歴史だより

東洋と西洋の歴史についてのエッセイ

≪石川九楊『中国書史』を読んで その11≫

2023-04-01 18:00:05 | 書道の歴史
≪石川九楊『中国書史』を読んで その11≫
(2023年4月1日投稿)
 

【はじめに】


今回も、引き続き、石川九楊氏の次の著作を紹介してみたい。
〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年
 今回は、本論の次の章の内容である。つまり、元代の書について取り上げてみる。
●第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
ただし、執筆項目は、私の関心のあるテーマについて記してある。



【石川九楊『中国書史』はこちらから】

中国書史









〇石川九楊『中国書史』京都大学出版会、1996年

本書の目次は次のようになっている。
【目次】
総論

序章  書的表出の美的構造――筆蝕の美学
一、書は逆数なり――書とはどういう芸術か
二、筆蝕を読み解く――書史とは何か
第1章 書史の前提――文字の時代(書的表出の史的構造(一))
 一、甲骨文――天からの文字
 二、殷周金文――言葉への回路
 三、列国正書体金文――天への文字
 四、篆書――初代政治文字
 五、隷書――地の文字、文明の文字
第2章 書史の原像――筆触から筆蝕へ(書的表出の史的構造(二))
 一、草書――地の果ての文字
 二、六朝石刻楷書――草書体の正体化戦術
 三、初唐代楷書――筆蝕という典型の確立
 四、雑体書――閉塞下での畸型
 五、狂草――筆蝕は発狂する
 六、顔真卿――楷書という名の草書
 七、蘇軾――隠れ古法主義者
 八、黄庭堅――三折法草書の成立
第3章 書史の展開――筆蝕の新地平(書的表出の史的構造(三))
 一、祝允明・徐渭――角度の深化
 二、明末連綿体――立ち上がる角度世界
 三、朱耷・金農――無限折法の成立
 四、鄧石如・趙之謙――党派の成立
 五、まとめ――擬古的結語

本論
第1章  天がもたらす造形――甲骨文の世界
第2章  列国の国家正書体創出運動――正書体金文論
第3章  象徴性の喪失と字画の誕生――金文・篆書論
第4章  波磔、内なる筆触の発見――隷書論
第5章  石への挑戦――「簡隷」と「八分」
第6章  紙の出現で、書はどう変わったのか――<刻蝕>と<筆蝕>
第7章  書の750年――王羲之の時代、「喪乱帖」から「李白憶旧遊詩巻」まで
第8章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(前編)
第9章  双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(中編)
第10章 双頭の怪獣――王羲之の「蘭亭叙」(後編)
第11章 アルカイックであるということ――王羲之「十七帖」考
第12章 刻字の虚像――「龍門造像記」
第13章 碑碣拓本の美学――鄭道昭の魅力について
第14章 やはり、風蝕の美――鄭道昭「鄭羲下碑」
第15章 紙文字の麗姿――智永「真草千字文」
第16章 二折法と三折法の皮膜――虞世南「孔子廟堂碑」
第17章 尖塔をそびえ立たせて――欧陽詢「九成宮醴泉銘」
第18章 <紙碑>――褚遂良「雁塔聖教序」
第19章 毛筆頌歌――唐太宗「晋祠銘」「温泉銘」
第20章 巨大なる反動――孫過庭「書譜」
第21章 文体=書体の嚆矢――張旭「古詩四帖」
第22章 歓喜の大合唱・大合奏――懐素「自叙帖」
第23章 口語体楷書の誕生――顔真卿「多宝塔碑」
第24章 <無力>と<強力>の間――蘇軾「黄州寒食詩巻」
第25章 書の革命――黄庭堅「松風閣詩巻」
第26章 粘土のような世界を掘り進む――黄庭堅「李白憶旧遊詩巻」
第27章 過剰なる「角度」――米芾「蜀素帖」
第28章 紙・筆・墨の自立という野望――宋徽宗「夏日詩」
第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
第30章 「角度筆蝕」の成立――祝允明「大字赤壁賦」
第31章 夢追いの書――文徴明「行書詩巻」
第32章 書という戦場――徐渭「美人解詞」
第33章 レトリックが露岩――董其昌「行草書巻」
第34章 自己求心の書――張瑞図「飲中八仙歌」
第35章 媚態の書――王鐸「行書五律五首巻」
第36章 無限折法の兆候―朱耷「臨河叙」
第37章 刀を呑み込んだ筆――金農「横披題昔邪之廬壁上」
第38章 身構える書――鄭燮「懐素自叙帖」
第39章 貴族の毬つき歌――劉墉「裴行検佚事」
第40章 方寸の紙――鄧石如「篆書白氏草堂記六屏」
第41章 のびやかな碑学派の秘密――何紹基「行草山谷題跋語四屏」
第42章 碑学の終焉――趙之謙「氾勝之書」
第43章 現代篆刻の表出
第44章 境界の越境――呉昌碩の表現
第45章 斬り裂く鮮やかさ――斉白石の表現

結論
第1章 中国史の時代区分への一考察
第2章 日本書史小論――傾度(かたむき)の美学
第3章 二重言語国家・日本――日本語の精神構造への一考察




さて、今回の執筆項目は次のようになる。


〇第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」
・石川九楊氏の趙孟頫の捉え方
・「仇鍔墓碑銘」の特徴
・仮面の書―「仇鍔墓碑銘」(1319年)
・趙孟頫と比田井天来






第29章 仮面の書――趙孟頫「仇鍔墓碑銘」


石川九楊氏の趙孟頫の捉え方


初唐代から宋代までの中国書史を図式的に示すと、初唐→中唐→宋 楷書⇒行書となるようだ。
初唐代の欧陽詢の「九成宮醴泉銘」、褚遂良の「雁塔聖教序」を頂点とする、非のうちどころのない典型を形成する楷書は、中唐・顔真卿の「多宝塔碑」「顔勤礼碑」に至って、作者の動揺や顔つきの見えるような書へと大きな変貌をとげる。
顔真卿によって切り拓かれた書の新しい段階は、米芾の「蜀素帖」や黄庭堅の「松風閣詩巻」のような、行書体の書へと徹底し、構成上も見事な展開をしていく。これらの書史の道筋は必然的でたどりやすい。

ところが、元代・趙孟頫の「玄妙観重修三門記(三門記)」(1302年以降)や「仇鍔墓碑銘」(1319年)は、これらの書史の流れではとらえられぬような表現へと書が一変するという。
通常、これは王羲之の書の伝統に復古したからだと言われる、と石川氏は解説している。
(これはまさに『書道全集』の「中国書道史」を執筆した神田喜一郎氏の捉え方である、と私は推察している。要約でも記したように、復古主義と明記している[巻17中国12、神田喜一郎「中国書道史12」参照のこと])。

石川氏は神田氏の名を出してはいないが、この捉え方はおそらく文献資料に偏った言い方であろうと批判している。つまり米芾や黄庭堅の書と趙孟頫の書との質的落差は、書を見るかぎにおいては、「王羲之に復古した」といって解読されるものではない、と石川氏はいうのである。趙孟頫は復古的に書を変えたのではなく、きわめてたいくつで通俗的な次元のものに変えたという。悪く言ってしまえば、欧陽詢、虞世南、褚遂良、顔真卿、米芾、黄庭堅らの生き生きと輝き、躍動していた書を、ほとんど死んだ習字手本のようなものに変えてしまったと、こきおろしている。
換言すれば、趙孟頫の文字構成は均整がとれ、安定しているが、筆蝕に生き生きしたところがなく、暗く、生気のないものに書を変えてしまった。現行の習字手本の書きぶりの発生の源流を辿れば、趙孟頫まで遡行でき、空虚さしか孕まぬ書きぶりの出発点になったという意味で、趙孟頫の「三門記」や「仇鍔墓碑銘」は「習字手本の祖」と言っていいとする。趙孟頫の書は江戸時代の日本で盛んに学習された。その書が江戸時代の日本に受容しやすい構造をもっていたからだとする。

そして石川氏の持論である筆蝕という視点からすれば、趙孟頫の「仇鍔墓碑銘」には江戸時代の和様の書、たとえば御家流と共通する筆蝕がある、と石川氏は説く。両者の運筆筆蝕の共通点は、筆に垂直に突き立てるというよりも、いわゆる筆の腹を使って書く点を挙げている。具体的には、一般的に縦画の時には筆尖が字画の左側を通り、横画においては筆尖が上部を通る点が似ている。また横画相互の間隔をつめた扁平な字形構成も、平安時代の小野道風、藤原行成以来の和様の書に似ているとする。さらに起筆、送筆、終筆が明瞭な歯切れのよい区切りをもたずに、三者が溶け合い融合する姿は、和様の書に近似している。
和様の書のように、骨格まで溶けきってはいないけれど、趙孟頫の書もいささか「塗り字」風の、くなくなとした筆蝕の中に骨格が溶けている。そして筆蝕がいささかねじれ、重く、定性的な空虚な姿で現れている。そのような表現が可能になったことも中国書史の新段階である、と石川氏は捉えている。
(石川、1996年、266頁)

「仇鍔墓碑銘」の特徴


趙孟頫の「仇鍔墓碑銘」において、その筆蝕の劇(ドラマ)は、どのように立ち現れているのだろうか。
「仇鍔墓碑銘」の結字、結構、その文字構成は、よく整った見事なものである、とまず石川氏は断っている。
唐宋代の楷書や行書と比較すると、文字を上から圧縮して潰したような字形に収斂するところが、安定しすぎていて悪いと言えなくもないが、北魏の鄭道昭に似た安定性だと考えれば、さほど悪くもないという。

楷書が方形に収斂する顔真卿の構成法は、あまりに安易、単純で悪いと言える。しかし、「仇鍔墓碑銘」については構成上、顔真卿ほど単純単調ではない。
ただ、一転してその運筆過程を逐い、筆蝕を詠み込んでいくと、意外なほどの単純、単調さが浮かび上がってくる。

「仇鍔墓碑銘」の字画の描出法は、相対する縦画は定型的に向勢(向き合う縦画が中凸みのビア樽の側線状)に構成されている。
それよりももっと定型的なのは、横画の描出法である。横画はほとんど中凸みの構成に単一に結果している。いわば上下対称をも含む初唐代の複雑で緊張した字画の構成や描出法をごく単純なものにかえたのは顔真卿だが、顔真卿とてその構成原理はこれほど単純ではないようだ。

ただ、顔真卿の「多宝塔碑」よりは複雑で高次な書字法に見えるのは、複数の書字法と書字原理が混在するからであるともいう。
まず、楷書風と行書、草書風の書字が混在する。それだけではなく、通常ひとつの文字の中で主たる横画の傾きは統一され、全体として、統一された美を形成しようとするのに反して、「仇鍔墓碑銘」の場合には、必ずしも統一性をもっているとは言い難い。ひとつひとつの文字を他字との関係と統一に意をはらわずに書いているとみる。

この種の一字一字が独立した不自然な姿は単位文字について言えるだけではない。
「仇鍔墓碑銘」の筆蝕を見ていると、字画相互の微妙な連続性の欠如が目についてくる。
たとえば、「故」字の最終画など、前画との必然的な脈絡と連続を欠き、独立したいわば波型の形状に書かれている。
趙孟頫の「仇鍔墓碑銘」は、内在的な運筆筆蝕の連続や階調に従うのではなく、外部に想定する規矩に従うかのように、故意につくり上げられており、「のり」が悪いという。
流れを断ち、改めて起筆されるのは、「仇鍔墓碑銘」の定型的書字法である。
たとえば、「丹」字の第二画から第三の点に至る撥ねも、宋徽宗の「瘦金体」以上におかしな形状がいわば故意に附加されたものである。そのため、撥ねと次画起筆部との連続性がまったく欠如し、自然な流れは中断されている。

書は、いわば筆蝕における速度と深度と角度の自然な脈絡を断つことによって価値を有している言っていいほどだから、自然な筆脈の中断、それ自体は一方的に負の意味をもつものではない。
その点で言えば、これらの故意の形状によって、「仇鍔墓碑銘」は、字画と文字との一体性を剝がし、字画と文字構成をわかりやすくし、現在でいう習字手本の祖とでも言えるような、文字の書きぶりを書字史上はじめて書いてみせたとも言えるとする。

趙孟頫は外部に存在する何かに脅迫されるかのように、文字形をつくり上げている。
その点で、「仇鍔墓碑銘」は格調高い書、韻きの高い書とは言えない。
内在的律動が圧し殺され、作為的、渋滞的、窮屈な書である、と石川氏は評している。
「仇鍔墓碑銘」の書は、むろん怱率なものではない。慎重であり、ていねいである。しかし、作者内部から溢れ出るような書字戦略や戦術はうかがえないという。

黄庭堅の書がどんなに字画を分節していようとも、その分節された部位相互は、なだらかな階調によって結合されていた。時間と空間との相互の変容過程が溶融した心持ちのよい統一感のある劇(ドラマ)とリズムを感じることができた。

ところが、「仇鍔墓碑銘」は、時間と空間の関係の変容構造が稀薄なだけでなく、筆蝕の時間的過程変化、空間的過程(深度)変化、あるいは力の過程変化も、内在的、臨場的創造を伴うというよりも、むしろ外圧的、規矩的なるものに従おうとしている。
つまり、筆蝕と構成とは、うまく、書字の現場に投影されず、角度、すなわち書体=文体はためらわれ、くっきりとした姿を現さない。
定着しているものは重い筆蝕のみで、その筆蝕が展開する時間は外在的規矩によって不協和であり、スタイルに代わって型式が優先されているという。
(石川、1996年、268頁~271頁)

仮面の書―「仇鍔墓碑銘」(1319年)


「仇鍔墓碑銘」は、何ゆえか本心を外部に曝すことを禁忌した書、いわば仮面の書であると思えてくるという。この点について、石川氏は次のように説明している。
「過度の外部圧の下、趙孟頫は、いわば美しい仮面をかぶって、美しいふるまいを演じなければならなかった。内面を圧し殺し、ひとかけらも内面を外部に曝さぬように生きるしかなかった。それが南宋の皇族の出身でありながら、元朝の世祖フビライに抜擢され、元朝に仕えて生きるしかなかった趙孟頫の生のスタイルであった。その仮面のような生の姿が書からはっきり覗ける気がする」
(石川、1996年、272頁)

ところで、高村光太郎は、「書について」の中で、趙孟頫について次のように表現している。
「後年の名筆であつてしかも天真さに欠け、一点柔媚の色気とエゴイズムのかげとを持つ趙子昻の人物」という。
この点、石川氏は次のように批評している。
「趙孟頫の書の批評についても証明力に欠ける。だが、趙孟頫の書の「仮面性」という結論だけは、直感的に的確に言いあてていると思う」と。趙孟頫の書に「仮面性」を認めている点は両者とも共通しているようである。
(石川、1996年、271頁~272頁)

趙孟頫と比田井天来


伏見冲敬は「趙子昻・仇鍔墓碑銘」の中で、次のように記している。
「私はかつて、比田井天来先生の書庫を分類整理したとき、最初、宋・元・明という風に山積みしていったところ、元の山が他を抜いて高く、殊に趙の法書が多いのに驚いた。天来先生の用筆法研究の道程で、この資料が果した役割が推察できる。普通一口に「六朝風」呼ばれているわが一六・鶴鶴の両先覚も、実はその基礎は趙書であったことを知らぬ人もいるようだが、明清以来、名家といわれる人で趙の書を一度は習ったことのないという人はあるまい。」
(石川、1996年、272頁より)

伏見冲敬が、じかに目撃した比田井天来の学書の証言は興味深い、と石川氏はいう。
趙子昻の、塗り込めるような重い筆蝕は比田井天来の書に共通点があるようだ。
その仮面のような書の姿もまた、比田井天来の<書線>段階の書の姿と似ている。
そして、この仮面のような書の中から、筆蝕の重さを必然化する事情を染み抜きすれば、現在の習字手本の書に結果する。
現在の書壇では、趙孟頫の書など話題にも上らなくなったが、江戸時代以来、趙孟頫の書は日本で熱心に学ばれた書であった。
(石川、1996年、272頁)



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