、粟津はみなしている。つまり、この評言は、小林自身の精神のありようをも、あざやかに照らし出しているという。
西行はこういう歌人であった。
そのような歌人でありえたのは、西行の内省が、ただおのれの内部だけに閉じた運動ではなく、おのれをこえたものによってつらぬかれ、突き動かされていたためであるようだ。
俊成や定家とくらべた場合、西行の歌のはらむ強い倫理性は直ちに見てとりうる。
そして、西行の倫理性もまた、いわば倫理をこえたものによって激しくゆり動かされた。内省が内省をこえようとし、倫理が倫理をこえようとする、そういう点に、小林は西行の歌が生れ出る立場を見ていた。(これは、小林自身の中心的な主題だった)
兼好の批評は、自然と倫理とをおのれのなかで、はげしく衝突させるところから生れたと小林は見ている。西行の歌もまた、同様の衝突を、その内的動機としていた。
小林の西行像は、「天稟の倫理性と人生無常に関する沈痛な信念とを心中深く蔵して、凝滞を知らず、頽廃を知らず、俗にも僧にも囚はれぬ、自在で而も過たぬ、一種の生活法の体得者」という姿で描かれた。
烈しい内省がきわまるところに、ある自由と化する一点を目標とし、この一点を純粋なかたちで体現する存在が西行であったようだ。
このような小林の西行像について、粟津はコメントを付している。
内省と自由が結びつく一点に、性急に西行を現前させようとしているようなところが、小林にはあると、粟津はいう。
たとえば、西行の歌に、次のものがある。
「世をすつる人はまことにすつるかはすてぬ人こそすつるなりけれ」
これに対して、小林は次のように言う。
「思想を追はうとすれば必ずかういふやつかいな述懐に落入る鋭敏多感な人間を素直に想像してみれば、作者の自意識の偽らぬ形が見えて来る。西行とは、かういふパラドックスを歌の唯一の源泉と恃み、前人未到の境に分入つた人である」
この点、粟津は、「思想を追はうとすれば必ずかういふやつかいな述懐に落入る」ことと、「かういふパラドックスを歌の唯一の源泉と恃」むこととを結ぶものが、気にかかるとする。
西行は、そのようにして前人未到の境に分け入ったにはちがいないが、西行がえた自由には、「やつかいな述懐」がはらんでいた生のざらついた雑駁な手触りを、あまりにも見事におのれのなかにとかしこみすぎているようなところがあるという。
小林は、『西行』の末尾で、次の有名な歌を引いている。
「風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな」
そして、小林は次のように述べている。
「一西行の苦しみは純化し、「読人知らず」の調べを奏でる。人々は、幾時とはなく、こゝに「富士見西行」の絵姿を想ひ描き、知らず知らずのうちに、めいめいの胸の嘆きを通はせる。西行は遂に自分の思想の行方を見定め得なかつた。併し、彼にしてみれば、それは、自分の肉体の行方ははつきりと見定めた事に他ならなかつた」
これは、西行の肉体もまた、そのあるがままの姿で、その自由のなかでの純粋なヴィジョンと化したと、粟津は解釈している。そのような西行のありようは、このまま小林の極点をなしているとする。
西行の歩みは、倫理がきわまるところ無垢に達したといえる。
若年期のランボオ論以来、小林の批評の中心にあった無垢という主題は、『西行』に続いて書かれた『実朝』において、そのもっとも純粋な表現を与えられたと、粟津はみている。
小林は、『実朝』の冒頭で、「僕等は西行と実朝とを、まるで違つた歌人の様に考へ勝ちだが、実は非常によく似たところのある詩魂なのである」と述べている。西行と実朝を結びつけているのは、倫理と無垢との美しい合体であった。
もちろん、そのあらわれようは、それぞれにおいて異なっている。
(この点、西行の場合、ラスコーリニコフを思わせるようなところがあり、実朝の場合、ムイシュキンを思わせるようなところがあると、粟津はみている。)
そして、西行も実朝も、その生や制作は、ある強い倫理的動機につらぬかれていて、たとえ彼らが、いかに新古今風の美学に近づいているように見えても、その歌の姿ははっきりと異なると付言している。
たとえば、実朝には、西行のように、ひたすらおのれに執した執拗な内省の動きは感じられないとする。「やつかいな述懐」にのめりこみながら、それを「歌の唯一の源泉と恃」むというようなところは見られない。
実朝の場合、その倫理性は、彼の感覚にとけこんでしまっているようにさえ見える。
小林は、実朝について、次のように述べている。
「頼家が殺された翌年、時政夫妻は実朝殺害を試みたが、成らなかつた。この事件を、当時十四歳の鋭敏な少年の心が、無傷で通り抜けたと考へるのは暢気過ぎるだらう。彼が、頼家の亡霊を見たのは、意外に早かつたかも知れぬ。(中略)さういふ僕等の常識では信じ難く、理解し難いところに、まさしく彼の精神生活の中心部があつた事、また、恐らく彼の歌の真の源泉があつた事を、努めて想像してみるのはよい事である」
そして、小林は、このような源泉から生れる実朝の歌について記す。たとえば、
「時によりすぐれば民のなげきなり八大竜王あめやめたまへ」の歌について、
「彼は、たゞ、『あめやめたまへ』と一心に念じたのであつて、現代歌人の万葉美学といふ様なものが、彼の念頭にあつた筈はない」という。
さらに「殊更に独創を狙つて、歌がこの様な姿になる筈もない。不思議は、たゞ作者の天稟のうちにあるだけだ。いや、この歌がそのまゝ彼の天稟の紛れのない、何一つ隠すところのない形ではないのだらうか」という。
小林のこのような分析は、実朝の生と制作をつらぬく、無垢と倫理性との合体と、その独特のありようを、的確に示している。
実朝に世間一般の歌人に見られるような成熟は見られない。
小林は、西行について、「彼の歌は成熟するにつれて、いよいよ平明な、親しみ易いものとなり、世の動きに邪念なく随順した素朴な無名人達の嘆きを集めて純化した様なものとなつた」と評している。
実朝には、そのようなかたちでの成熟さえなかった。実朝のなかには、人生の時間は流れていなかったとさえ言えると、粟津はいう。何ひとつ拒むことなく、すべてを受け入れる実朝の無垢は、ランボオと同様、おのれを沈黙の状態において、おのれのうえを人生の時間を通過させただけだとも表現している。
そして、西行を論じた小林が、次いで実朝を論じたのも、よくわかるとする。
西行には、無垢と倫理性とのあいだの激しいドラマが見られたが、実朝には、それが消え、すべてがただあるがままに実朝のなかに流れこんでいる。ここには無垢の観念のひとつの極限がある。
次に、実朝の歌の鑑賞について、小林の記述を粟津は紹介している。
実朝の歌「大海の磯もとゞろによする波われてくだけてさけて散るかも」について、小林は次のように言う。
「いかにも独創の姿だが、独創は彼の工夫のうちにあつたといふより寧ろ彼の孤独が独創的だつたと言つた方がいゝ様に思ふ。自分の不幸を非常によく知つてゐたこの不幸な人間には、思ひあぐむ種はあり余る程あつた筈だ。これが、ある日悶々として波に見入つてゐた時の彼の心の嵐の形でないならば、たゞの洒落に過ぎまい」
もうひとつの歌
「うば玉ややみのくらきにあま雲の八重雲がくれ雁ぞ鳴くなる」
この歌について、小林はいう。
「実に暗い歌であるにも拘らず、弱々しいものも陰気なものもなく、正直で純粋で殆ど何か爽やかなものさへ感じられる。暗鬱な気持ちとか憂鬱な心理とかを意識して歌はうとする様な曖昧な不徹底な内省では、到底得る事の出来ぬ音楽が、こゝには鳴つてゐる」
これらの小林の鑑賞は、従来の通念を一挙に打ち破った精妙な鑑賞であると、粟津は評価している。鑑賞にともないがちな迂路に迷いこむことなく、また考証といった作業にのめりこむことなく、集中力をもって、ある中心へ向かっているという。
(それは実朝の中心であると同時に、小林自身の中心でもある。それは小林の批評に一貫する態度である)
ところで、小林は、『平家物語』『徒然草』『西行』について、その思考を推し進めてきた。
〇平家の作者における、無常の思想と厭人も厭世もない詩魂との結びつき
〇兼好に見られる「自然」と生の結びつき
〇西行に見られる無垢と倫理性との結びつき
そして、実朝にいたって、小林の思考はひとつの円を結び終ったように見えると、粟津は理解している。
小林は、実朝について、次のように記す。
「彼には、凡そ武装といふものがない。歴史の溷濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける。これに対し彼は何等の術策も空想せず、どの様な思想も案出しなかつた。さういふ人間には、恐らく観察家にも理論家にも行動家にも見えぬ様な歴史の動きが感じられてゐたのではあるまいかとさへ考へる」
小林もまた、「歴史の溷濁した陰気な風が、はだけた儘の彼の胸を吹き抜ける」のに耐えていた。そのことによって、観察家にも理論家にも行動家にも見えぬ歴史の動きを感じていた。
それは、小林が『実朝』で、実朝と彼をとりまく社会との微妙な交感について、精妙な分析を行っていることからもうかがいとれると、粟津はいう。
小林の場合、このようにして、歴史の動きを感じとることが、歴史をあまりに内面化することとなった。小林としては、このようなかたちで、おのれを純化するほかなかったようだ。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、346頁~360頁)
小林秀雄の本居宣長論
小林秀雄は、昭和40年の6月号から、雑誌「新潮」に『本居宣長』の連載を始めている。
それ以前、小林は、昭和33年から5年にわたって、ベルクソンの思想を綿密に分析していた。
小林は、ベルクソン批評になおもつきまとう合理的分析の作業を、宣長を論ずることによって、さらに乗りこえようとしたと、粟津は捉えている。
ベルクソンを論ずるにあたって、その遺書から小林は始めているが、同様に、宣長論でもまず宣長の墓と遺言書について語っている。粟津はこの点に注意を促している。
宣長は、遺言書のなかで、墓の作りを図解入りで綿密に指定し、おのれの葬式、法事、墓参についても事こまかに指図している。小林は、この遺言書が宣長の「人柄を知る上での好資料であるに止まらず、彼の思想の結実であり、敢て最後の述作と言ひたい趣きのもの」であるという。
そして、そのような宣長を「自分で自分の葬式を、文章の上で、出してみようとした健全な思想家」と小林はみた。宣長にとって、遺言書は、その思考の徹底がおのずから生み出したものであったようだ。だから、「遺言書と言ふよりむしろ独白であり、信念の披瀝と、私は考える」と小林は記している。
この点、粟津は次のように解釈している。
死に対する宣長のこのような姿勢には、宣長自身に対する小林秀雄の姿勢と微妙に対応するところがある。小林は、宣長を論ずるに当って、死に対する宣長の姿勢を模倣することで始めたと解している。そして、宣長論は、小林自身の遺言書といった色合いを帯びると、粟津はみる。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、421頁~428頁)
小林は、宣長の思想の具体的な分析に入るに先立って、契沖、藤樹、仁斎、徂徠といった国学者や儒家について語っている。
小林が目指しているのは、思想史的な影響関係の解明でなく、彼らの肉声に耳をかたむけることである。
契沖は、激しい理想主義と事実に対するきわめて即物的な眼をあわせ持っていた。藤樹も、外部の劇をそのままおのれの内部の劇と化した孤立した意識を持っていた。
仁斎も、一徹な内省によって、『論語』や孔子の動かしようのない「姿」に直面し、それを「見て見抜き」、「『手ノ之ヲ舞ヒ、足ノ之ヲ踏ムコトヲ知ラズ』と、こちらが相手に動かされる道」を行った。
徂徠の学問の支柱には、変らぬものを目指す『経学』と、変るものに向ふ『史学』との交点の鋭い直覚があると、小林は評している。
この徂徠像には、小林の歴史観が濃厚にかげを落としていると、粟津はみている。
小林もまた、人生如何に生くべきかという問いと、歴史を深く知ることとの交点に、その思考を注いできた。
契沖から徂徠の像は、小林の思考を鋭く体現しており、それぞれが小林の自画像であるともいえる。
(たとえば、画家がさまざまな人間の肖像画を描いた場合、それぞれ異なった人相をしていながら、不思議に画家自身に似通ってくるのに類似していると、粟津は説明している)
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、432頁~437頁)
宣長の『源氏』論と『古事記伝』
「物のあはれをしる情(ココロ)の感(ウゴ)き」が極まるところ、われわれは「死の観念」に出会う。
われわれに持てるのは、死ではなく「死の予感」だけである。ただ、われわれは、愛する者を亡くしたとき、「死んだのは己れ自身だとはつきり言へるほど、直かな鋭い感じに襲はれる」。
このように、「他人の死を確める」ことによって、われわれの死の観念は完成する。
そして、小林は、このとき「彼は、どう知りやうもない物、宣長の言ふ、『可畏(カシコ)き物』に、面と向つて立つ事になる」と言う。
(これは、宣長の『源氏』論と『古事記伝』をつなぐ、もっとも本質的な流れであると、粟津は解している)
小林秀雄は、われわれが歴史に出会う契機として、子供を失った母親の悲しみについて、くりかえし語っていた。
小林は、この「可畏き物」に触れることによって、小林の批評の究極に触れたと、粟津は捉えている。
(粟津則雄『小林秀雄論』中央公論社、1981年、450頁~451頁)
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